[幻想水滸伝]



 ふわふわと、誰かに頭を撫でられていた。

 微弱な覚醒は、時を経て、やがて全身を促していく。
 しかし体は、全くと言っていいほど動いてくれず、瞼がとても重い。全身に鉛でもつけているような感覚の中、まず脳に浮かんだ言葉は『だるい』だった。
 体が覚醒するのを待つ間に、まず、先ほどの不可解な現象について考えてみる事にした。

 頭痛に耳鳴り、そして目眩。
 あれは、一体なんだったのだろう?
 その原因が、あの『声』のせいということだけは、はっきりと確信する。

 そうしている間に、ゆっくりと、軽くなった瞼を開けてみた。
 だが、見えた景色に思わず首を傾げてしまった。
 ゴシゴシ、と目を擦ってから再度見直すも、目に映るものは変わらない。

 「………なに、ここ?」

 目に映るのは、広大な草原。
 見渡す限り広がる若草の色を、風がなでる、撫でる。
 自分は、その全てを見渡せる場所……大きな青々とした樹木が、ポツンと一本茂る場所にいた。

 「な、何なのここ? ってか、ここ…どこ?」

 驚きに目を見開いたまま立ち上がり、傍の巨木に手を添えながら「そんなはずはない」と辺りを見渡す。頭が回転を始めた。

 ここにいる前は、自分は、どこで何をしていた?
 確か直前まで、自分の部屋でパソコンをつけて音楽を聴いていたはずだ。
 だったら、ここはなんだ? ここは、どこだ?
 なにより自分は、こんな場所を知らないし、来た事もなければ見たこともない。
 目の前に広がる風景が、ただただ、頭を混乱させた。

 突如、目の前に眩い光が出現した。それに驚き、慌てて目を閉じる。
 光は、すぐに止んだ。ゆっくりと目をあける。

 「…………は?」

 それしか言葉が出てこなかった。
 何故なら、目の前には、ローブを纏った痩身の女性が立っていたからだ。
 夜を現すような漆黒の髪に、抜けるほど白い肌。閉じられた目を縁取る睫毛は濃く長く、羽織るローブからすらりと伸びる指先は、細めではあるが女性らしい繊細さを見せている。
 だが、ぱっと見た瞬間から、女性の纏う衣服に違和感を感じていた。

 「コ、コスプレイヤー?」

 思わずそう口に出してしまったが、この女性を見た事があると思った。
 だが女性は、何の反応も示さない。

 「ど、どちら様ですか…?」

 問うも、先と変わらず、女性は反応を示すことがない。
 この女性は、耳が聞こえないのだろうかとも考えたが、とりあえず此処がどこなのか聞こうと再度口を開く。が、それより早く女性が話し出した。

 「……突然現れた事を、どうか許して下さい。私はレックナート。バランスの執行者にして、運命の見届け人…。」

 「えっ…!?」

 頭の中が、真っ白になる。その女性の名を知っていたからだ。
 なによりよく知る、ゲームの、登場人物の、名前。
 そして、その台詞。彼女の名前を知ることがなくとも、その『ゲーム』をプレイした者なら誰もが知っているほど、強烈な印象を残す言葉。

 『バランスの執行者』

 『運命の見届け人』

 もう一度、レックナートと名乗った女性をまじまじと見つめた。確かに、どこからどう見ても本人である。
 それに、例え彼女が『レックナート』のコスプレをしている”ただの人間”だったとしても、先の何もない場所での光の出現を、自分の中でどう説明することが出来るか。
 更なる混乱に見舞われた。

 目の前にいる『自称』レックナートは、微動だにせず沈黙を保っている。

 しかし、と思った。もし目の前の女性が、本物のレックナートだと仮定する。仮定したら。
 それが本当なのだとすると、ここは、もしや、もしかしたら・・・・?

 「本当に、本物の……レックナート?」

 混乱しているとはいえ、にわかには信じ難い。目覚めた場所が、いくら現実味のない違和感しか残さない場所でも、「私がレックナートです」「あらそうなの? なんて素敵!」と簡単に受け入れられるほど、自分は子供でもお馬鹿さんでもない。

 と。

 混乱や疑わしい視線を受けてか、ようやくレックナートが動いた。とはいうものの、だらりと重力に逆らわずに降ろされていた手を、胸に当てただけであったが。

 「混乱しているのですね……それもそうでしょう。貴女が思っている通り、ここは貴女の居た場所……いえ、”世界”ではありません。」
 「じゃあ、やっぱり…ここは……。」
 「そう……ここは、貴女の”知る”世界。」

