[敵に非ず]
「何を思い出すんだ?」
突然横合いからかかった声に目を向けることもなく、ギリと歯の奥を鳴らした。その声だけで、振り返らずとも『相手』が分かったからだ。
本音を言えば、心中は穏やかではなかったが、聞かれたという思いとは裏腹に、どこか冷静にそれを見つめている自分がいる。相手の男は、別段気にも止めてない様に見せかけながらも、実は探るような気配を漂わせている。
怒りは、頂点に達している。今は、誰かとまともに話せるような状態ではない。
だから祈るように『早くどこかへ行ってくれ』と思った。しかし立ち去る気配はない。
仕方ないと思い、怒りを抑えることに専念した。仮にも自分は、180年という時を生きている。この荒れ狂う感情を抑える術を身に付けていないはずがなかった。
『鎮まれ……鎮まれ……。』
目を閉じて、怒気を内に閉じ込める。暗闇の中で『怒り』という感情が、心の奥の奥に目一杯押し込まれていく。少しだけ胃がチクリと痛んだが、それを無視して、ただただ怒りを抑え続けた。
・・・・ゆっくりと目を開けた。先の苛立ちは、もうどこにもない。
いったい、いつからこのような芸当が出来るようになったのだろうと、思わず自嘲的な笑みが零れた。
『大丈夫………もう大丈夫。』
胸に手を当て一息ついて立ち上がると、ナッシュが眉を寄せて見つめていた。それまで動く気配のなかった自分の真意を、計りかねているのだろう。
だが目が合うと、それをすぐさま笑顔に変えて優雅に腰を折った。
「こんばんは、お嬢さん。」
「……こんばんは、素敵なおじさま。」
「なっ! お、おじさま!?」
貴族出身ではないかと思うほど、その動作は流暢で優雅なものだった。そんな彼の趣味に付き合ってやろうと、淑女よろしくゆったり礼を返す。だが、どうやら『おじさま』というのが気に入らなかったようで、彼は口元を引き攣らせた。
「…なに? お兄様の方が、良かったの?」
「いや…、そうか…。俺もおじさんって言われる歳になったんだな…。」
冗談で言ったつもりだが、本人には相当ショックが強かったのか、額に手を当てブツブツ言っている。
「…なに? いつもは『もう俺も若くないんだ』って言ってるのに…。」
「いや……そうなんだけどな。実際そう言われると、結構ショックなんだなと…。」
「…気に触ったなら謝るよ。ごめん。」
「いやいや、冗談だ。構わないさ。」
最後に一つウインクして、彼は、この話を『終了』させた。そう取れたのには、もちろんワケがある。彼が、笑顔の中でも何となく、問うような表情を見せていたからだ。
年若い娘なら、その甘く優しい笑顔に騙されるかもしれない。だが、自分は違う。年相応に人を見る目は培ってきている。
口元にだけ笑みを乗せると、その意図を理解したのか彼は、ふと笑い「話をしないか?」と言って、流暢な仕草で右手を差し出してきた。
彼の問いに『否』と返すことは簡単だった。
だがは、それをしなかった。『この男は使える』と思っていたからだ。
クリスと話をしている時、彼は、持ち前の笑顔や口調をフルに使って場を盛り上げていた。
持ち前の身軽さや、どこから仕入れてくるのか知らないが、暗器を懐に忍ばせておく周到さ。なにより時折垣間見せる、その情報網の厚さ。
人柄や性格こそ掴みどころがないが、それだけは信頼に値する。
もし彼が、自分に有益な情報を仕入れたとしたら、言い方こそ汚いかもしれないが、それこそ使わない手はない。彼となら良い関係が築けるはずだ。
距離を測り、踏み込まず、踏み込ませず。仕事というならば、彼はきっと一流だ。そこに私情は存在しないだろう。
彼自身、自分に対して同じ事を考えているのが、ありありと分かる。表情は穏やかさを取り繕いつつも、自分とそういった関係になりたいと目が語っている。
探りを入れながらも、出来ることなら取り込もうと考える。
でも・・・・ほんの少しだけ『自分にそれが貫き通せるのだろうか?』と不安が過った。
