[崩壊─Side L・S─]



 シンダル遺跡、最奥。
 空を見渡せるその祭壇付近は、戦いの名残によって所々崩れていた。
 その中央には、正方形に象られた石造りの祭壇。

 その中心部で、少年が膝をつき、苦しげに肩を揺らしていた。

 開けている、青く澄み切った空の下。少年の目に映るのは、固く冷たい石畳のみ。
 膝をついているのも辛くなって、少年は、四つん這いになり咳き込んだ。

 「ぐはッ……………くっ…………。」

 嘔吐感に耐え切れなくなり、込み上げる物を吐き出す。ボタッと口から流れたのは、自分自身にも流れていたのかと思うほど、真っ赤な血液。それは止めどなく石畳を濡らし、少しずつ広がっていく。それが見えているのかいないのかすら、分からなかった。

 視界が、思うように定まらないのだ。

 と・・・・

 視界の端に見えたのは、鮮やかな青。ゆっくり顔を上げて視線を向ければ、長い青のドレスの裾を揺らしながら歩いて来る、あの娘の姿。
 少しふらついていたが、彼女は、それでも段を上がってやって来た。

 「ルック様……。」

 彼女は跪くと、優しく自分の体を助け起こした。
 柔らかい温もりが、己の背を支えてくれる。

 「ルック様…………大丈夫ですか………。」

 彼女は、自分の肩に手を添えて、伺うように見つめてきた。定まらなかった視点が、少しずつ彼女の顔を捉え始める。

 「セ、セラか……。」

 声を出し、また咳き込んだ。口から鮮血が溢れた。



 セラは、それを見て瞳を揺らした。

 「五行の紋章の力を集めて………僕の中の、真の風の紋章を壊そうとしたけど……結局は、その力を引き出すのに留まった……。」

 再度、彼が咳き込んだ。けれどセラは、彼の口から流れる赤が顔にかかろうとも、気にならなかった。そのペールブルーの美しい瞳は、この世界でたった一人、彼だけを写している。

 「そして………その暴虐な力に………………僕の魂は、耐えられなかったよ。」
 「ルック様……………それでは………」

 話すだけでも辛いだろうに。彼は、それでも力を込めて顔を上げた。

 「やがて、この遺跡も崩れる………セラ……きみは逃げるんだ………。付き合うのは、ここまででいい………。」

 胸が締め付けられた。苦しくて切なくて。鼻の奥がツンとする。
 それを見せることはせず、代わりに、自らを決して『娘だ』と言ってくれたことの無い彼を、優しく抱きしめた。

 「いえ………私は、百万の命よりも、貴方を選んだのです。それは、許される事ではありません……。」
 「セラ……。」

 暖かい。でも、少しずつ冷えていく、その温もり。
 そっと目を閉じた。



 少しずつ、だが確実に、この遺跡は崩壊の一途を辿っている。
 セラは、彼を横たえると、その頭を自分の膝へ乗せた。そして小さな声で語り出す。今、自分の胸に在るものを。ずっとずっと伝える事が出来なかった、この想いを。

 「私は………あの神殿で、ひとりぼっちで暮らしていました。誰ひとりとして、私の力を欲しても、私を欲してくれる人はいませんでした。ただ、貴方がたを除いて…。」
 「僕も……………きみの力が、欲しかっただけなのかもしれないんだよ……。」

 ゆっくりと目を開けてそう言った、彼。けれどセラは、それに小さく首を振った。

 伸ばされた、最愛の人の手。それが、そっと己の頬に触れてくれるだけで、十分だった。それだけで、他の命よりも大切なものがあるのだと。この世界よりも大切なものがあるのだと。
 僅かに震えるその右手を、愛おしく想いながら、優しくそっと握り返す。

 「いいんです。私がそう思える事が、大事だったんですから……。その喜びだけで、私は貴方を選んだのですから…………その罰は、受けましょう……。」

 初めて打ち明けた。自分が抱いていた、この想いを。
 それを教えてくれたのは、他でもない、彼だった。

 そして・・・・・

 叶う事はない。けっして適わない。
 それは、ずっと昔から分かっていたこと。
 この”想い”が、決して彼に届かぬことぐらい。

 幼い頃から。いや。彼等と初めて出会った時から。
 彼が・・・・彼女を愛していたこと。
 彼女を見つめるその瞳は、いつだって優しさと愛しさに満ちあふれていたこと。
 触れる事はなくとも、いつでも、その想いを静かに称えていたこと。

 ずっと昔から、気付いていた。
 自分を『娘』と呼んでくれたことの無い彼が、自分を『娘だ』と呼んでくれる彼女を愛していたこと。
 でも、それで良い。それで充分幸せだったのだから。
 彼等に囲まれて、彼等と生きてきて。

 彼等に・・・・・・・愛されて。

 目を閉じて、苦しげな彼のそばに寄り添うことが出来るだけで。
 最後まで、その傍に居ることが出来ただけで。
 それだけで、自分には、もう何も思い残すことは無いと・・・・・・

 そう・・・・・・・思えた。

 『私は………幸せでした……。ありがとう………ルック様……………そして…。』

 閉じた瞳からは、光る雫。
 それは、目を閉じている彼の頬にポタッ、と零れ落ちた。






 最後までそばに居てくれた娘に身を預けながら、ルックは、これまでの事を思い出していた。走馬灯のように頭の中を駆け巡っては、消えていく。巡っては消え、消えてはまた廻り。
 そして、それを見るということは、即ち自分の死期が近いものだと・・・。
 少しずつ朦朧とし始める意識の中で、そう思った。

 と。

 不意に、それまで自身の右手を包み込んでいたセラの手が、するりと落ちた。それを感じて、目を閉じたまま声をかける。
 今なら、まだ・・・・。彼女だけでも逃がす事が出来るかもしれないと思ったから。

 「…………………。でも………やっぱり、きみだけでも……。」

 言いかけて、ふと、頬に冷たい感触。それは・・・・・・水滴?
 ゆっくりと目を開ける。
 視界に映るのは、穏やかそうな顔をして目を閉じている、娘の姿。

 「セラ………?」

 けれど、それに彼女が答える事は、無かった。
 なにも・・・・・・答える事は、無かった。
 何も言わず、語らず。

 触れた彼女の頬からは、少しずつ、でも確実に引いていく”生”の気配。

 右手が震えた。
 彼女の頬からは、一筋の涙の痕。
 あぁ・・・・・きみは、もう・・・・・。
 胸の中が、じわりとしたもので満ち満ちていく。

 「っ………。」

 涙は、出なかった。彼女が、代わりに流してくれたから。
 でも、それでも。
 『セラ』という存在が、自分の傍に居てくれたことに、感謝せずにはいられなかった。

 「セラ……ありがとう…………僕の魂も救われる……。僕には無いと思っていた、魂の存在を……………今は、確信出来る………。」

 目を、閉じた。
 死の気配が、ゆっくりと自分を飲み込もうとしている。
 あとは、それに流されてしまえば、全てが終わる。

 そう、全て・・・・・

 もうすぐ自分は、安らぎを手にいれられる。
 安らぎを手に入れ、永遠の安息につく事ができる。

 けれど・・・・・・

 ふと、聞き慣れたような、懐かしい声が聞こえた。

 「ルック」と。



 迫りくる死の気配が、一瞬、自分から離れたような気がした。