[彼と彼女の事情]
連れて来られた場所は、かなり大きな部屋だった。
そこは、彼の紋章の気配──残り香──が強い。彼専用の部屋だからだろう。
「ここにかけて。」
「…………。」
向かいの席を示す、彼の趣味とは程遠い豪華そうなテーブルとチェア。
示された場所に腰を下ろすと、彼もその正面に腰かけた。
・・・・・嫌な静寂だ。それが、この部屋全体を支配している。
なんとなく不気味で、汗ではないが、それに似た感覚が背筋を伝った。『この場に長く留まるべきではない』と、己の勘がそう告げているのだ。
それを振り払うように、彼を見つめた。だがその端正な顔立ちは、仮面に隠されていて見えない。僅かに差す光の加減で、少しだけ垣間見えたペールグリーンは、伏せられていた。
沈黙、沈黙、沈黙。
だが、こうしていても埒が明かない。そう思い、問うた。
「ここ、どこ…?」
「……ハルモニアさ。」
「ハルモニア!? なんで…!」
ハルモニアと聞いた途端、おぞましい記憶が蘇る。それをすぐに振り払い、視線を伏せた。
どうして、ハルモニアなんかに? 師より『決してハルモニアに近づいてはならない』と自分が言い含められていることは、彼も知っているはず。
いや、それより、彼にとっても、ここは危険な場所のはずだ。
「レックナートさんに……近づいちゃいけないって言われてるのは…」
「……そうだね。この国は、大々的に真なる紋章を集めているからね。きみ達にとっては、鬼門だよ。」
「私たちにとって…?」
その言葉に眉を寄せた。耳を疑った。
きみ達、というその言葉。その言葉は、まるでそこに彼自身が含まれていないように聞こえるではないか。
思わず首を傾げた。
「でも、あんただって……持ってるでしょ…?」
「……そうだね。」
「それなら、あんたにとってだって…」
「……………。」
その問いに、彼が答えることはなかった。その態度に、更なる疑問。
なぜ、答えない? どうして、そこで黙る?
それでは『違う』と言ってるようなものじゃないか。
・・・・答えてよ。『僕にとっても鬼門だよ』と、そう言ってよ。
そうじゃなきゃ・・・・。
沈黙が苦しい。全身がザワつく。
それだけではない。それよりも、もっと根本的な疑問があった。
何より、それを聞く事が先なのだ。
「なんで………あんた、ここに居るの? こんな所で、何してんの?」
それだけに尽きた。
ハルモニア。それは、真なる紋章を持つ者にとっては、本当の意味での鬼門となる国だ。
この国は、真なる紋章を集めている。その為になら、人の命を奪うことも、他国を破壊することも厭わない。時に虐殺を繰り広げ、紋章を集めるためなら、どのような行為も躊躇しない。どの国でも有名な話だ。手段を選ばぬその暴虐ぶりに、どの国も遺憾を抱いていた。
自然と自分の眉間に皺が刻まれていくのが分かる。唇は無意識に引き結ばれ、拳は固く握りしめて。
その中で、一つの『答え』が浮かび上がった。そして、それこそが正解なのだと、否定したい気持ちとは裏腹に、どこか確信めいた事を思う。けれど、それをはっきり聞くことが恐くて、彼の顔を見る事が出来ない。
だが彼は、そんな考えを打ち砕くように、静かに言った。
「神官将さ。」
「…………。」
やはりという気持ちと、また沸き起こる『何故?』。それだけが頭を駆け巡る。
しかし、その答えで幾らかの謎が解けた。
なぜ彼等が、アルマ・キナンで『真なる水の紋章』を狙っていたのか。なぜ炎の英雄の待つ地に眠っていたであろう『真なる火の紋章』を狙っていたのか。
彼がハルモニアに仕えているというのなら、納得出来てしまうのだ。
でも、一つだけ。一つだけ、分からないことがあった。
それは・・・・・
「なんで……なんで、カラヤクランを攻撃したの? あれも、ハルモニアの指示なの?」