近くの木の根に腰を下ろすと、彼もそれに続いた。
そして、早速とばかりに口を開く。
「なぁ、。あんたは…」
「ちょっと待って。本題に入る前に、一つ約束してもらいたい事がある。」
「…あぁ、分かった。」
遮ると、彼は「で、約束してもらいたい事ってなんだ?」と言った。
「まず…。答えるにあたって、絶対に嘘はやめて。」
「……約束する。俺は、あんたに嘘はつかない。」
少し間をあけて、彼はそう答えた。
「それと、これも先に言っておくよ。私は、あんたの持つ情報網や、スパイとしての能力をとても高く評価してる。」
「おっ、と……。」
まさかそう来るとは思わなかったのだろう。素直に褒められて、彼は苦笑いした。
「ただ、あんたと『契約』しようとは思ってない。あんたはあんたで、上から指示される立場にあるだろうからね。それに、もしかしたらその上からの指示が、私達の邪魔になる可能性もある。」
「…まぁ、確かに。」
「さっきのやり取りを聞いていたなら、分かるとは思うけど…。私があんたに提示する条件は、ただ一つ。」
「……破壊者がらみ、か?」
「そう。」
これは、契約ではない。言ってしまえば交換条件だ。
「私と破壊者と呼ばれる者……。あんたはあの時、ただ一人あのやり取りを見てた。だから、それを絶対に口外しないでほしい。」
「……誰にも?」
「うん、誰にも。あんたの上司とやらも、例外じゃないよ。」
「…………。」
彼がそれさえ約束してくれれば、後はどんな条件でも飲むつもりだった。自分のことも、彼等との関係も、何もかも彼になら話しても良いと思った。彼の口を封じることは、自分達の立場を危うくしない為であり、またハルモニアからの追跡を逃れる為でもある。どんな対価を払ってでも必要な事なのだ。
「それを”約束”してくれるなら……あんたの疑問に、嘘偽りなく答えるよ。」
「…………。」
彼は答えなかった。考えを巡らせるように、じっと地面を見つめている。
だが、ふと顔を上げると、まるで試すように言った。
「なら、約束できないと言ったら……?」
その答えは簡単で、けれど自分にとっては苦しいものだった。仕方ないと立ち上がり、刀を抜き放つ。そしてそれを、彼の首筋に突きつけた。
「悪いけど……あんたを生かしておくわけには、いかない…。」
「……どうして、そこで謝るんだ?」
「ごめん…。私は…、あんたを殺したいわけじゃないよ。でも、もし約束をしてもらえないなら、こうするしか……手がないの。」
「……それだけ破壊者って奴らとの関係が、誰かにバレるのが恐いのか?」
「恐いわけじゃない。ただ…。」
「ただ?」
刀を突き付けながらも、それ以上答えることが出来ない。
すると彼は、言った。
「そもそも、あんた……あいつらと、どういう関係なんだ? 知り合いだろうってのは分かるが、あいつらの仲間ってワケでもなさそうだし…。」
「…………。」
これこそ彼が問いたかった事だろう。あれだけユーバーセラと呼んでいたのだから、そう思われて当然だ。だからそれには、素直に答えた。
「あいつらが『破壊者』って呼ばれてるのは……知らなかった。でも、その中の三人は……知り合いだよ…。」
その内の二人が、まさに自分の『家族』であるということは、あえて外して答えた。これは、彼の質問に関係ない。彼は、自分が『敵か味方か』を問うているはずだから。
「その三人ってのは、黒い服の男と、青いドレスの女と、仮面をつけた男か?」
「……そうだよ。」
「じゃあ、そいつらとは、どういった関係なんだ?」
「…………。」
今度こそ、迷わず突っ込んできた。答えの用意はしていたが、実際にそれを突き付けられると心が鈍る。彼の首もとに突き付けた刃に閃く光が、チクリと胸を刺した。
「……その質問にも正直に答える。でも、聞けばもう戻れない。もしあんたが、約束を違えようものなら…………命はもらう。」
「…………。」
