「この国を……あんたの紋章の『支配』から、解き放つ。あんたが『それ』に囚われていようがいまいが、関係ない。ここから先は……すべて、私に一任してもらうよ…。」
 「…………。」
 「それに、あんたも分かってるはず……。このままじゃ、いけない事に…。」

 自分の発した言葉に、男────ヒクサクは俯いた。



[新たな決意]



 長く、濃い睫毛に縁取られた、ペールグリーンのその瞳。
 急激な覚醒からか、酷く憔悴しているように伏せられたそこからは、ポタリと涙が零れ落ちた。

 ハルモニア神聖国、最高権力者。
 その、実体なき者の『器』として使用されていた彼は、肩を震わせ泣いていた。
 それを目に、その背にそっと手を添えてやる。

 やがて彼は、小さな声で言った。

 「…っ……私は…………打ち勝つことが出来なかった…。」
 「…………。」
 「打ち勝つことが………っ…これの真の『主』となることが、出来なかった……。」

 震える彼の右手には、淡く輝く紋章。
 『円』と呼ばれるその紋章は、自分に封じられた為か、徐々にその光を失っていく。

 「これと、私の求めるものは…………いつからか、道を違えていた……。」
 「……道?」

 その言葉に問いかけると、彼はゆっくり頷く。

 「……これの求めるものは、いつしか…。いや、この国を立ち上げたあの時から………変わってしまった…。」
 「どういうことだ…?」
 「…紋章にも……”意志”がある…。それは、知っているだろう…?」

 音も立てずに、彼の右手が、自分の肩に置かれる。

 「あの時……私は、ただひたすらアロニアを倒すことだけを考えていた…。この紋章の『本来の目的』にすら気付かずに…。」
 「……………。」
 「これは、私を……主として認めてはいなかった…。これは、きっと主など必要としてはいなかったのだ…。ただ、器を欲していただけで…。」
 「ヒクサク…。」
 「でも私は、それでも構わないと……これを宿し続けた…。愛する者が……そして、この”想い”が、叶うならと………これを宿し続けた。だが……」

 ふ、と、彼が息をついた。震えは、その唇にも届いている。

 「私が、あの時、気付けていれば…。あの日………全て終わったあの時に、これを…………”死”を選んででも、これを封じていれば…!」
 「全部……過ぎたことだ…。」

 彼は、その言葉に静かに頷いただけだった。
 分かっているのだろう、彼は。英雄と詠われたはずの過去を悔いても、今さらどうしようもないことを。でも言葉にせずには、いられなかったのだ。

 「皆を置いて………この地を去ることが出来なかった…。自由を欲していたはずだったのに、それでも、残していくことが恐かった…。だから、ここに残り………この国の長として、生きる道を選んだ…。」
 「なぜ……」
 「言っただろう…? 私と紋章の望みが、違っていたと…。私は、多くを望み過ぎた……。愛する者たちから離れて生きることを選べなかった…。置いて逝くことが……”死”が恐ろしくて、これを封ずることも出来なかったのだ……。」

 彼は、また一つ息をついた。
 そして、次に放った言葉こそが、彼の『本心』なのだと理解した。

 「愛した者を………そして、自分の願いを叶える為に……………これの”意志”に負ける事こそが、全てを守るただ一つの方法だと………そう思っていた…。」

 それは、愛する者を”想う”が故。そして、自らの願いの成就を”想う”が故。
 彼は、自分という存在を封じられてまで『静寂なる器』と成り果てたのだ。
 だからこそ、自ら『円』に囚われたのだ。

 「けれど…私のこの想いが、結果、誰かを傷つけ………数々の戦乱を招いてしまった…。」
 「…………。」
 「私の誤った”選択”が、この世界を巻き込み………狂わせてしまった……。」
 「……もういい。」
 「私は…」
 「ヒクサク……もういいから…。」

 彼は、顔を上げた。未だ震えのおさまらぬその肩から手を離す。

 過去、彼が『過ち』という名の選択をしていなければ、確かに歴史は変わっていたのかもしれない。しかし、それはもう過ぎたこと。『過去』とは、終わってしまった事を指して言うのだから。

 「私は……これからやるべき事がある。」
 「………あぁ…。」
 「あんたがどうしようと、何を考えようと……私は構わない。でも、私のしようとする事に、今後一切手出しはしないで欲しい。…………それだけだ。」
 「…………分かった…。」

 そう言って手を差し出すと、彼は、それを取ってゆっくり立ち上がる。

 「それと、もう一つだけ…。あんたは、これから先…その紋章に立ち向かわなくちゃいけない。」
 「……そう、だな…。」
 「私は…………いつかきっと……────する時が来る…。それまでに、あんたには、それを抑えるだけの”意志の力”を取り戻して欲しい。」
 「……ありがとう。」
 「礼なんかいらない……。私があんたに望むのは、それだけだから……。」

 自分の知っている『彼ら』より、若干上背のある彼。一つ頷くと、今しがた座っていた場所へ腰掛け、ふっと息を吸い込んでいる。
 その姿に重なるのは、苦く懐かしく感じる、あの風の子。

 「……………。」

 踵を返して、部屋を出た。
 辛い思い出と、あの子が見ていただろう『灰色』の”先”に、今はそっと蓋をして・・・。






 「統べる者………か……。」

 誰もいない閉ざされた部屋で、ヒクサクは、ポツリと零した。
 封ざれていた時より『円』と一つの体を共有していた彼は、知っていたからだ。
 そう・・・・・知っていた。

 歴史の中に数多く刻まれた、残虐非道たるハルモニアという国。彼女の師である女性の一族を滅ぼし、更には彼女の家族を死へ追いやった。
 しかし、全ての根源は、他でもない自分。

 言葉にする事でしか、自分は術を持たなかった。
 今は、もう安らぎを手に入れ、永遠の眠りについた者たちに。
 今は、もう決して帰ることの出来ない、あの過去に。

 決意たる、新たな想いを秘めて・・・・・

 「……今度こそ………私は、抗おう…。それが、例え…………この身を滅ぼすことになったとしても……。」

 静かに顔を下げ、瞳を伏せる。
 その僅かな動作で、己の体を包んでいる衣が、微かに揺れた。