「お帰りなさいませ、お坊ちゃま。…どうかなさったのですか?」
 「あぁ、ローリーンか…。少し、話を聞いておくれ…。」

 友好条約の決定会議。
 それが執り行なわれただろう神殿から帰って来たかと思えば、途端、ヘナヘナと凭れ掛かってきた主の肩に手を添えて、専属メイドは『面倒な事にならなければ良いが…』と小さく嘆息した。

 入浴やら着替えやらを終え、自室のソファへ突っ伏した主に、そっと紅茶をさし出す。しかし彼は、「ありがとう…」と言っただけで、その体勢を変える事はなかった。
 幼い頃に請け負ったハンディ。その性質上、必ずと言って良いほどに『定位置』を求め、またそれに徹していた彼は、どちらかと言わずとも『己』という存在に対してネガティブで、自信を持った試しが無い。
 だが、そんな彼が、定位置すら忘れてぐったりとソファに突っ伏しているのだ。

 その姿を見て、ローリーンと呼ばれたメイドは、もう一つ溜息を落とした。

 「お坊ちゃま…、何があったのです?」
 「はぁ…参った…。」
 「…分かりました。では、私は、これで失礼させていただきま…」
 「ローリーン…。それは、少し冷たいと思う…。」

 これ見よがしに、三度目の溜息を落として退室しようとすれば、待ったをかけてくる主。

 「そもそも、ご帰宅なさって直ぐに『話を聞いてくれ』と仰ったのは、お坊ちゃまでございますよ。」
 「そうだけど…そうなんだけどさ…。」
 「そこで萎びるくらいなら、私に話して下さいませ。」
 「萎び………うん。」

 この主の面倒を見るようになって、長い月日が経つが、本当に面倒な性格だ。
 そう思いはしたが、口には出すまい。面倒な事になるのだけは、分かっている。
 と、彼が、ポツリと呟いた。

 「ヒクサク様がさ……ようやく、お姿をお見せになられたんだ…。」
 「今、なんと…?」
 「だから、ヒクサク様が…会議場にお見えになったんだ…。」
 「まぁ! それはそれは…」
 「だからさ…」

 そう言って、主が言葉を区切った。
 表情は見えないが、恐らく、非常に面倒臭そうな顔をしているのだろう。

 「これから先………国が動くよ……。はぁ…参った…。」





[暗躍者たち]





 「それじゃあ、俺は、少し出かけて来るからな!」

 決定会議終了後。
 部屋に戻ってきたかと思えば「少し休む…」と言って寝室へ入ったを見届けてから、暫く。
 実に爽やかな顔でそう言った同僚を、ルカは、思いきり睨んで引き止めた。

 「…おい。」
 「ん、なんだ?」
 「出かけてくる、だと? こんな時間から、何処へ行く?」
 「会ってみたい奴がいるんだ。そこへ行って来る。アルベルト。」
 「…はい。既に手配は済んでおりますので、お気をつけて。」
 「待て。まだ話は終わっておら…」
 「あ、何かイレギュラーがあった場合は、日を跨ぐかもしれない。でも、明日の朝までには戻って来れると思う。それじゃあな!」
 「おい! 待…」

 バタン。
 一連の自分の問いを全てアルベルトに丸投げしてまで、あいつが会いたい人物とは、誰か。
 思いきり舌打ちしてアルベルトに視線を向けるも、彼は、問われるまでは黙秘に徹するつもりなのか、何やら紙に筆を滑らせている。

 「…おい、アルベルト。」
 「はい。如何いたしましたか?」
 「あいつの行き先は、何処だ。」
 「申し訳ありませんが、様より、絶対に誰にも話すなと言い含められております。勿論、貴方やササライ様、そして様も例外ではございません。」
 「…チッ!」

 やこの男が結託している、という時点で、事情が事情なのだろう。自分や、そしてササライは表側。そして、この男達は、言うまでもなく裏側だ。分かってはいるが、正直、面白くはない。
 すると彼は、「ご承知でしょうが…」と前置きしてから、こう言った。

 「これが、私と様に与えられた『役割』です。」
 「…勝手にしろ。」

 分かっている事に対して釘を刺される。これほど腹立たしいものはない。
 だからルカは、それだけ言って部屋を後にした。



 「…ふぅ。」

 かつて狂皇子として恐れられていた男が、苛々顔で部屋を出て行った後。
 アルベルトは、ふと作業の手を止めて、一つ息を吐いた。
 彼の苛立ちは、分からないでもない。表側、裏側と真っ二つに分けてはいるものの、はっきりと目に映るように、仲間である者に『秘密裏だ』として動かれれば、面白くないのも当然といえば当然だ。
 しかし、それも必要だったからこそ、なのだろう。が敢えてそうして見せたのは、恐らく、ルカに対する”優しい壁”だ。

