「これを、渡してこい。」



 「………………はぁ!?」



[小一時間・1]



 夜。
 ハイランド王国、首都ルルノイエにある皇居の庭園に、は侵入していた。

 風はなく、雲が陰り、月の光の届かぬその場所。
 転移で来ることは控えた。なまじ、その使用は光を伴ってしまうだけに、この時間での使用は憚られる。衛兵の目を忍び、高い塀を越えることで、ようやく庭園まで侵入できた。

 足音を消しながら近くにあった窓を覗くと、そこに人影のないことを確認して、木枠に手をかける。ギ、と小さな音を立てて、窓が開く。皇居であるはずのこの場所に、鍵がかかっていない事に驚いたが、まぁそういう事もあるか。そう考え直して、そっと体を滑り込ませた。
 部屋に入ってしまえば、こちらのものだった。長い年月の旅の成果を、ここぞとばかりに発揮する。
 人の気配を探るのは、慣れたものだ。余程の手練でない限り、見つからない自信がある。

 通路へ出る為の扉を僅かに開き、そっと耳を傾ける。足音、呼吸音、衣擦れの音。そのどれもが聞こえない。それを確認してから、素早く部屋から出て、音を立てないように扉を閉めると、気配を殺し足音を殺して、廊下を一気に駆け抜けた。



 さて、どうするか。
 二階へ続く、階段。その大扉が見える位置にある物陰で考えた。
 大扉の前には、衛兵が二人。豪奢な装飾の施された槍を、これ見よとばかりに手にしている。
 近づき、声を上げられる前に殴って気絶させる事も出来たが、それでは面が割れるだろう。何より、後々面倒事となって自分に返ってくるのは明白だ。
 自分は、皇居を騒がせに来たわけではない。いうなれば”お使い”で来たのだから。

 だが残念な事に、二階へと上がる階段は他には無いようだ。
 それなら仕方がない。そう思い、刀の柄に手をかけた。

 その時。

 反対側の廊下から、一目で将と分かる人物が歩いて来た。これはマズイ。いや、ある意味チャンスか?
 咄嗟に物陰に身を隠し、先にある大扉に意識を向ける。将らしき人物は、大扉の衛兵達に何か話した後、踵を返して今来た道を戻っていった。
 なんだ、ただの世間話か? いや、そんなわけないか。
 そう考えていると、衛兵達は何事か話してから、その将の後を追うように大扉から離れた。

 「………ふふ。やっぱり、日頃の行いが良いからだね。」

 ニヤリと一人ほくそ笑み、廊下を駆け抜け、大扉に手をかけた。






 カチャ・・・。

 その音に、ハイランド王国の皇女ジル=ブライトは、目を覚ました。
 静かに目を擦り、ベッドから身を起こす。
 一体、何の音?
 ベッドサイドに置かれていたランプに火を灯してから、音のした部屋の扉へと目を向けた。

 「…っ……!?」

 悲鳴は、声にならなかった。その代わりに口を覆われ、ベッドに押し倒される。
 ッ、何をするの!?
 そう叫ぼうにも、口を封じられてしまっては、人も呼べない。力いっぱい暴れてみたが、相手はそれを屁とも思わないのか、己の両手を片手で軽々拘束し、暴れさせない為か、両足を封じるようにのしかかった。文字通り、手も足も出ない。
 気丈に振る舞おうと思っていても、恐怖で全身が硬直する。固く目を瞑った。

 「っ……っ……!!」

 早く、誰か呼ばなくては・・・・。
 誰か、誰か・・・・。
 すると、それまで黙って自分を拘束していた者が、宥めるよう、静かに言った。

 「……ごめんね。何もしないから、静かにして。」
 「……?」

 それは、落ち着いた優しい声だった。それまでの恐怖を、打ち消すような声だった。
 ジルは、ゆっくりと目を開けた。

 ・・・・・・・女性?

 まず、それに驚いた。



 言われた通り静かにすると、まず拘束が解かれた。次に優しく手を取られて、ベッドから起こされる。
 女性は、ゆっくりとした動作で離れると、真正面に立った。

 「貴女は……何者です…?」
 「…………。」

 問うも、女性は答える気すらないのか、じっと自分を見つめている。

 「もう一度、聞きます。貴女は……何者なのですか?」
 「……名乗るつもりはない。でも…」

 そう言って、女性が言葉を区切る。それがもどかしくて、先を促した。

 「でも、なんです?」
 「………今は……敵じゃない。」
 「今は…?」

 その言葉に、疑問が浮かぶ。それを遮るように、女性は懐から何かを取り出すと、それを目の前に差し出してきた。

 「これは……?」
 「…………。」

 女性が差し出したのは、銀のロケットペンダント。だが、自分の問いに、やはり答えることはない。
 けれど、このペンダントは、どこかで・・・・。
 ロケットを受け取り、留め具を外す。そして、その中に描かれた”人物”を見た。

