[化身]



 レックナートの部屋を出て階段を下りようとした時に、あの頭痛と目眩に襲われた。
 一瞬薄れて遠のく、己が意識。
 すぐに収まるのか、それとも、また倒れ込むほどのものなのか。歯を食いしばりながら暫く耐えてみたが、どうやら後者だったようだ。抗おうとすればするほど、それは痛みを与えてくる。手招きするよう促される、眠り。

 「なんで……こんな時に……ッ…。」

 目を閉じ、その場に倒れ伏した。






 ────  ────



 「……声………?」



 ──── 目を…開けて ────



 呼ばれて、意識を開いた。
 だが、そこには何もない。何も見えない。
 その場にあるのは、音も視覚もない『闇』だけ。



 ────  ────



 すぐそこにいるような、でも決して辿り着けない場所にいるような、不思議な空間。
 ゆっくり声のする方へ意識を向けた。闇の奥にあるだろう、更に暗くて深い場所へ。
 歩を進める。けれど、声に近づいている気配はない。
 沢山歩いた。
 闇よりも更に深い終わりの無いように思えるそこは、”空虚”ではなかった。”無”である。

 突如、感覚が消え失せた。ありとあらゆる・・・・・五感?

 「……な…………に…!?」

 天と地の境が分からず、右も左も分からない。前へ進もうとするが、どこが前なのかすら。
 一つだけ分かるのは、この空間の中に『自分』という意識だけが存在しているということ。

 「ここ……どこ…? 誰かッ……!」

 怖い・・・恐い、助けて!!
 自分が居なくなりそうな不安。自分が自分でなくなってしまいそうな恐怖。

 「ッ…!!」

 突如、目の前が大きく光った。とても強い光。何かが爆発するような。
 まるでこの世界を誕生させるための、大きな大きな儀式のような。
 目を覆うにも意識が開いているため、それは適わない。

 すると・・・・



 ────  ────



 「…声……………なの…?」

 目の前に現れたのは、光の塊。それは、風に揺られているように波立ち穏やかな光を放っている。次第にそれが人の形を成したことに、驚愕した。



 ────  ────



 「こ……え………?」

 人の形をした光は、やがて大きく瞬いた。

 『…………待っていた……。』
 「……あんた………”声”なの…?」

 声は、何色とも区別のつかない法衣を身に纏い、地につくほどの長い髪を下ろしてその場に佇んでいた。その姿は、女性にも男性にも見える。中性的だ。
 しかし、その顔を伺うことだけが出来なかった。フードが邪魔をしているのだ。

 声は、言った。

 『私は……お前の右手に宿る………紋章の化身…。』
 「創世の…?」
 「私は、ずっとずっと……お前と、相見えることを………願っていた……。』
 「なんで…。」

 この世界に来る前から聞こえていた、”声”。
 あの時、ずっと『何かが変われば良い』と・・・『全て変わってしまえ』と思っていた自分をこの世界へ連れてきた張本人。つまらないと思っていた自分の人生を劇的に変えてくれた者が、いま目の前に居る。

 ゆらりと衣を揺らしながら、声は言った。

 『………今は、もう捨てたはずの…………お前のその名……。』
 「なんで……、なんでいまさら…!」

 その名は、この世界に残ると決めた時に捨てたのだ。自分自身で新しい名を名乗り、その名でこれまで生きてきた。
 何故、いまさらその名で呼ぶ? 何故、目の前にいる”声”が・・・。

 『………裏の門の継承者………あの人間の判断は……間違ってはいなかった…。』
 「…どういう、こと……?」
 『しかし……それが徒となったのだ…。』

 目の前に立つ者の言うことが、理解できない。しかしそれが、とてつもない重みを秘めていることだけは、否応なく分かる。これは、きっと・・・・・”暗示”だ。

 「あんたは……私に、何をさせようっていうの…?」
 『私は………。』

 ここで、化身が言葉を区切った。相変わらず、フードのせいでその表情を知ることは出来ないが、見えたのは微かな戸惑い。

 『私は………私自身であるべき、お前に……。』
 「……?」

 と、ここで誰かに呼ばれた。驚いて辺りを見回すも広がるのは闇ばかりで、自分達以外は誰もいない。空耳かと思った。けれどもう一度呼ばれる。「!」と。

 同時、意識がぼやけだす。次にズルッ、と何かに意識を引かれる感覚。

 「ちょッ…!?」

 驚いて身をよじろうとするも、見えない何かは、確実にこの場から自分を引きずり出そうと意識を掴んでくる。
 なんとかこの場に留まろうともがくも、突如目の前が暗くなった。化身が姿を消したのだ。
 そして闇の中、果てのない世界を今度は逆走する。

 ・・・待って! まだ戻れない!
 私は、聞かなくちゃいけない。あいつの言葉を!
 私にとって、大切なことを教えてくれようとしていたはずだから!!

 覚醒しだす意識のなかで、”声”は言った。



 ──── ……我を宿す者よ… ────



 「待って……待ってッ!!」



 ──── ……も…い………せ ────



 「待って………私はッ……!!!」



 ──── …………い………… ────



 「待っ…!」






 「──、おい!!」
 「ん…。」

 太い男の声で目を覚ました。先ほど闇の中にいた自分を呼んでいたのだろう、ルカ。

 「ルカ…。」
 「まったく、貴様は………手間ばかりかけさせおって。」
 「あー…、マジごめん…。」

 むくりとベッドから起き上がり、彼の顔をまじまじ見つめる。「なんだ?」と訝しげな顔が返って来たが、返事をしなかった。俯き額に手をあて考える。まだ少し頭が痛い。
 急に黙りこくった自分に、彼は不審そうに眉を寄せる。

 「なんだ、どうした?」
 「あ、いや……ちょっと、ね…。」

 夢の中に現れた『紋章の化身』。何故、いまさらコンタクトを取ろうとしたのか。
 ・・・・・・それまで、コンタクトを取れない状況だった? それとも・・・・。
 いや、それより彼(彼女?)が伝えたかった事とは?

 不意に頭に手を乗せられたので、見上げる。彼が、小さく鼻を鳴らした。

 「……おい。あの小僧共がおらん。」
 「あぁ、そっか…。そうだった…。」

 ルック達がいないことに、彼も違和感を感じたのだろう。その黒い瞳は、何があったのかと問うている。
 ベッドから立ち上がると軽く体を伸ばし、言った。

 「グラスランドに行くよ。」