[スパイ]



 ナッシュを部屋に入れた後、誰にも侵入されないように錠を下ろした。入ってくるのはルカぐらいだろうと思ったが、ダッククランでの件もあった為、一応念には念をいれた。
 これから話すことを、ルカ以外の人間に聞かれるのは、相当マズいのだ。

 憎ったらしい目の前の男と向かい合って座るのも億劫だったので、さきほど寝ていたベッドに腰を下ろす。すると彼は、「同じ席で飲みたかったんだけどな…。」と言いつつ、こちらにその気がないことを知ると椅子に腰を下ろし、持ってきたグラスにワインを注いだ。
 並々と注がれたそれを渡されたが、見た瞬間に苦い顔をしてしまう。思わず受け取るのを躊躇った。

 すると彼が、不思議そうな顔。

 「どうしたんだ?」
 「…ワインは……好きじゃない。」

 本当に好きではなかった。彼が持ってきたのは、ワイン好きには好まれるものなのだろう。しかし苦手な者からすれば、その『血』を思わせるような赤と独特の渋みが、どうしても好きになれなかった。
 見たくもないとばかりに目を逸らすと、彼は、茶化すように笑う。

 「お嬢さんは、ワインよりカクテルの方が好みかな?」
 「…………。」

 思わず黙り込み、睨みつけた。それを受けて「そんなに見つめないでくれ!」と言いながら、彼はグラスを引っ込める。

 「…いつからだ?」
 「何がだ? って聞く方が、おかしいか…。」
 「ナッシュ。」
 「あぁ、分かった、分かった。」



 ナッシュは、拒否されたワインに口をつけながら、片手で降参のポーズをしてみせた。

 このという女に興味があった。それも出会い頭から。
 そう寒くはないこの地で、まるで身を隠すよう厚手のコートを羽織り、目立つことを拒むようにバンダナで顔を覆っていた。『存在』自体を隠すように・・・。
 あのルカ=ブライトも同じといえば同じだったが、それとはまた違う空気を持つこの女が、とても気になった。

 もちろん、それだけではない。

 今、この地が戦火に包まれ始めていることを知りながら、それでも『目的のもの』とやらを見つけるため、嫌々ながらも自分達に同行している。
 何より興味を引いたのは、ユンの呟いた言葉だ。『統べる者』と。あの時、あの場にいたクリス達には聞こえなかったようだが、その時のユンの顔を忘れることが出来なかった。

 彼女と目が合う。笑みを見せるも、嫌そうな顔。

 「そうだな、いつからと言われれば…………最初からだな。」
 「……最初から?」
 「あぁ、そうさ。ダッククランの宿の通路で、あんたとぶつかった…あの時からだ。」
 「…?」

 彼女が眉を寄せる。『どうして、それだけで女と判別出来る?』と考えているのだろう。

 一度『女性』と認識してしまえば、それは、とても分かりやすいものだった。
 確かに彼女は、女性にしては背のある方だ。じっくりと観察しなければ、その身なりから男に見えなくもない。女らしさを隠すために厚手のコートを着ているのだろうし、はいているパンツやブーツもすべて男物。
 しかし、バンダナやコートの襟で隠しているつもりなのだろうが、顔の輪郭や首の付け根を見れば、なるほど女のそれである。だが、それを『女性だ』と断言出来るのは、ナッシュぐらいのものだろう。それまで培ってきた観察眼あってこそだ。
 だてに長年色んな女性を見てきていないさ、と、内心笑う。

 未だに原因が分からないのか、彼女は、体をまじまじ見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。

 「…意味分かんないし。胸もサラシで潰してあるし、多少触られたとしても、このコートの上からじゃ分かんないでしょ?」
 「おいおい、本当に分からないのか?」
 「…はぁ? 分からないから聞いてんだけど?」

 そういえば、彼女の口調が変わっていることに今さら気付く。ぶっきらぼうな物言いは変わらないが、今までより少しだけ声が高くなっている。諦めたように、本来の性格なのだろう心根の優しそうな色を見せて唇を尖らせていた。
 なんだ、とても女らしい顔をするじゃないか。そう思いながらナッシュは、徐にその腕を掴んだ。

 「これなら、どうだ?」

 掴まれた腕を見つめながら、彼女は「…は?」と言った。
 なに言ってんのあんた? と言いたげなその反応に、思わず吹き出してしまう。

 初めて出会った時、水辺に落ちそうになった彼女の腕を取った。筋肉質でありながらも、柔らかさに包まれた腕。その時になんとなく気付いた。
 だが彼女は、それでも理解できないのか首を傾げている。それなら仕方ない。種明かしをしようか。

 「要するに、だ。いくら十代後半の男だって、こんなに柔らかくないってことさ。」
 「……私って、そんな柔らかいの?」
 「あぁ。女にしちゃ筋力はある方なんだろうが、剣を振り回す男の腕は、こんなもんじゃない。俺だって剣を扱うわけじゃないが……お前さんの腕よりは、太い自信があるぞ?」
 「…………。」

