どこか遠くで、”声”がした。
『ねぇ………』
どこで、私を呼んでる?
誰が、私を呼んでる?
場所は分からなかった。けれど確かに、誰かがどこかから呼んでいた。
『………ってば……』
聞き慣れたような、抑揚のない”声”。落ち着いていて、ゆるゆると染み込んでくる”声”。
誰だろうと、ただ思うだけの自分とは違い、ぼやけた何処かで、別の意識がその居場所を探し始める。
『ねぇ、。ってば。…………いい加減に……』
そこでようやく、自分が眠っていることに気付いた。
[決定事項]
「………いい加減に起きなよ。」
「んぁ…?」
声の主を特定できたと同時に、今度はハッキリと聞こえて、パッと目を開ける。
しかし、体はまだ寝起きということもあってかまともに返事が出来ず、なんとも間抜けな声を出してしまう。口の中が乾いていた。おそらく、開けたまま眠っていたのだろう。
「………切り裂かれたいのかい?」
「んー、分かった…。もう起きるから…。ありがとね。」
まだ重い目蓋をこすりながら体を起こして、少年に礼を言う。すると「…はぁ。」とこれ見よがしな溜め息が降ってきた。
ようやく頭も完全に起きて、最後とばかりの欠伸をしていると、少年が右手を差し出していることに気付く。
「なに?」
「……さっさと起きなって言ってるのさ。」
「ん、ありがと。」
もう一度礼を言い、差し出されたその手を取る。
暖かいと感じたのは、少年の体温が、自分のそれより若干高いからだろう。
起き上がることを助けるために差し出された、その手。繋がれた右手に全体重をかけた。
と。
「ちょッ……!!?」
「おーっ、とぉ……。」
勢いに耐えられなかったのか、それとも自分のウェイトに負けてしまったのか、少年がそのまま引っぱり込まれてベッドへ突っ伏した。自分といえば、ボスッ、と音を立ててその下敷きになる。
「っつ……」
「あー、ごめん…。ちょっと勢いつけすぎたわ…。」
「……ッ、つけ過ぎだよ!」
とりあえず謝ってみた。いくら少年が非力(失礼)とはいえ、それを全く考慮することなく、遠慮なしに体重をかけてしまった自分に非があると思ったからだ。
少年は、鼻をぶつけたのか、そこを押さえて立ち上がったが、一言だけでベッドからどいたのを見る限り、どうやらお説教を食らわずには済みそうだ。
ふわぁ、と欠伸をしながら一人で起き上がる。その伸び伸びとした姿を見とがめてか、少年が「起きれるなら、最初から自分で…」などブツクサ言っているが、とりあえず聞かなかったことにする。
部屋に備え付けられている椅子に腰掛けると、その正面に少年が座った。
「あー、おはよう。」
「………。」
「おはようっつってんだから、おはようって返せないかなぁ?」
「………ちゃんと起きたね。それじゃあ、僕は行くから。」
本当に一言で済むはずの一声を拒否して、少年が立ち上がる。わざわざ自分の正面にまで座っておいて、すぐに立つ。その意図が分からない。
そう思いながら、部屋を出ていこうとするその背を見つめて、ふと気になった。
「ねぇ、ルック…。」
「……なに?」
「もしかして………私を起こすのに、時間かかった?」
目を覚ます前から、ずっとずっと自分を呼んでいた”声”。それが目の前の少年と分かっていたが、あえて聞いてみた。
すると彼は、何か躊躇するよう暫く口を閉じていたが、やがて言った。
「…………の命令とはいえ、こっちは、いい迷惑だよ。」
「あー、やっぱり…。ごめんね、ありがとう。」
「まったく……なんで僕が、こんなこと……。」
小さく呟いて、ドアを開けかけた少年。もう一度だけ、止めてみた。
もう一度振り返ったその表情は、『まだ何かあるの?』と不満げではあったが、それを笑みで無視すると「朝ご飯は?」と聞いてみる。返ってきたのは、「…いらない。」という言葉。
