[借名]



 トラン共和国より遠く遠く離れた地。
 陸を越え、山を越え、海を越えた先にある、遥か遥か遠い場所。
 その地のとある街、とある小さな家で、一組の男女が向かい合って座っていた。

 一人は、十代中盤から後半と思える少年。その向かいに座るのは、二十代前半の女性。
 外見だけで言えば、人にはそう見えたのかもしれない。しかし少年も女性も、もはや見たままの年齢ではなく、双方共にゆうに百歳を越えていた。

 「……名前を?」
 「そう…。あんたの名前を、私に貸して。」



 少年は、この地で一人生活していた。名前を変えて、姿を変えて。
 この地には、自分の過去を知るものがいない。故に、数年から十数年ほどの期間を開けては、また新しい場所へ住まいを変える。そういった行為を、もう何十年も前から繰り返していた。
 この街に住むようになってから、そろそろ7年経つだろうか? そろそろこの街を出て新たな大陸へと足を運ぼう。そう思っていた矢先のことだった。
 15年前に別れを告げた友人が、遠路はるばる自分を訪ねて来たのは。

 友人である彼女の突然の訪問に驚きはしたが、喜び歓迎した。
 紅茶を入れて一息ついてから来訪の意を聞くと、彼女は、テーブルで手を組みながら唐突に「名前を貸して欲しい。」と言った。

 それは、あまりに突然で、少年ですら予想出来なかった言葉だった。



 「どういう事なんだ?」
 「それは…」

 問いかけると彼女は、少し戸惑いの色を見せた。迷いと憂いを合わせたような、オブシディアンの瞳。
 少年は、その色が好きだった。優しげなその闇色が。

 「会いたい奴がいるんだよ…。会って、連れ戻さなきゃいけない奴が…。」
 「…………。」

 それでは分からない。そう視線で伝えると、彼女は困ったように笑った。

 「行かなくちゃいけない場所がある。でも、そこじゃあ……私の名前が使えないんだよ。」
 「……分かった。」

 彼女の言った『連れ戻したい奴』の見当は、大方ついていた。彼女にとっての”大切な者”といえば、数人しか知らない。だから了承した。
 けれど、と。思わず苦笑する。

 「…名前なら、俺のじゃなくても良いんじゃないか? 自分の名前を名乗れなくたって、偽名なんかいくらでも作れるはずだろ?」
 「……”強さ”が……必要だから…。」

 その言葉に、少年は『おや?』と思った。彼女の言う『強さ』とは、一体どのような強さなのだろうかと。
 すると彼女は、組んでいた両手に額をつけて言った。

 「私には……今、強さが必要なんだよ…。」
 「…何を言ってるんだ。きみは、十分強いじゃないか。」
 「違うよ…。私に必要なのは、これから起こる戦いを乗り越えられるだけの『心の強さ』だから…。」
 「だから、俺の名前を借りたいって?」
 「……うん。」

 明るさに溢れていたはずの彼女に大きな影が落ちたのは、もうずっとずっと昔のこと。それに気付いてしまったあの日のことを思い返しながら、それを決して表情に出すことなく少年は「律儀だなぁ。」と笑った。

 きみが思うほど、俺の心は強くないよ。そう・・・・強くなんてない。
 でも・・・・・でも。きみが、俺にそれを望むなら。あえてそう在ろう。
 それで、その瞳に宿る憂いが、少しだけでも取り除けるのなら・・・。

 「でも、どうして俺の名前なんだ? 心の強い奴は、他にいくらでも…」
 「……名前を借りたいと思えるほど、強い男なんて……あんたぐらいしか思い当たらなかったからだよ。…………。」

 彼女───は、そう言って安心したように、自分に微笑んだ。






 「……話は、終わったのか?」
 「うん。快く承諾してくれたよ。やっぱり、持つべきものは友達だねー!」

 に礼を言い別れを告げて家から出ると、外でルカが待っていた。彼は、不機嫌そうに腕を組んで家の外壁にもたれていたが、姿を見せると同時に声をかけてきたので、笑顔を返す。

 「旧知、か…。だが、あれのどこが旧知なのだ?」
 「あれ、聞いてたの?」
 「…そこの窓から、馬鹿面下げてニヤニヤしている、あのガキだろう?」

 彼が、そう言いながら顎で示した先───家の二階───からは、が満面の笑みでこちらに手を振っている。
 ・・・・そこまで喜んでくれるなんて。吹き出しながら手を振り返した。



 グラスランドへ向かう、と言ったはいいものの、には、まずやっておかなければならない事がいくつかあった。その筆頭が名前だ。
 今回向かうグラスランドで、再び宿星が集まる。レックナートはそう言っていた。
 宿星が集う予兆。それすなわち、大いなる戦の前触れだ。

 そこで、ふと考えた。

 デュナン統一戦争時、その3年前に起きたトラン解放戦争の宿星が、何名か入っていたと聞いた。もしかしたら、いやもしかしなくても、今回起こるであろう戦争にデュナン当時の人間が宿星入りしているかもしれない。そう踏んだ。
 そこで、もしその場に当時の者がいて鉢合わせでもしようものなら、自分が真なる紋章を宿していることがバレてしまう。それは、正直言ってマズイ。

 故に、名前を借りることにした。
 は、それ以上のことを問うてくることはなかった。それは、とても有り難いことであったし、また、何も言わずに名前を貸してくれたことに心底感謝した。
 彼には、昔から絶対的な信頼を置いていた。



 手を振り見送ってくれる彼に笑い返していると、ルカが、心底うざったそうな顔。

 「……おい、もういいのか?」
 「え、なにが?」
 「用事は、済んだのだろう? それならとっとと行くぞ。」

 いつになく不機嫌そうにそう言い放つ彼。いったい、何が気に入らないのか分からないが、とりあえずこれ以上機嫌を損ねてしまうのは宜しくないので、首を傾げながらも彼に引きずられるよう街を出た。

 「では、グラスランドに…」
 「ちょっと待って! まだ、やらなきゃならない事があるの!」
 「……いったい、何なんだ?」
 「とりあえず、いったん魔術師の塔に戻るよ!」
 「お、おい!」

 周りに人がいないことを確認して、ルカを引きずりながら転移した。