[闇に舞う]



 頭がグラグラする。腰が痛い。
 意志を持った『何か』が、促す痛み。思わず忘れていた事を、思い出せそうなほど。
 誰かが、呼んでいた。ずっと、ずうっと。

 「!」

 今度は、はっきりとした声。
 その声によって、それらは、心に靄を残したまま、全て忘却の彼方へ置き去りにされた。






 「……おい、!」
 「ん…」

 響くほどの怒声で目を開けると、目の前にいたのはルカ。先ほどから自分を呼んでいたのは、どうやら彼のようだ。
 ズキ、と痛みの走る頭に手をあてながら、身を起こすと、続いて目に入ってきたのは、少し離れた場所から心配そうな視線を送ってくるトーマスやセシル、そしてアップルの姿。
 それに、思わず目を丸くする。

 「あれ? なんで…」
 「全く、無茶をしおって…。」

 彼等がいるということは、ここは、ビュッデヒュッケ城なのだろう。しかし、どうやって自分がこの場所に戻ってきたのか、まったく記憶に無い。転移は使っていないはずだ。
 いや、それより・・・・。
 ふと思い当たった。ルックだ。彼が、転移を使って自分をここへ帰したのだ。

 と、ルカが、額をベシッと弾いてきた。それは軽いものだったが、頭痛に響いて思わず声を上げる。

 「いって!? あんた、何す…」
 「……今は、何も喋るな。歩けるな?」
 「あ、うん…。」

 周りにいる者達に聞こえぬようにと、彼が声を落としたことで、何を言いたいのか瞬時に理解する。頷いて、彼の手を借り立ち上がった。

 「さん……大丈夫ですか?」
 「光が現れたと思ったら、さんが出てきたんですよ! 大丈夫ですか?」
 「さっきの光は…?」

 トーマスに続き、セシル、アップルと声をかけられて、一言「…大丈夫、ありがとう。」と返す。その後ろには、セバスチャンやアイク、果てはどこから騒ぎを聞きつけたのかジョアンやマーサまでもが。確かに、ここで話をするには、人が多過ぎる。
 心配をかけたことに「済まなかった。」と詫びると、ふらつく体をルカに支えてもらいながら歩き出した。

 もしかしたら、もう、ここには居られないかもしれない。ここまで大げさに目立ってしまっては、後々何かと目をつけられてしまうのは明白だ。それは、自分達に枷をつけることになる。現に、ここに必要以上の人間が集まっていたという時点で、これからの結果を物語っている。
 噂とは、瞬く間に広がるものだ。
 トーマスやセシル辺りなら仕方ないが、ジョアンやマーサ、その他自分に全く関係ない者達にまで『何かある』と思わせてしまったのだから。
 彼等の興味を引く事は、自分達にとって、大変よろしくない。

 すると、そんな自分の心境を見抜いたのか、アップルだけは「…さんも目を覚ましたことですし、皆さん戻りましょう。」と言って、他の者の目を紛らわせてくれた。
 とても、とても有り難かった。

 「アップル、ありがとう…。」
 「いえ、いいんです…。少しでも、あなたの役に立てるなら…。」

 彼女に静かに微笑みかけて、自室へ戻った。






 「……それで?」
 「……………。」

 部屋に戻っても、まだふらつきがある頭を押さえている彼女を椅子に座らせて、ルカは、まずそう問うた。それに対して、彼女は俯き沈黙する。

 「おい…」
 「結局……私は……………なーんにも……守れなかったよ…。」

 続きを促すと、少し間を空けそう返ってきた。それに思わず苦い顔をする。
 それだけで、彼女の望んだ結果にならなかったのだと、理解したからだ。
 きっとあの男は、もうこの世にはいまい。彼女がこれほど沈んだ顔をするのだ。見れば、その瞳からは涙。思わず歯を噛み締め、拳を握りしめた。
 出来る事といえば、もうこの世にいないだろう『彼女の友』に、恨み言を呟くぐらい。

 『お前は……こやつが、涙を流すことを…………分からぬはずがあるまい……?』

 しかし、それは、あの男が選んだ結末なのだ。また、自分も引き止めることをしなかった。これは、あくまで結果でしかない。だが、いくら過程が違えども、もしかしたらその結果に到達しなかった可能性があったのではないか?
 そう考えると、簡単に誰かを責めることは出来ない。それは、彼女の抱える後悔を増長させる事でしかないのだから。
 自分がそれと言葉にしてみせても、彼女の心が闇から浮かんで来ることはないだろう。
 だから、それ以上彼女に言葉をかけることが出来なかった。

 彼女も、恐らく理解している。あの男が、もうこの世にはいないことを。
 その瞳からは、絶えず涙が零れ落ちていた。止まることを知らぬように項垂れ、手で顔を覆い、小さな嗚咽を漏らしながら・・・。

 時折、彼女の中に垣間見える闇。それを抑えようと、打ち消そうと。
 死せるものなら、どれだけ楽なことだろうか。彼女は、きっとそう考えている。
 その涙は『絶望』を。震える体は『後悔』を。そして、固く閉じられた唇には『失意』を。誰に打ち明けることもなく、只ただその胸の内に秘めるのだ。

 そんな彼女に、何も出来なかった。
 いや、ただ一つだけ、出来ることといえば・・・・・・彼女のバンダナを外し、露になった頭を優しく撫でてやることだけだった。優しく。優しく。
 かつて『狂皇子』と言われた者とは思えぬほど、不器用な暖かい手で。

 不意に、彼女の口から零れたのは「ごめん…。」という言葉。
 いったい誰に手向けられたのかは分からなかったが、それは、己の胸の内にいい知れぬ虚しさを灯した。






 その一件から、彼女は、あまり出歩かなくなった。
 『誰とも会いたくない』『話したくない』と言って。

 ルカは、それに「…好きにしろ。」と返しながらも、彼女を、彼女に会いにくる者全てから遠ざけた。それは、彼なりの優しさだった。
 傷つき、それを慰める術を知らぬ、人の矛盾を悉く体現するかのような彼女を心配しての。

 今は、いい。お前は、無理をしなくてもいい。
 少しだけ休め。少し休むことくらい、許されてもいいはずだ。

 それが、彼の想いだった。



 伏せっていた彼女が、『クリスが、真なる水の紋章を継承した』と聞くのは、この一件より数日後のこと。