 そう言って、腕を離してやる。
 すると何を思ったか彼女は、いきなりコートを脱ぎ出した。そして、それをベッドに放り投げると、次にハイネックに手をかける。
 その行動に、思わず目を剥いた。しかし、彼女は、おかまいなしにハイネックを捲る。
 慌てて止めに入った。

 「お、おい! ちょっと待て!!」
 「は? なに?」
 「何って…、なんで脱いでるんだよ!」
 「…あぁ。サラシ巻いてるから大丈夫だよ。」

 そうじゃない! と言うも、彼女は気にせずハイネックを脱ぎ捨てた。その動作の最中、つけていたバンダナがずれ落ちる。「あっ」と言っていたが後の祭りだ。本人も諦めたように「…まぁ、いっか。」と笑っている。
 露になったその顔を見て、『あぁ、彼女はこんな顔をしているのか。中々可愛らしいじゃないか』と思った。衣服を取り去った体を見てみれば、あちこちに大小様々な傷跡があるものの、鍛え上げられた女性らしい良い体つきをしている。
 男装なんてもったいない。素直にそう思った。

 ・・・・・いや待て! そうじゃない。なに考えてんだ、俺!

 我に返り、とりあえず服を着ろ、と説得にかかるも、生憎というか幸いと言うべきなのか無視されてしまう。
 俺は、いったい何をやってるんだ・・・。

 すると、彼女は、柔らかいと称された腕を触り始めた。次にベッドから立ち上り、許可も得ずに自分の腕を触ってくる。どうやら腕の固さの検証をしているようだ。なんて女だ、と思ってしまったのも無理はない。

 一通り検証を終えて納得がいったのか、彼女は、少し残念そうにポツリと言った。

 「………なるほどね。確かに、あんたの方が固いわ…。」
 「へッ? あ、あぁ…分かってくれたならそれでいい。それでいいから、とりあえず服を着てくれ。」
 「うん、分かった。ありがとう、ナッシュ。すごい参考になったよ。」

 ニコリ。女性らしい微笑みだ。
 それになんとなく気恥ずかしさを覚えたものの、一向に服を着る気配がないので目のやり場に困ってしまう。

 「頼むから、とりあえず服を着てくれ…。」
 「あぁ、気にしないでいいよ。寝汗かいたから、ちょっと風呂行くまで乾燥させるわ。」
 「おい……頼むから……!」

 いくらバレたからと言って、何もかも諦め過ぎだろう。ナッシュは思わず頭を抱えた。
 男装を取り除けば上はサラシ一枚だし、言葉遣いも本来のものであろう女性のものに戻っている。そう言うと彼女は「バレたんだから、もういいじゃん。」と、面倒くさそうな顔。
 いやいや良く無い。ぜんぜん良くないぞ。そう思い、流石にそれにも限度があるだろう、と続けてみるも、生憎「眠いわー…。」という、わけの分からない返事。

 「………肝が据わっているというか、何と言うか……。」
 「なにそれ? 褒めてんの?」
 「……そういうことにしておいてくれ。というか俺が、言いふらさないとか思わないのか?」

 すると彼女は、暫し目を瞬かせていたが、やがて笑った。

 「思わないよ。」
 「……なんでだ?」



 「それは、貴様が『ハルモニアのスパイ』だと、分かっているからだ。」



 ここで、第三者が声を上げたことに驚いたのは、ナッシュだけではなかった。その声の人物が誰なのか一発で分かったが、『鍵をかけてたはずなのに』と、も目を丸くする。
 二人で声の方を見れば、扉を開けたルカが仁王立ちしている。

 「ル、ルカ=ブライト!?」
 「……ブライトは、捨てた。ルカと呼べ。ハルモニアのスパイめ。」

 慌てたようにナッシュが飛び退き、右手を左腕に当てる。なるほど、そこに武器が隠されているわけか。
 ルカは、呆れたように一瞥して鼻を鳴らしてみせると、扉を閉めて鍵をかけ、さっきまで彼が座っていた椅子に腰掛ける。

 「おかえり。」
 「あぁ。」
 「でも、なんで? 私、鍵かけてたはずなんだけど?」
 「…鍵だと? かかっていなかったぞ。まったく、不用心な…。」
 「マジで? おっかしいなー…。」

 確かにかけたはずなんだけど。そう思ったが、開いていたというならきっとそうなのだろう。そこで納得し、次にナッシュに目を向ける。彼は、冷や汗を大量に流していた。

 「…そんで? あんた、マジでスパイなわけ?」
 「えっ、な……なんの事だ?」
 「…ふん。俺に嘘は通じんぞ、ハルモニアのスパイめ。よもや15年前を忘れたわけではあるまい?」

 明らかな動揺を見せる彼に、ルカが畳み掛ける。
 なるほど、彼がこれほどまでにハッキリ言うとなると、どうやら本当にスパイのようだ。しかも自分は知らなかったが、この二人、どうやら面識があるらしい。
 すぐにそう考えを纏めてナッシュをじっと見つめる。嘘をついたらタダじゃおかない、という笑みを口元に浮かべて。
 到底適うはずのない相手二人に挟まれ観念したのか、彼は諦めのため息をつくと、自分の隣に腰を下ろした。