 「………。」

 そこまで考えて、ふと、今回の件に関して思い返す。
 実は、今日この日に出かけるのは、自分のはずだった。アルベルトは、事前ににその役を買って出ていたのだが、彼は、どうやらその『会ってみたい奴』に大変興味を示したようで、自らその任についた。長く生きている分、得るものの殆どは怠慢に見えて、新しい刺激に飢えているのかもしれない。
 新たに自分の上司となった彼は、前上司とは比較にならないほど行動的で、また面白そうだと思ったモノ(自分を含め)は、恐れることなく直ぐに手に取る性格だ。

 そして、あえて今日この日と決めて彼が出かけたのには、それなりの理由があった。

 軍師と呼ばれる職業は、実に難儀ながらも、きめ細やかな周到さを必要とするものだ。その日、その時、絶妙なタイミングを予め計っておくと同時に、最悪のイレギュラーをも推測しながら、細心の注意を四方八方に向けて、着々と行動していく。

 本来ならば……本来ならば、ルクデンブル家の前当主ポール=ルクデンブルが、に殺されたその日の内に、その『会ってみたい奴』にアクションを取っておくものだろう。
 しかし、彼は、そうしなかった。いやしかし、今日この時ほど絶妙なタイミングは無い。

 だからこそ、彼は………ヒクサクが再び人前に姿を現したこの日、友好条約の決定が成されたこの時を選んだのだろう。

 彼が会いに行く人物は、提示されるであろう二つの道、どちらを選択するのか。
 彼の性格を考えれば、彼自身が提示する二つの選択肢以外、相手に決して選ばせるはずもない。

 「…さて。」

 アルベルトは、頭を切り替えた。
 これから自分が手配する物事と”それ”とは、道筋や必要性は同じでも、さして関係の無い事だったからだ。
 それから先、部屋の中には、サラサラとペンの走る音だけが続いた。








 「では……貴方は、『その申し出を断れ』と。私に、そう仰りたいのですね?」
 「そこまでは申しておりませんよ、ラーズリー殿。」

 夜の帳がおり、数刻。
 急を告げる使者から訪問を旨とする手紙を渡され、それと準備を整え終えぬ内に、手紙を寄越した者の来訪。
 あっという間の就任劇を経た、あの幼い副神官長の補佐である人物は、自分に握手を求めながらその口元に笑みを乗せ、と名乗った。

 彼の訪問理由。それが分からないではなかったが、如何せん、なぜ今このタイミングなのか。ラーズリーには、その真意を探る必要があった。

 「よくよく考えて、ご決断頂きたいだけです。ハンベル家きっての名当主と言われた貴女のことだ。愛弟子の意を汲み、あえて矢面に立つことで、今までのような”無為な時間”を長引かせるか……それとも、我らが意を汲み、そのお立場のままでおられるのか。道は、二つに一つという事も、ご承知いただけているのでしょう。」
 「無為な時間、ですか…。」
 「えぇ。」

 それは、この国の歴史をさしているのだろう。それは、この巨大な国だからこそ分かたれた『神殿派』と『民衆派』の、水面下での争いをさしているのだろう。
 しかし、分かってはいる。分かってはいるのだが、そうはっきり言い切られると、これまでの自分たちを…死んでいった者達を蔑まれているようで…。
 なんと……虚しいことか。

 「私からすれば、これまでこの国で起こった経緯、それら全てをひっくるめて判断すると、全くの”無為”としか言いようがない。」

 この男は、なんとはっきりと……なんと、虚しいことか。

 「今までは、それで良かったのかもしれません。ですが、これからは……察しておられるでしょうが、今までのようにはいきません。」

 瞬く間に『神殿派』から絶大な人気を得た、あの幼き副神官長の台頭。
 これまで、全くと言って良いほど姿を見せなかった、最高権力者の登場。
 そして………友好条約の決定。
 これらに鑑みれば、これから先この国は、大きく動いていく。いや、彼らが”そう”していくだろう。

 「ですから、これをチャンスだと考えて頂きたい。そう申し上げているだけです。この期を『期』として認識している貴女だからこそ、そのチャンスを最大限に生かして頂きたい。」
 「………。」
 「私としましても、下手に混乱を長引かせたくはない。それに…」

 そう言って、彼は、言葉を区切った。
 そして、それこそが、真に自分へ向けたかった言葉なのだと知る。

 「貴女の愛弟子……“彼”の為にも。貴女には、出来ることならこのままの立場に居て頂きたいと思っています。」

 これは、申し出などではない。これは、警告だ。
 自分が、今の立場を取り続ければ、”彼”が矢面に立たされる事になるだろう。しかし、自分が矢面に立てば……目の前の男は、”彼”を……。

 「最終的なご決断を下されましたら、是非、ご一報下さい。」

 言い終えると彼は、静かに席を立ち、扉へ向かった。
 しかし、その背中に、これだけは問いかけておかなくてはならない。

 「殿…。貴方を信用しろ、と?」
 「信用?」

 すると彼は、すぐさま振り返り、大袈裟なほど肩を竦めてみせた。

 「いいえ。私は、貴方に『信用』や『信頼』を置いて頂きたいなどと、爪の先ほども思っておりませんよ。」

 この男は……何を考えている?