「あんたの命だけじゃ済まないってことは、先に言っておく。あんたの上司、家族、親戚………全て調べ上げる。そして、全員…」
本当は、こんなことを言いたくはなかった。それが自分達の失敗とはいえ、”先”のためには、こうするしか方法が見つからない。
何も言わず、黙ってその条件を飲んでくれと願った。
「………分かった! 分かったから、そんな顔して物騒なことを言うのは、止めてくれ!」
その決意が見えたのか、彼は、両手を出して声を上げた。
「約束する! 絶対に誰にも言わない! だから、もう……そんな顔するな。」
「…………。」
どうやら彼が血相変えて心配するほど、自分は情けない顔をしていたらしい。普段、あまり脅し文句を言い慣れていないせいか、彼には分かってしまったようだ。
あぁ、情けない。情けなくて涙が出て来る。
そう思いながら刀を引いて鞘に収めていると、彼は困り顔。
「……あんた、人を脅すのには向いてないな…。」
「うん。自分でもそう思うわ…。」
「あっ、待て。褒め言葉だぞ? 誰かを脅すなら、ルカ=ブライトの方が向いてるって事だ。」
「……ぷっ、確かに。」
彼の言う通りかもしれない。そう思ったと同時、笑いが込み上げた。
ごめんルカ、なんて内心謝りながら、思わず肩が揺れる。
顔を上げると、ナッシュが、安心したように笑っていた。
「なんだ…。あんた、そうやって笑えるんじゃないか。」
「……? 私だって、笑うぐらいはするよ。」
「いや、違うね。今までのあんたは、なんかこう、固いっていうか……心身共に常に緊張してるような感じがしてたけど、今は、肩の力を抜いて笑ってるってのが俺にも分かる。」
「あぁ…。言われてみれば、確かにそうかも…。」
言われてみて初めて気付く。この地へ来てから気を抜いて笑ったことなど、無かった気がする。そして彼は、ずっとそれを見ていたのだろう。
「ありがとね、ナッシュ。少しだけ肩の力が抜けたよ。」
「えっ? あ、まぁいいさ。俺もあんたの笑顔が見れてラッキーだからな。」
「…………。本っ当にキザだね…。」
「そ、そうか…?」
「ふふっ…。」
困ったように笑う彼を見て、自分も笑った。意外に、彼がお人好しだという事が分かった。
先ほど『私情を抜きで、仕事をこなす』と評していた自分が間違っていたことを知る。とても良い意味でだ。
暫く笑い合うと、彼が「本題に戻すぞ。」と話を戻した。
「それで……あんたと破壊者の関係、なんだけどな…。」
「…あぁ、そうだったね。でも、約束してもらっておいて何だけど………やっぱりあんたは、それを聞かない方が良いかもしれない。」
「なんでだ?」
「……もし私が、あんたと『ササライ』の関係を聞いたら? 余裕でそれを話せるだけの心構えが、今のあんたにあんの?」
思いつきにしては、随分と意地悪な質問をしたものだ。だが思いの他効果てきめんだったようで、彼は思いきり顔を強ばらせた。
あんた、スパイに向いてないんじゃない? よく今まで続けられたね。
そう思い笑っていると、彼は、心底感心したよう頷いた。
「………流石だな。」
どうやら、それは舌を巻くほどのものだったらしい。頭を掻きながら苦笑いしている姿。
しかし、どうして感づかれたのか理解し難いようだ。
「……チシャクランでだよ。」
「チシャの? ……いつ?」
「あそこで戦闘をした時、あんたは、ハルモニア兵士を殺してなかったよね? スパイクって武器を使ってたみたいだけど、急所、全部外してたでしょ? 隠密とはいえ、ハルモニア兵もあんたを狙っていなかった。この意味が分かる?」
「…………。」
なんとなく、と言いたげな彼に、更に付け加えて説明する。
「ササライが、あんたを見ていたのは、その視線を追えば簡単に分かったよ。それにあんたが、あいつを見てたのもね。あんたも馬鹿だよねぇ。クリス達だけならまだしも私たちがいる時に、それをやっちゃったんだからさぁ。それこそ、あんたの上司があいつだって嫌でも分かったよ。」
