[誘い─いざない─]



 彼女は、徐に刀を掲げた。そして、その刃に口付けを落とす。
 愛しい者の代わりのように。愛しい者へ捧げるように。
 言うなれば、それは『儀式』だ。

 刀の柄に括ってある翡翠の紐が、カチッと小さな音を立てる。

 その最中、の耳には、はっきりと聞こえた。
 口付けを落とした際の、彼女の、消え入りそうな言葉が。
 「アルド……テッド……。」と。

 その瞳からは、一筋の涙。
 あぁ・・・・彼女の傷は、まだ癒されてはいない。
 乾きかけたその場所に、新たな傷が深々とつけられたのだから。

 胸が締め付けられた。息が詰まる。

 彼女の愛する者たちは、彼女の中で、永遠に生き続けている。
 彼女の心は『それ』を現実とし、その心が揺らぐことは決してない。
 でも・・・・

 ゆっくりと開かれた、そのオブシディアンの瞳。
 そこには、彼等を想うことすら、己を憎むべき糧にしかならないのだと言っていた。
 闇の反映とは、この事を言うのだろうか。生きる意味を失い、朽ちることなき時を彷徨う。
 彼女の瞳は、実にそれ以上のものを魅せていた。

 それを見て・・・・・それだけで。
 は、彼女を死なせてやらなかった事を、後悔せずにはいられなかった。
 双剣を握りしめながら、固く目を閉じる。『それ』を言葉にしてはならない。彼女は聞きたくないだろう。耳にも入れたくないだろう。自分の懺悔など・・・・・・決して。

 耳を澄ました。彼女の心を、闇を、すべて捉えられるように。
 でも、何も聞こえない。どれだけ耳を傾けようとも・・・。
 聞こえるのは、張りつめた空気の中に存在する、心無い無音だけ。

 そんな中。
 何も存在しない、視界の中。
 彼女の声だけが、はっきりと鼓膜に響いた。

 「…………死にたくなきゃ、本気でかかって来いよ………………………行くぞ。」



 ・・・・・始まってしまった
 始まってしまったのだ
 彼女の全てを 闇に変える 『戦いの鐘』が
 彼女の全てが 闇に変わる 『物語の序章』が

 それでも、いつかは、全て・・・・・・・終わるのだろうか?






 まず動いたのは、ヒューゴだった。
 彼は、素早さを生かして直ぐさま彼女の懐へ入り込むと、愛用している短剣『ルフト』で、その胴を払おうとする。だが、彼女が、それに冷笑を浮かべて左手に力を込める。すると、その姿がこの世界から一瞬揺らぎ、攻撃は宙を薙いだ。

 「なっ…!?」
 「ヒューゴ、後ろだ!!!」

 驚きながらも横合いからかかったクリスの声。首だけ動かし真後ろに目を向けると、そこには、先ほど消えたはずの女の姿。
 彼女は、冷笑をたたえたまま、剣を振り上げている。

 「くっ…!」

 振り向きざまにルフトを突き出し、振り下ろされた刀をかろうじて受け止めた。ギッ、と金属同士のぶつかり合う音が、耳に障る。
 彼女の太刀筋は、そのまま振り下ろされていれば、正確に自分の脳天を叩き割っていただろう。

 『僅かな気の弛みが、戦いにおいて、命取りになる』

 脳裏には、いつぞや誰かが言っていた言葉。さっと冷や汗が吹き出たが、刀を受け止めるために両腕から力は抜かない。
 だが、僅かな力と身長の差によって、彼女の全体重が両腕に重くのしかかった。突き返すことも考えたが、反動をつけようとすれば膝をついてしまう。どうするかと瞬時に頭を使いながら視線を上げれば、冷たく笑う女の顔。

 彼女は、囁くように言った。

 「ふふ…。ヒューゴ、残念だったね…。」
 「…っ……。」
 「私の左手にはね……『おぼろの紋章』が宿ってるんだよ。」
 「なっ…」

 こうして敵対しているにも関わらず、彼女は、種明かししては尚も笑う。
 だが、そんな中、ヒューゴは、話をしていても力が抜けるどころか更に増していく彼女の腕力にゾッとした。そして思った。『人ではない』と。
 全身で感じたのだ。冷たく笑む顔が、ではない。女性にしては、異常過ぎるその”力”が。
 自分は、確かにまだ子供と呼ばれる年齢ではあるものの、目の前で笑う女ほど腕力が劣っているはずがない。むしろ幼い頃より『次期族長』としての鍛錬を受け、自分の年頃の者の中では、かなり秀でている方だ。それなのにこの女は、その1.5倍・・・・いや、それ以上の力で抑え込もうと力を込めてくる。

