「…………ルック……?」



 力が、抜けたのが、分かった。
 誰の・・・・・?

 ・・・・・・・・・・・・・彼、の。



[絶望の罪]



 「……ルッ……………ク……?」

 もう一度、名を呼んだ。
 彼の名を。

 けれど、彼は、自ら身を離すことも無く。
 自らの力で、体を支えることも無く。

 回していた腕を、する、と下ろした。



 ・・・・・違う。
 下ろしたのでは、ない。

 それ、は・・・・

 自然と、力が抜けるように。
 緩やかな時の流れが、ピタリと、その指針を止めたように。
 まるで、彼の中にあったものが、どこか遠くへ解き放たれてしまったように・・・。

 自分を抱きしめ返してくれることは、無かったのだ。

 「ルッ………っ…………。」

 彼、が。
 もう、二度と、自分の名を呼んでくれることは・・・・・

 「ッ……。」

 体が震えた。
 『それ』が、何を意味するのか、分かってしまったから。

 力を失った、腕。
 自分の肩に埋もれた、柔らかな髪。
 もう、自分の名を呼んではくれない、その唇。

 草原を駆ける『風』が、二度と自分の傍にいてくれることは、無いのだと・・・・。

 「…っ………!!」

 肩からの振動は、やがて、全身に。
 それは、小刻みではなく。
 心の奥底から、震わせるように。

 奥深い『核』の部分から。
 まるで、一筋の亀裂が、更なる亀裂を生み出すように。

 パキッ、という、小さな音。
 それが、心を一気に駆け抜けていく。

 それと、同時。
 『絶望』という名のつけられた、哀しくも儚い、その旋律の中。

 心の、最も奥深い場所で。

 何かが・・・・・・・・・・・弾けた。



 「……ッ……………いやぁァあぁァーーーーーーーーーッッ!!!!!!!!!!!!」



 崩れゆく、深く蒼い遺跡の最奥部で・・・・・
 女の泣き叫ぶ声だけが、澄んだ空へと響き渡った。









 やっと、辿り着いた。
 彼女と・・・・・そして、彼女の大切な者達がいるだろう、蒼の広がる暗闇の淵に。

 とルカ、
 その中には、後から追ってきたシエラの姿もある。

 だが、突如その空間を切り裂いた絶望を思わせる叫びに、皆が目を見開いた。
 そして、その中心で膝をついて泣き叫んでいる女を見て、が咄嗟に駆け出す。

 「ッ!!!」

 ルカや、そしても地を蹴ろうとした。
 だが、それをシエラが視線で制して『行くな』と首を振る。

 ・・・・・理解したのだ。
 オリーブグリーンの髪の少年を抱きしめながら、狂ったように泣き叫ぶ女の姿を見て。
 彼を救えなかったのだ、と・・・・。

 も、そしてルカも。それぞれが、それぞれの表情を灯し、目を伏せた。
 シエラは、彼等から視線を外し、ゆっくりと踵を返すと右手を掲げ、何も言わずに光に身を任せた。
 は、それを視界の端に置きながらも、動く事が出来なかった。
 も、ルカも、顔を上げる事が出来なかった。






 「!!」
 「や、だ………いやだぁッ!!!! やだよ、置いて逝かないでよぉ、ルック!!!!」

 彼女の傍に膝をついて、は、その名を呼んだ。
 だが彼女は、それを無視し、声を張り上げて涙を流している。

 空間を覆っていた壁が、ズ、という音を立てていた。

 「!!」
 「…いやだ……やだよぉッ!! いかないで…………いかないでよぉ、ルック………私を置いて逝かないでよぉッ!!!」

 震える肩に手を置いて尚声をかけるも、彼女は、身をよじってその手をはねのける。

 「…。」
 「…うぅっ……やだよ……やだよ!! 一人にしないでよぉ!!! なんで私ばっかり置いてくの!!!!」
 「っ……。」

 そんな彼女の心境を、は、痛いほど理解していた。



 彼女にとって、きっと自分は、大切な友である。それは、よく理解していた。
 そして彼女が、これまでどれだけ残されてきたのか知っていた。
 当事者でもあった。介入者でもあった。

 だから、彼女が、何より大切だった。

 でも、彼女は、また失った。
 そう・・・・失ったのだ。

 彼女にとって、”大切”な、ただ一人の娘を。ただ一人の弟を。
 何者にも代える事が出来ない、ただ一つの『家族』を。

 それだけで、心が抉られた。

 彼女を見て。
 家族を失い、現実に涙する彼女を。
 彼女の瞳に『完全なる絶望』を見出してしまったから・・・・・



 「………。」
 「うっ……うぅ…………ルッ……っ………クぅ…!!」

 もう一度、彼女の肩に手を置いた。その心が、少しでも落ち着くようにと。
 だが、やはり彼女は、それを拒んだ。振り返ることもせずに。
 そして、嘆くように、呪うように天を見上げ、あらん限りの声で叫んだのだ。

 「なんで……なんでよ……なんで奪うのッ!? 私からアルドを……テッドを奪ったくせに!! その上、セラやルックまで…!!!」
 「……。」
 「っ……どれだけ………どれだけ奪ったら、気が済むのッ!!!!!」