 先に心内に立った仮定を肯定されて、焦った。混乱が混乱を呼び、もう絶句するしかない。
 どうせなら、どこからかカメラや司会者が現れて「ドッキリでしたー!」なんて言ってもらって、「わーやっぱりドッキリでしたかー!」なんて終わってくれた方が、よっぽどマシだ。だが、いくら待てどもそれらは、現れる気配すら感じさせてくれない。

 そもそも、この広く長く続く草原ばかりの平野には、とてもじゃないが誰かが隠れられるような場所はない。あるとしても、この平野に続くずっとずっと向こう。うっすら雲のかかる山々辺りだろう。
 よもやと思い目の前の巨木を見上げるが、そこには太陽に反射するカメラどころか、人っこ一人見当たらなかった。

 入念なドッキリチェックで辺りを見回している間に、少しずつ冷静さを取り戻していった。だが、どうしても目の前の存在を信じることだけは出来ない。
 目の前に立つその女性を『本物』と認めてしまったら、この世界を認めてしまうようなものなのだ。

 この『幻想水滸伝』の世界を・・・。

 だが、そんな事ありえるはずがないと思う反面、違う自分がこう言うのだ。『自分の憧れ続けた世界が、目の前に広がっている。この世界が本物だということを受け入れてしまえば、たったそれだけで、混乱や疑心から抜け出せるのだ』と。
 しかし、ここで新たな疑問。もし、仮にこれが本物であるとして、果たして自分は帰れるのだろうか?

 自問自答の末、黙り込んでしまう。
 その心を見抜くように、レックナートが言った。

 「異界よりの訪問者よ……。貴女は、今、選択を迫られています。貴女の進む道は、二つに分かれています。ですが、二つ共には選べません。どちらか一つだけ……貴女の行く先を、貴女自身で選び取る覚悟を…。」
 「えっ…ちょっと待って。どういうこと…?」

 淡々と抑揚すらなく言った彼女に、思わず眉を寄せて尋ねると、答えはすぐに返ってきた。

 「一つは、この世界に来たことを忘れ、自分の居た場所へ戻ること。そしてもう一つは、自分の居た場所を捨てて、この世界に残ること。」
 「…………はぁっ!? ちょっと待ってよ! いきなりそんなこと言われても…!」

 唐突に来た、この世界。それも多分、強制的にだろう。
 いきなり目の前に現れた女性は、残るか戻るか、さぁどうするかと問うてくる。
 これが、全く知らない世界であったのなら、即決で「帰る!」と答えただろう。しかし、それが己の知る世界だと知って・・・・・・・・決断できなかった。

 憧れていた。憧れていたのだ。
 ずっと、ずっと・・・・なによりも、この世界に。
 できることなら、一度は来てみたいと思っていた、この世界。
 好きなキャラクター達に、一目でいいから会ってみたかった。憧れ続けたこの世界を、肌で感じてみたかった。
 行けるものなら・・・と。

 叶うことのないと思っていた、分かっていた、願い。
 それが今、自分の目の前にこうして存在している。
 原因など分かるはずもないし、今は、なにも分からなくてもいい。
 今、この場所に、この世界に、自分の足で立っていることだけが真実なのだから。

 けれど、同時に思うのは、自分の居た世界。もし自分がこの世界を選んだら、あちらで自分は、行方不明者扱いになるだろう。
 家族は、泣くだろうか? 友人達は?
 それとも、揃って自分のことなど忘れてしまうだろうか?

 思い出すのは、『つまらない』世界。
 変わらない日々、変わらない場所、変われない・・・・。

 「………。」

 押し寄せる葛藤に、ただただ悩んだ。
 今まで自分が居た場所、人、それら全てを捨ててまでこの世界に残ることが、自分にとって幸せとなるのだろうか?
 反面、変わることを望むのなら、今まで培ってきた”全て”を捨てるしかない。どちらを選ぶにせよ、それを選ぶことの出来ない自分に、ただ一歩踏み出すことができない自分に、苛立を感じ始めていた。

 「迷っているのですね。」
 「……はい。」

 顔を伏せ地を見つめたまま、視線を動かさずにそう答えた。
 どうか一歩。たった一歩で良い。己が変わる一歩を踏み出す勇気を、私に。
 その想いがレックナートに伝わることを、少し期待していたのかもしれない。だが彼女は、ふと顔を上げ天を仰いだ。その表情は、どこか焦っているようにも取れる。

 「…これは、貴女自身が決断しなければならないことです。元いた場所に未練があるのなら、私は引き止めることはしません。ですが……もう時間がありません。」
 「時間? 時間って…。」
 「………。」

 彼女は、答えない。
 それが何を意味するのか、もちろん分からなかった。
 言葉をそのまま受け止めるのなら、本当に『時間が無い』のだろう。

 どうしよう。どうすればいい? 私は、どっちを選べば・・・。
 焦りが更に迷いを呼び、迷いの沼にはまればはまる程、抜け出せずにもがく。
 誰か助けて。誰か教えて。私は、どっちを選べばいいの?