 がナッシュにした質問は、三つ。

 一つ目は、本当にスパイなのかということ。それに対し、彼は素直にそれを認めた。
 二つ目は、今もスパイ活動中なのかということ。彼は「そうだ」と言った。
 三つ目は、それが自分達に関係するのかということ。彼は「違う」と言った。

 とりあえず、聞きたいことを終えて足を組む。

 「ふーん、なるほどねー。」
 「……ふぅ。他に何か聞きたいことはあるか?」
 「うーん、別に…。もう興味ないかなぁ。」
 「……あまり聞かれたくはないが、その言い方も嬉しくないな…。」

 どうやら、本当にハルモニアのスパイとして活動していたらしい。
 「なるほどねー。」と、もう一度呟いて、ではこの先どうするか考えていると・・・。

 「…そういうことだ。故に貴様は、俺の素性やこの女のことを、誰にも話すことが出来ん。自分がスパイだということを、あのガキ共に話されても困るだろうからな。」
 「まぁ…それは、そうなんだが……。」

 ルカにジロリと睨まれ、苦笑いする彼。そんな二人を見ながら、は考えていた。
 先ほど自分が言った『彼が言いふらすような男ではない』との言は、ハッタリでなく真実だ。特に確証があったわけではないが、直感がそう言っていた。こういう時の勘は、長年の経験から信じる事にしている。それとルカの言葉を合わせて、確信に至っただけだ。

 当の彼は、当時のルカを知っているからか、その眼光に冷や汗を流している。目を合わせたくない気持ちは分かるが、あからさま過ぎる。思わず笑ってしまった。
 が、何やら違和感。彼が、何か言いかけては口を閉じているのだ。
 どうかしたの? と聞くと、彼は目を泳がせながら言った。

 「ずっと、気になってたんだが…。」
 「なに?」
 「なんでルカは、歳を取っていないんだ? いや、それよりも……デュナン統一戦争の時に死んだと聞いてたんだが…。」
 「…………。」

 生きていることに関しては、いくらでも言いようがある。だが、歳を取っていないことに関しては、上手い言い逃れが見つからない。何よりハルモニアの者にだけは、露見するのを避けたかった。しかし言い繕う言葉が、どうしても思い浮かばない。
 ほら、やっぱり。嫌な予感は、的中する。そうルカに目で訴えると、何を思ったか彼は、あっけらかんと答えた。

 「…貴様、真なる紋章を知らんのか?」
 「ちょっと、あんたッ!!!」

 思わず声を荒げてしまったが、当の本人は、気にもかけない様子でナッシュを見つめ、不敵に笑っている。その好戦的な目を向けられた彼は、諦めたように肩を落とした。

 「……俺は、確かにハルモニアの人間だが……約束は、必ず守る。」
 「だそうだぞ、?」
 「…はぁ。まぁ、ナッシュがそう約束してくれるなら、信じるよ。」

 溜息を落としてから答えると、彼が驚いたように目を見開く。

 「、お前……。俺のこと、簡単に信じ過ぎじゃないのか?」
 「馬鹿か貴様は。ハルモニアなど恐るるに足らん、という意味だ。」
 「いやルカ、違うから。確かにハルモニアは、死ぬほど大っ嫌いだけど、ナッシュは信じるよってこと。」

 ルカが本心からそう言っているのが、ありありと分かる。物怖じするどころか堂々と言ってのける、その度胸。さすがは元狂皇子だ。
 と、いらぬ感心をしてしまったが、問題はそこではない。
 ルカを睨みつけて、強く念押しした。

 「それと、あんた。」
 「なんだ?」
 「今回は、ナッシュだったから良かったものの……これからは、二度と紋章のことは…」
 「ふん…分かっている。」

 言い終わる前に話は強制終了。『しつこい』とでも言いたげな彼の態度が、なんとなく苛つくが、まぁいい。これに懲りて、少しは用心してくれるのならそれで。
 さて、じゃあどうするか。と、両手を頭の上で組んでいると、ルカが言った。

 「…おい、気配は?」
 「ん? んー…………全然。」
 「…そうか。」
 「でも、あの子が”力”を使えば……。」
 「…今は、待つしかないということか。」
 「はぁ…。本当、付き合わせちゃってごめんね。」
 「…馬鹿が。付き合わせてから言うな。」
 「あー、確かに。流石にそれは、否定できないわー。」

 その会話に、ナッシュが不可解そうな顔をしていたが、ニッコリ笑って誤摩化す。
 彼の目的が、自分達でないのなら、この話の真意は分かるまい。事実彼は、ワインを口にしながら早くこの部屋から出たそうな顔をしている。
 約束してくれたのなら、もう部屋から出してやっても良いだろう。そう言葉にする直前、ルカに遮られた。

 「ところで……貴様、さっきから何なんだ。その格好は?」
 「……………あっ!」

 ルカから冷たい視線を受け、ナッシュに乾いたように笑われて、は慌ててハイネックをかぶった。