 「っ……!!」

 思わず、息を飲んだ。

 銀のロケット。それに施された装飾。描かれていた人物。
 そして・・・・・・そのロケットの持ち主。

 「お兄……様………?」

 全身が、恐怖とは違う何かで震えた。目頭が熱くなる。

 「これを、どうして貴女が…!」
 「………頼まれた。」

 ようやく、女性が口を開いた。ポツリと。本当に小さな声で。

 「………最後の戦いの後で。その持ち主に、あんたに渡してくれって頼まれた。」
 「そんな……!」

 遺体は回収出来なかったと聞いた。話によると、どうやら最後の戦いの後、自ら断崖へと身を投じたらしい。自分の夫となった男が、そう言っていた。
 自分に告げる際、本当に、本当に申し訳なさそうな顔をして・・・・。

 「頼まれた。だから……あんたに渡しに来た。」
 「っ……。」
 「それと…………伝言。」



 『”それ”は、お前が持つに相応しい。』



 「っ……!!!」

 もう、涙を止めることは出来なかった。

 都市同盟を憎んだ兄。父を殺した兄。そして、沢山の人の命を奪った兄。
 多くの村を焼き払い、多くの人々を惨殺し、憎しみだけを糧として生き抜いた兄。
 父の本当の子でなくとも、血の繋がりが半分だけであっても、母の生き写しと言われて蔑まれていても・・・・。

 どれだけ自分を憎んでくれても良い。どれだけ自分を蔑み、酷い仕打ちをしてくれても構わない。でも、何としても止めたかった。名も知らぬ人々の命を奪うことを、誰かが涙を流すだろう残酷な仕打ちを。
 いたたまれなくなり、何度も説得しようとその扉を叩いた事もある。直接戦場へ足を運んでそれを試みたこともあった。それでも、女の身である自分では、何も変えられなかった。

 自分の出生を憎んだこともある。恨めしく思ったこともある。
 過去を変えられたら、どれだけ良かったことだろう。そう思ったことも。
 自分に出来る限りの事を、怠りはしなかった。でも、それでも・・・・。
 狂皇子と呼ばれ、呪いの歌を都市同盟に響かせ、自軍の将にすら恨まれ、どれだけの屍を積み重ねていても・・・。

 それでも、ジルにとっては、ただ一人の兄だった。
 死の悲報を聞き、涙を流さぬはずが、なかった。

 その兄が、死の間際に、これを託してくれた。
 幼い頃から、ずっとずっと、肌身離さず身に付けていたこのロケットペンダントを。
 母の形見である、兄の、ただ唯一であった宝物を・・・・。

 もう、それだけで。
 それだけで充分だと、ただただ涙を流した。






 「大丈夫…?」
 「……えぇ。もう……大丈夫です。」

 しゃくり上げて泣いた自分の背中を、女性は、ずっと撫でてくれていた。
 それも暫くのことで、涙を拭き終え顔を上げて、大丈夫だと伝えた。

 「そっか……良かった。」

 そう言って、女性は、ホッとしたような顔を見せる。その優しそうな表情を見て、なんだか放っておけない人だと思った。侵入者であるはずなのに、騒ぎ立てようとも思わなくなった。
 何より、兄の形見を、夜遅くとはいえ自分に渡しに来てくれたという事で、疑いは消えた。

 「それじゃあ、私は、そろそろ行くよ。こんな夜更けに起こしちゃって……ごめんね。」
 「あ…、お待ち下さい!」

 思わず、引き止めていた。まだ礼も言っていないのだ。
 すると女性は、自分の心を読んでいるかのように、困ったように笑った。

 「……礼は、いらないよ。あんたは、それを大切にしてやってよ。」

 ゆっくりと近づき、手にしていたロケットを自分の首にかけながら、そう言った彼女。
 その手つきも、とても優しいものだった。面倒な留め具であるカニカンを、手先を見る事もなくカチリと止め、一歩離れた。彼女は、きっと器用なのだろう。
 なんとなく、そんなことを思った。

 「それじゃあ、私は、これで失礼するね。」
 「あ…。」
 「まだ、なにかあるの?」
 「………。貴女のお名前を聞くことは、きっと互いの為にならないと……それは、よく分かっています……。」

 でも・・・・それでもと、出来る限りの心を込めて言った。

 「ありがとう……心優しい人。貴女の事は、生涯忘れることはないでしょう。」
 「……どういたしまして。ジル皇女、あなたもお元気で。」

 そうして、彼女は踵を返した。

 名を聞くことも、行方を追うこともままならない。きっとそれは、致し方ないことなのだろう。
 彼女が、なぜ兄の最後を看取ったのかは分からない。もしかしたら、知り合いだったのかもしれないし、ただ行きがかり上の事だっただけかもしれない。
 でも、そのどれでも良かった。人目を忍んでリスクをおかしながら、こうして来てくれた事が何より嬉しかった。

 「えぇ、貴女も……」


 彼女が、扉に手をかける。
 そして、そのノブを回す、直前だった。

 カチャ・・・。と。

 また先と同じ音が、部屋に響いた。