可愛げがないと思ったので、素直にそれを口にすると、どうでもいいよという返事。
「ったく……。あんた、本当に素直じゃないよね。」
「なに言ってるのさ? 僕は、いつでも素直だよ。」
「……まぁ、そこがまた、お姉さんは可愛いと思うよー?」
「……………。」
冗談めかして言ってやると、彼が口を閉じた。ついでに部屋を出ることなく、開けていたドアも閉じた。いつもとは違う、少し怒りが込められたような、バタン! という音。
あ、怒ったか? それもまぁ、可愛い所ではあるけど。
そう思っていると、彼は言った。
「………きみさ。少しは、自覚した方がいいよ。」
「なにを?」
「その物言いからして、すでにきみの方が子供だってこと。」
「……はぁ?」
私のどこが子供なわけ? と聞いた。返ってきたのは「全部だよ。」
分かってないなぁ! そう言うと、「分かってないのは、きみだよ。」
世間じゃ、大人なさんなんですけど? すると「知らぬは本人ばかりなり、って言うよね。」とのカウンター。
「……………。」
なんとなく面白くなくて、目にも止まらぬ早さで立ち上がり、彼の頭をド突いた。
ゴン!という音が部屋に響き、少年は、声にならない声を上げてその場でうずくまった。
「っーーーーー!!」
「ほんっっっっっっとに! 可愛げないよねぇ…。」
頭をおさえてうずくまる彼の前にしゃがみ込み、参ったかと笑ってやると、彼は顔を上げ涙目で眉を吊り上げた。
「くッ………………きみ……!」
「あんだよ?」
「僕の頭がどうにかなったら……どうしてくれるのさ?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。馬鹿になるだけで、死にゃしねーだろ。」
かかか、と笑ってそう言ってやる。死ぬ程の力を込めて殴っているわけじゃないだろ、と。
むしろお前は、多少馬鹿になった方が良いんじゃない?
そう続けてやると、彼はゆらりと立ち上がった。その表情は、俯いているために伺えないが、怒っていることだけは分かる。ということは、次に来るのは『切り裂き』か?
そう考えながら「ほらほら、どうした?」と笑って見せる。
だが、彼は何も言わない。
「……………。」
「……あれ? 本当に馬鹿になっちゃったの?」
多少馬鹿になった方が良いとは思ったが、それにも程度がある。本当に異常をきたしてしまったのなら、早くホウアンに看てもらった方が良いかもしれない。
そう思い手を伸ばすと、パシッ! と良い音で払われた。
そして彼は、こう言った。
「………死んだら……………化けて出てあげるよ。」
知らず、「…は?」と声を出していた。非常に珍しいと思ったからだ。
目の前の少年が、そんな『冗談』を言うとは。
本当に少しだけ馬鹿になり、ジョークの一つも言えるようになったのだろうか?
口を開けて放心していると、少年はスイと目を逸らした。それは実に気まずそうな、バツが悪そうな表情。それが何とも可愛くて、また手を伸ばした。だが、やはり良い音をさせて払われてしまう。
「ルッ…」
「……そういえば、が一緒に食事したいって言ってたよ。」
「え? って、ちょっと…!」
言い終えるや否や、彼は止める間もなく出ていってしまった。
中途半端に伸ばした手に、気付くことなく。
「……………。」
またも口を開け、放心した。
しかし、それからすぐに我に返り、眉を寄せて今しがた少年の出ていったドアを見つめる。しゃがんだ体勢から胡座をかき、あの態度の意味を捉えようと、頭を働かせた。
しかし、いくら考えてみても、その答えは見つからなかった。
結局、首を振って立ち上がる。
「……化けて出るっていうか………常に後ろにくっついてそうで、恐いわ……。」
そう結論づけて、おお恐ッ!と、大げさに身震い。
もう一つ伸びをしてから、今日も一日頑張りましょう! と、ドアに手をかけた。