 この世界の誰もが受け持つ、”宿命”。
 それに対し、これまで決して出すことの無かっただろう彼女の心の叫びが、天へと吐き出された。
 親友を、恋人を、そして家族までも失った、彼女の・・・・。



 いつか『人や運命を恨もうとは思わない。思いたくない』と、そう言った彼女の言葉が、蘇る。
 それは、彼女が、いかに『彼女自身』を憎もうとしているかの表れでもあった。誰かや何かの所為にしたくはないという、そんな彼女の葛藤。

 しかし、その心の奥底にしまい続けていただろう、誰にも吐き出せなかったその『言葉』を、彼女は、とうとう吐き出した。『絶望』という言葉を、心の底から吐き出したのだ。
 それは、古来から友人として接してきた自分にすら語られる事のなかった、彼女の本心。

 人は人であるが故、その心理には、常に大きな葛藤を持ち続けている。
 様々なものを、それこそ死ぬその瞬間まで。

 『誰かの所為じゃない』
 『何かの所為じゃない』
 『自分自身が悪いのだ』

 ・・・・・でもその中では、もう一人の自分が、相反するように、こう言うのだ。

 『誰の所為でこうなった?』
 『何の所為でこうなった?』
 『……否。決して自分が悪いわけでは無いはずだ』

 それだけで・・・・・

 は、この160年という時を経て、彼女の心に巣食う『闇』の本質を。
 彼女の持つ『本当の闇』を、見た気がした。

 そう・・・・
 彼女も”人”なのだ。人であるが故に、自らを責め続ける事を”罰”として背負ったのだ。
 けれど、人であるが故、失うことに堪え切れず、慣れもせず、ただ涙を流しながら、ずっと心の奥に溜め込み続けた怒りや嘆きを、己が”宿命”に対し吐き出したのだ。

 『もう奪うな』と・・・・。



 それが分かっていたからこそ、は、言った。
 今度は振り払われないよう、その体を後ろから抱きしめて。

 「…。」
 「っ、……い………だ……」
 「ここは、もう、崩れる…。」
 「いや……だ……」
 「ここから、出るんだ…。」
 「…っ………………嫌だッ!!!!!」

 彼女が身を捩った時、東側の壁が、けたたましい音を立てて崩れ落ちた。
 だが彼女は、それでも弟を胸に抱き、その場所から離れようとはしない。

 「…」
 「嫌だ…ッ……嫌だ…………嫌だぁッ! 私は行かないッ!! この子たちを置いて行けない……っ……生きていけないっ!!!!!」
 「ッ!!!!!」

 思わず声を荒げた。
 彼女は、ビクリと肩を引き攣らせたものの、決してその亡骸を離そうとはしない。
 だからは、その肩を優しく抱きしめながら、はっきりと伝えた。



 「ルックも、セラも……………………死んだんだ。」



 「っ……!!」

 言わなくては、ならなかった。はっきりと、認識させなければならなかった。
 彼女に、現実を受け止めさせるためには。
 その言葉を伝えるのが、どれだけの苦痛を伴うか。
 自分の最も大切である女性に、『愛する家族は、もうこの世には居ないのだ』と。

 告げられた者の、絶望。告げなくてはならない、己が責務。

 それで、ようやく彼女も理解したのだろう。ゆっくりと息を吐きながら、小さく項垂れた。
 全身を震わせ、涙を流しながらも。
 自分が、あえて辛い役を買っているのだ、と。

 でも、それでも・・・・

 その全身を支配している『絶望感』は、留まる事を知らなかった。

 「……って………。」
 「……?」
 「……行って………。」

 彼女は、ルックを胸に抱いたまま、横たえられていたセラの頬に右手を添えた。労るように。優しく、優しく・・・・。
 その間にも、崩壊は、もうすぐそこまで近づいている。

 「行って……。私は、いいから………。私は、この子たちの傍に…っ……居たいから…!」
 「……………。」

 それが、彼女の『答え』なのだろう。ここに残り自らも幕を閉じる、と。
 愛する者の亡骸を胸に、自らも終わりを告げるのだ、と。

 それは、その場にいた誰もが理解した。

 そして、それは、彼女の”覚悟”。
 生きていく事に絶望した、彼女なりの決断。

 でも・・・・・・・

 は、その望みを叶えてやることが、出来なかった。
 闇の狭間を彷徨い続ける彼女を『許す』ことが、出来なかった。
 だから・・・・・・

 小さく謝罪した。「……ごめん…。」と。

 瞬間。

 彼女が、ゆっくりと崩れ落ちた。
 自分の右手に宿る、風の眠りを受けて・・・・・。



 『罰』と『許し』。
 それをその身に宿す少年は、一つ涙を零した。
 自らも、『罪』と呼ばれるものを背負って。

 それが、決して・・・・・・許される事では無いのだと、強く心に刻みつけながら。









 音を立てて、遺跡は崩れる。

 古代、シンダル族が残したとされる、忌わしい儀式を行う彼の地で。

 ゴ、という音が響く。

 その奥深き場所も、砂煙に覆われた。



 やがて、崩れ落ちる音も砂煙も、時と共に静まりを迎えた。



 しかし・・・・・

 全てが沈黙した、その場所に・・・・・・・・・・彼らの姿は、どこにも無かった。