 「犠牲が多いか少ないか。…私個人としては、そのどちらでも構わないのですよ、ラーズリー殿。いつの時代も、国が大きく動く時には、それ相応の血が流れるものです。流れなかった試しなど無い。それが常なのだと、私は、嫌というほど経験していますからね。」

 嫌というほど、とは言ったが、その瞳に写るのは確固たる未来。過去を振り返る時間すら惜しいとでも言いたげなその表情は、目の前の男が、如何に大いなる目的を持ってこの国に入ったのか、よく表していた。
 何と強い眼差しであり、また、なんと物悲しい色を灯しているのか…。

 「ただ……もし貴女が、私の本音を欲しているのなら、それには誠意を持ってお答えしましょう。」

 直後、その瞳に宿ったのは、紅蓮。

 「…簡単な話だ。『この国を、かつてない戦乱に導く』。ただそれだけで良い。何処をどういじってやれば、この国が簡単に壊れるのか……貴女もよくご存知だろう?」

 酷く好戦的で、口調も挑発的なそれに代わり、笑みすら浮かべている目の前の男。
 …なんということだ。彼は、この国の先など、まるで見ていない…。
 張りつめる空気を何とか飲みこみ、ラーズリーは、負けじと男を睨み返した。だが彼は、それを真正面から受け止め、次にこう言ったのだ。

 「ただ俺は、”それ”は絶対にしない。約束する。何故なら、それは、彼女の本意じゃないからだ。俺は、彼女が想い描いている通りの道を、想い描いている通りに切り開いていきたい。ただそれだけなんだ。そこに、俺に対する他者の『信用』や『信頼』は、一切必要としない。利害関係を、相手が沿えるように一致させてやれば、それで済む話だからな。」

 だからこそ…なのだろう。だからこそ、自分の愛弟子である”彼”を、表舞台に引きずり出す必要があるのだ、と。
 彼は、そう言ったのだ。

 「ですが、あの子は…」
 「ラーズリー殿。考えてみてくれ。今、”彼”を表に出しておいた方が、貴女や彼にとっても先が望める。やれ『神殿派』だ『民衆派』だのと…それこそ、俺のような本音を持つ奴に、簡単に突き崩される格好の的だと思わないか? まぁ俺は、彼女さえ頷いてくれるなら、とっとと全部壊して終わりにしたいんだけどな。」

 …この男は、危険だ。派閥争いに辟易しているのは、なにもこの男や自分だけではない。
 その本音は、至極真っ当。しかし、この国に住む者達にとっては、死活問題でもある。仮に国家が立て直せない程に壊れたとして、他国に流れる事も出来なくはない。だが、それまで自分達が国内で行ってきた全てが、自分達に報いとして返ってくるだろう。
 だからこそ、この男は危険だ。しかし、その思想に淡い期待を抱いてしまう自分も、同時に存在していた。

 自分がそうして思慮している間にも、彼は、それを邪魔しない程度の声量で、言葉を紡いでいく。

 「色々と考えることも多いだろうけど、それでも貴女が愛弟子を庇うなら、それはそれで構わない。彼女の敵と判断した者を”排除”していくのが、俺の仕事だからな。」

 あぁ…。この男は、決して許しはしない。
 提示された、二つの道。その一つである、自分が矢面に立つという道。彼の言った『想う通りの道』が最短で描けるだろう、その道を自分が選ばなければ、あの子は……躊躇なく、この男に追いつめられるだろう。

 「でも、正直な話。貴女の愛弟子の未来を奪うことは、この国最大の不利益になると考えている。使える人材は、多いに越したことはないからな。」
 「…なるほど。そういう事だったのですね。」

 致し方ない。致し方ないが、正直、男の放った言葉を聞いて、安堵した。
 『この国最大の不利益』という言葉は、それだけラーズリーの先の憂いを消し去るだけの威力を持っていたからだ。
 それならばと、苦い想いは隠せないものの、納得することができた。あの子の未来を、この男が開いてくれるのならば…と。

 「分かりました。貴方の申し出、お引き受け致します。」
 「あぁ、良かった。理解してもらえたようで、何よりだ。」
 「ですが…」
 「あぁ、分かってる。それに関しては、安心して良い。」

 もし、貴方が約束を違えた場合は…、と続ける間もなく、男は爽やかな笑顔で頷いた。
 静かに見据えれば、彼は、扉のノブを回しながら、一言。

 「俺は、守れない『約束』は、決してしない。」

 愛弟子が愛弟子でいる限り……あの子があの子で居続けることが出来たのなら、この男は、決して自分たちを裏切るまい。
 そう確信を持てたのは、その言葉が、揺るぎない彼の本音だと思えたからだ。

 そしてその言葉は、先ほど、彼自身が言った『利害関係を、相手が沿えるように一致させてやれば、それだけで済む話』なのだろう。
 だからこそ、信用や信頼はいらないと、そう断じたのだ。

 あるのは、『約束』だけで良いと…。

 後の憂いは、晴れた。
 しかし、ラーズリーは、これから愛弟子が身を投じるであろう激動の時代を想って、零さずにはいられなかった。

 「許して……………サーズ……。」