[迷宮・1]



 広大な岩山に面している洞窟内に設けられた、人工的に削り上げられた一室。
 灯りがなければ一切光の届かぬその部屋で、ランプの火が小さく揺らめいていた。
 広いとは決して言えぬその場所で、ルックは、額に手をあて俯く。

 ここは、虫使い達にとって『神聖な場所』であると、誰かに聞いた。その部屋を通過した先には、祭壇のようなものが奉られている。
 それが、いったいどうしてこのような場所にあるのか理解不能だったが、この暗くて広い洞窟は、己の目的を一つ達するのに適していた。

 「ルック様……。」
 「……セラかい? 入ってくれ。」

 そうは言ったものの、扉という外界との接触を遮断する物は一切無いため、自身の言葉に失笑する。
 返答を得た後、セラが、ゆっくりと中へ入ってきた。だが、小さなランプの灯りだけの部屋を見て、僅かに首を傾げる。

 「暗くありませんか…? もう少し、灯りを…」
 「……いや、構わない。これぐらいが丁度良いんだ。」

 その申し出をやんわりと断って、両手で顔を覆う。本音を言ってしまえば、この灯りすら鬱陶しい。暗闇の中にいる方が、心が落ち着くのだ。
 その思考を解したのか、セラが僅かに顔を伏せる。

 「分かりました。それと……。」
 「……兵士の一人は、ちゃんと逃げたのかい?」
 「はい…。見張りを緩めるフリをして、一人だけ逃がしました。」
 「そうか、分かった。後は、彼等を待つだけだ。」

 「ルック様……。」
 「……何だい?」

 顔を上げて視線を向けると、彼女は、悲痛そうな顔で嘆くよう言った。

 「本当に……」
 「…セラ。僕は、言ったはずだ。この日の為に、この30余年という時を過ごしてきたんだから…。」
 「………はい。」

 そう言って、顔を伏せたままの彼女から視線を外す。
 自身の持つ『それ』は、また悲願でもあった。と同時に、自分が憂う未来を解き放つ儀式でもある。未来を壊すためではない。救うためだ。

 セラが踵を返し、静かに部屋から出て行った。






 頼りなさげに光る、ランプの灯り。
 それを消して席を立ち、手探りで壁を探した。ペタと壁に触れれば、ヒヤリとした感触。それに背を付けた途端、全身が脱力した。
 ずる、と衣擦れの音をさせて、ゴツゴツした岩に尻をつく。一切灯りの灯らないその暗闇の中で、そっと目を閉じた。
 頭の中に過ったのは、『彼女』のことだ。



 ふと、『彼女』の怒っている顔が、浮かんだ。



 彼女は、いつも気に入らないことがあると、自分の頭をはたいてきた。「このクソガキ!」と言って。最初は、それに『なんて暴力的な奴だ!』と思ったものだが、次第に慣れてしまっていた。

 でも、本当は、ちゃんと知っていた。彼女のその瞳が、いつだって優しかったことを。あれは、照れ屋な彼女なりのスキンシップだということを。
 あの鉄拳は、痛いには痛いが、それはそれで悪くなかった。今は、もう殴られることもないけれど・・・・。

 この地へ来てから、彼女の宿す『闇』が、自分の想像するものより更に深いのだと改めて認識した。昔、師が誘った過去への旅より帰還した際、彼女の瞳には、すでにそれが垣間見えていた。それは、深く、暗く・・・。
 親友を亡くしたと、デュナン統一戦争の時に彼女は、涙を流してそう言っていた。『救えなかったのは、自分の所為だ』と。
 けれど、それは誰の所為でもない。それを彼女に告げるも、その瞳に光が差すことはなかった。

 それから暫くして、今度は、それに追い打ちをかけるよう、彼女は恋人の死を知った。その時のあの涙を、今でも忘れることは無い。遠目からでも分かる、震える肩。その唇から零れた、愛する者の名前。
 自分は、いまでもあの夜を・・・・月の光に支配された世界で、ただただ涙を流す彼女の姿を忘れたことはない。

 それから、彼女の持つ闇は、更に大きなものになった。一番辛いはずなのに、それを押し隠すように笑っていた。その傷は、今でも渇くことなく、彼女に痛みを与え続けているのだろう。それでも、生きることを願われた彼女に・・・・。



 目を開けた。変わらず闇に支配されている、この部屋。
 次に浮かんだのは、自分の知る彼女とは、正反対の『彼女』のこと。
 悪寒すら走る、『無』を宿した彼女の姿だった。



 一度目は、ダッククランでの戦闘だったか。
 二度目は、真なる水の紋章が眠っていた、あのシンダル遺跡で。
 思い出しただけだというのに、手に汗をかく。

 自分の知る彼女とは、すぐに手は出るものの、決してただの乱暴者というわけではなかった。相手が敵であったとしても、そんなことに構わず慈悲を見せ、どんな生き物にも愛情を持って接する。
 それが、今まで自分やセラを安心させてくれていた事も、重々承知している。
 それ以外の彼女を知らない。知らなかった。

 けれど、それは、彼女と敵対することで突如崩れ落ちた。明るいには明るい。しかし、同時に残酷さを併せ持つ、無邪気な子供のよう。無の中でポツンと佇む、恐ろしさ漂う絶対的な存在。彼女という存在を『恐い』と、始めて感じた瞬間だった。
 だが、彼女が彼女でないことも、心のどこかで分かっていたのかもしれない。『心には、光と闇が存在する』と、彼女自身、そう言っていたのだから。
 何がきっかけとなったのは分からないが、きっとあれが彼女の闇であり、彼女の中にある裏の存在なのだ。

 ここで、一つ分かったことがある。

 ころり、と。まるで音がつくような変わり様に、彼女本人は気付いていないのかもしれない。あの豹変は、『彼女の中で眠る者』が引き金となっている。彼女の右手に宿るあの紋章が、それを呼び起こしている。
 一概に『それ』だと言い切れる自信はないのだが、ここである事を思い出した。自分の師が、彼女の紋章のことを口にしていた時のことだ。

 『あの紋章には、いくつもの封印が施されています…。そして、その力を解放する度に、所持者には、”副作用”が表れるのです……。』

 副作用。

 思わず目を開け、口元に手を当てた。師の言っていた『副作用』というのが、彼女のあの180度変わってしまったような人格なのか。その副作用とやらが、彼女の闇を、本人の自覚無しに引き出しているのか。
 その原因となったのが、あのダッククランでの一件。自分の真なる風を、彼女が簡単に使用した、あの事件。

 きっと、あれが始まりだった。

 小さな力ならまだしも、真なる紋章となれば、それを解放するには大きなリスクが伴う。それが、彼女の『光と闇を入れ替える』という、大きな影響を及ぼしたのではないか?



 そうか・・・・・そうだったのか。



 心の中で渦巻いていた疑問が、一つ解けた。
 思わず嘆息する。安堵というより、気落ちしたものだ。

 もう一度、目を閉じた。
 今、自分の中にある『謎』を、出来る限り解いておこうと。



 次に浮かんだのは、憂う彼女の顔だった。