「………なるほどな。」
特にスパイという暗躍的な職業ならば、必ず、その国のトップクラスと接触があるはずだ。そう付け加えると、彼はまた苦笑い。
「………恐れ入った。探るつもりで、俺の方が探られたか。」
「さぁ、お互い様なんじゃない? 私は、約束さえ守ってもらえるなら全部話すつもりだったし。」
「…おいおい。それは、いくらなんでも俺を信用し過ぎだろ?」
「なに言ってんの? 破らない為に『約束』があるんでしょ? 信用出来ない奴に約束させない。もし、あんたじゃなくて他の誰かだったら………可哀想だけど、私達の『目的』が終わるまでは、監禁させてもらってた。」
「監禁って…。それならさっきの脅し文句は、何だったんだ?」
「あくまで脅しだよ。殺すつもりなんて無かった。」
「だったら…」
どうして殺すなんて言葉を使ったんだ? 俺が試した時点で、気絶させるなり何なりして、どこかに監禁しておけば良かったじゃないか。
そう言われて、ふと昔の事を思い出した。
『監禁』という言葉。蘇るのは、遠い日の記憶。
長い永い暗闇の底での、一人ぼっちの戦い。思い出したくもない、苦しい思い出。
「あんた……知ってる? 何も無い暗い場所で、一人でずっと閉じ込められる苦しさを。」
「へ?」
「……何でもない。忘れて。」
知らなくて良い。知る必要も無い。自分が経験したあの恐ろしい出来事を、他の誰かに味わって欲しいとは思わない。それに自分は、もう乗り越える事が出来たのだから。
「まったく…。あんた、破天荒って言われるだろ?」
「さぁ? 直接言われたことは、無いかなぁ…。」
考えながら言うと、彼は、呆れたように「はぁー…。」と長いため息をついた。そして一息分あけると、「あと…これは、俺の個人的な興味なんだが…。」と前置きした。
「ルカは、真なる紋章を持っているんだろ?」
「…本人が、そう言ってたよね?」
「だよな…。ってことは、もしかして、あんたも…?」
「………ナッシュ。言っておくけど、あんたはハルモニアの人間だ。個人的な興味とはいえ、あんたは、ハルモニアに仕えるスパイだ。それを踏まえた上で、私にその『約束』を守り切れるって自信がある? それに見合うだけの”対価”を、あんたは私に差し出せんの?」
「っ……。」
そう言うと、彼は閉口した。
自分としては、それでも彼が『知りたい』というのなら話すつもりだった。それで彼が満足出来るなら。ただ、彼を試してみたいと思っただけだ。
だが彼は、暫し躊躇した後、諦めたように首を振った。
「いや……やめておくよ。それに対してあんたが課す”対価”ってのは、俺には荷が重そうだ…。」
そう言って彼は、膝を叩いて立ち上がった。が、困ったように問うてきた。
「でも…良かったのか? あんたの紋章云々に関しては、いくらでも言いようがあっただろ?」
「…いいんだよ。私は、あんたを試しただけだから。」
「そう…か。でも一応、約束するぜ。絶対に誰にも言わない。」
そう言って彼は、村の方へゆっくりと歩き出す。タイミングが良いというべきなのか、その行き先からルカがこちらに向かって歩いて来る姿。
それを横目に、ナッシュを呼び止めた。
「……ナッシュ。」
「ん、どうかしたか?」
「私は……確かに、あいつらとは知り合いだけど……………あんたらの敵じゃないよ。」
それは、憂いの籠る悲しげな声だった。
彼女に背を向けたまま、ナッシュは、そう思った。
その声は直接胸を打ち、僅かな余韻を残して消えていく。
振り返りたい衝動に駆られたが、そうしなかった。代わりに目を閉じ、答える。
「……あぁ。その目を見ていれば…………分かるさ。」
そして、小さな声で「おやすみ。」と付け足して、その場を後にした。
だから彼には、聞こえていなかった。
彼女が「味方……とも言えないかもしれないけど…。」と自嘲気味に呟いていた事を。
アルマ・キナンの夜は、深く、終わりなき闇に溶けていく。