 ゆらゆら、と。何かが、自分自身に近づくのを感じた。
 途端、あの時とまったく同じ感覚に襲われる。目眩と耳鳴り、そしてあの急激な頭痛。
 目の前が淡く光り、咄嗟に目を閉じた。すぐに目を見開き、光の発された場所を確認する。
 それは他の誰でもない、自分自身から発された光。よく見れば、手や足だけでなく、体全体がうっすらと透過してきている。

 「な、なにこれ!?」
 「……時間のようです。」

 ポツリとレックナートが零した言葉で、それが”合図”なのだと分かった。
 自分が、元居た場所へ戻る合図なのだと・・・。
 頭痛は、時を増すごとに自分を追いつめた。

 早く、決めなくてはならないのに。ここに来て尚、決められない。
 憧れてたのに。愛していたのに。何よりも、夢見ていたはずなのに。
 ”全て”を捨てて、一から始めるという恐怖が、あと一歩を阻んでいた。

 私に、一歩踏み出す勇気を・・・。
 お願い、誰か言って。
 たった一言でいいから!

 『変われるから』と・・・!!



 ──── 大丈夫、変われるよ。そして……変えていける ────



 トンッ、と。誰かが、自分の肩に手を置いてくれた気がした。
 見えない誰かが、そっと、自分の背を押してくれた。

 そこでようやく、決断することができた。
 ”確かな一歩”を、踏み出すことができた。

 「私は………私は、ここに残りたい!!!」

 体を覆っていた光が、一瞬にして拡散した。
 ぼやける視界の中、レックナートが、盲目であるはずの眼を開けて息を飲む姿が見えた。






 「あぁ…。それが、”貴女”の意思であったのなら……きっと、”それ”が正しいのでしょう。」

 盲目の執行者は、空を見上げ、静かにそう呟いた。






 全身にかかった疲労から膝をつき、荒い呼吸を繰り返した。
 呼吸が整うのを待って、ゆっくりと立ち上がる。足下がふらついたが、大丈夫。
 顔を上げると、レックナートが、瞳を伏せたまま問うてきた。

 「…本当に、良かったのですか?」

 恐らく彼女は、確認の意味で問うたのだと思う。
 しかし、彼女の顔を真っ直ぐに見返すことができなかった。
 ただ一つ、気になることがあったからだ。

 「私は、自分の居た世界に、未練はありません。ただ…。」
 「ただ…?」
 「残された家族や友達を悲しませることだけが、気がかりです。だから…」
 「家族や友人の中に残る、貴女という存在を消して欲しい。そういうことですね?」
 「……はい。」
 「本当に、良いのですね?」
 「…で、できるんですか?」

 想定外なレックナートの言葉に、目を見開いた。別世界の人間の記憶を消せると、彼女は遠回しに言ったからだ。
 としてみれば、いくらなんでも、別の世界に生きる者の記憶を操作できるわけがないと分かっていたうえで、あえて憂いを述べただけだった。
 その”重み”を知らないが故の、言葉、だった。

 しかし、彼女は、それを一蹴するよう平然と言ってのけた。

 「それで、貴女の憂いが晴れるというのなら、その望みだけは叶えましょう。」
 「…………お願いします。」

 彼女がそう言うのなら、それに任せようと思った。
 これで良い。
 今まで、来てみたいと願った世界。望んだ世界。憧れ続けた世界。どういうことかは分からないが、そこに、こうして来ることが出来たのだ。

 元居た場所に未練がないといえば、嘘になる。
 自分には、家族がいた。友達がいた。
 しかし、彼等の記憶から、自分の存在を消してくれるのなら。彼等が泣くことがないのなら、何も心配することなどない。
 そうだよ、なにも・・・。

 真っ直ぐに、レックナートを見つめると、彼女はゆっくりと言った。

 「貴女が、この世界を選び取った、その決意………確かに見届けました。」

 その言葉が終わると同時に、眩い光が二人を包んだ。
 これが転移魔法というものなのかと考えながら、静かに目を閉じた。