「…………。」
「ルック、答えて。あそこにハルモニアと見られる兵士は、一人だっていなかった。あそこには、カラヤの戦士とゼクセン騎士しかいなかった。一部隊も率いずに、あんた達だけであの村を襲撃したの?」
「……そうじゃない、と言ったら?」
彼のその言葉が、自分の思考をかく乱する為に吐かれたものだと、瞬時に見抜いた。
故に、冷静な言葉を返してやる。
「へぇ…。あんた、いつから私に嘘をつくようになったわけ? まさか、ハルモニアから『隠密に動くように』とでも言われたとか? あんたらだけで、秘密裏にカラヤクランを攻撃するよう命を受けた、とか言うつもり?」
「……そうだよ。」
「悪いけど、信じらんないわ。」
「……どうしてだい?」
本当に、彼には分からないのだろう。思わず笑ってしまう。
「いつもあんたは、私に真実を告げる時、かならず目を見た。でも、今のあんたは違うよ。私から目を逸らしたよね。…仮面をつけてても分かる。あんたは、今まで私に嘘をついたことは無かった。それこそ一度たりとも…。それまでのあんたを知ってるからこそ、私には、あんたが嘘をつけば一発で分かるんだよ。」
「……………。」
彼は、黙っていた。
それを見ながら、もうこれ以上責めるような事を言わせないでくれと願う。
「いい加減に、本当の事を言いなよ。あんたら、何しようとしてんの? 神官将とはいえ、ハルモニア本国に隠れて、どうして戦争を引き起こすような真似をするの?」
「……僕が、この国の神官将だからだよ。」
「ハルモニアの為に、とでも言うつもり? 悪いけど、それは私には通らないよ。あんた、口は悪いけど、進んで人を殺めるほど非情じゃない。いい加減にちゃんと答えてよ。なんで、あんたら単独で村を襲ったわけ?」
今度は、言葉を待った。それ以上責めたくなかったからだ。
答えてくれれば良いと、そう思った。他に何か理由があると・・・。
しかし、次に彼が言ったのは、その『答え』でもなく『理由』でもなかった。
「……。どうしても、戻る気はないのかい…?」
「その名前で呼ぶな。今は、って名乗ってんだから。」
「………、ね…。」
繰り返しながら彼が、ゆっくりとした動作で仮面を外してテーブルの上に置いた。その表情は、自嘲するように笑っている。かつて羨ましいと感じた長い睫毛は伏せられて、とても儚い印象。
でも・・・・違和感。その仕草と憂いに満ちた表情に、悪寒めいたものが強まる。
これは・・・・・なに?
「ルッ…」
「何も聞かずに………帰ることは出来ないかい?」
・・・・まただ。また彼は、それだけに拘るというのか。
「ルック…。いい加減に、話をはぐらかさないで、ちゃんと質問に答えなよ。」
「もし…、もし僕が『目的』を話すことで、きみが邪魔をせずに帰ってくれると約束するなら………教えるよ。」
「それは、あんたの『目的』次第だよ。」
ふぅ、と彼が小さなため息。本当に、困ったような顔だ。
それを見て、思う。いつの間に、彼はこんな大人びた表情をするようになったのだろうと。
「それなら……言えない。」
「だから、何で言えないの?」
「…………。」
また黙る。これでは堂々巡りだ。話し合いにすらなっていない。
は、盛大なため息とともに、思わず手で額を覆った。
「はぁ…。まーた、だんまりかぁ…。そんなら、質問変える。『それ』は、セラやユーバーには言えるのに、私には言えない事なわけ?」
「…………。」
「ルック。いい加減に焦れったいから、そろそろ本気で怒るよ。」
「…………そうさ。」
それは『観念』とも言えないだろう。彼は、その質問には正直に答えてくれた。
は、椅子を立ち上がって彼の傍に立つと、座ったまま動かないその顔を見下ろした。