 人ではない・・・・

 直感ではあったが、ヒューゴは、確かにそう感じた。
 ・・・逃げなくてはならない。この状況から、なんとか抜け出さなくては。
 地を滑るように抜け出せれば良いものの、生憎彼女はそこまで計算しているのか、次に右手に持つ刀で自分を抑えつけながら、逃げ出せないよう左手で髪を掴んで来た。片腕であるはずなのに、それでもその”力”は、弱まる気配がない。
 髪を掴まれて我に返り、サッと血の気が引いた。掴まれたら最後、抜け出すことより命が危ない。それでも笑みを消すことはなく、彼女は、ゆっくりと、だが確実に追い込んでくる。

 しかし・・・・

 「覚悟しろッ!!」
 「……………済まん……。」



 クリスが右側面から、そしてゲドが背後から、ヒューゴを助けるべく挟み内にしてきた。
 ゲドは威嚇のつもりなのだろうが、クリスの目は本気だ。エーヴィヒを煌めかせ、迷うことなく自分の腹部側面に狙いを定め、突き刺そうとする。
 それに小さく舌打ちしてから、ヒューゴを手から解放し、誰もいない左脇に飛び退いた。
 だが、その先に逃げると踏んでいたのか、ササライが右手を掲げている姿。それを目にし、すぐに刀を天へ掲げた。詠唱終了と同時、彼の右手が輝いたが、刀から溢れる光に包まれる。結果、彼の土紋章攻撃は、その光に飲み込まれて効力を失った。

 「なっ…!」
 「…ふぅ。危ない危ない。前後左右に気をつけないといけないね…。」

 驚愕する彼に、口元を吊り上げてみせる。からかうように、小馬鹿にするように。
 だが、彼をさらに驚かせたのは、刀に刻み付けてある刻印のようだった。

 「それは…。そんな、まさか…!」
 「ふふ…。あの子にも聞かれたよ。あの子と、まったく同じ反応なんだね…。」

 愛刀で淡く光を発する『付加効果』の紋章。
 それを見て、彼は『信じられない』とばかりに目を見開いている。

 「な、なぜだ………『覇王の紋章』だと…!?」
 「…ふふっ。流石に、よく知ってるんだね。」



 使用直後だからなのか、まだ僅かに刀の根の部分で淡い光を出す、刻印。
 それは、かつて赤月帝国の皇帝が、所持していたはずの紋章。
 だが、国が滅びた際、行方不明になったはず。
 トランの者に発見されたとも聞いておらず、ハルモニアが、国を上げてですら居場所を突き止める事が出来なかった、真なるそれ。その行方知れずだった紋章が、目の前の女の武器に宿っている。

 だからササライは、驚かずにはいられなかったのだ。

 「どうして、きみが……その紋章を持っているんだ!?」
 「…これ? これは、あの子にも言ったけど…………拾ったんだよ。」
 「拾っただと…!? そんなはずはない! ハルモニアでさえ、どこにあるのか突き止められなかったのに…!」
 「……ふふ。ハルモニアの事情なんて、私には関係ないし。」

 突き放すように、彼女は笑う。
 ササライは、声を荒げた。

 「何故だッ!? 何故、きみは、真なる紋章を数多く所持できるんだ!!」

 返答することのない彼女は、ただクスクス笑うだけ。
 すると、その背後からヒューゴとクリスが、同時に武器を振り上げた。
 だが彼女は、笑みを嘲笑いに変えると、ボソッと何事か呟く。

 ヒュッ!

 「くそッ…!!」
 「なに…!?」

 彼女は二人を見ることなく、その攻撃を近距離転移でかわした。
 二人を見れば、攻撃を空振りし、悔しそうに歯噛みする姿。

 「近距離も……使えるのか…?」
 「当たり前でしょ?」

 転移が使えるんだから、と付け足しながら笑う女。嘲笑うように。すべて見透かしたように。
 だが、その笑んだ瞳も、突如頬を掠めた何かによって細められた。彼女が、ゆっくりと視線をに移す。そして、その手に握られていた物を見て盛大に眉を寄せた。

 「あんた………随分と卑怯な手を使うようになったんだね…。」
 「…ごめん。でも、こうでもしなきゃ……手が出せないんだ。」

 小さな油断。彼女の頬からは、ツ、と赤いものが流れている。

 「あんたが、懐にそんなナイフ隠してるなんて……初めて知ったよ。私たちって、その程度の仲だったっけ?」
 「なに言ってるんだ…。それに、隠しておくから『隠し武器』だろ?」
 「ふーん…。でもさ、女の顔に傷付けるなんて……相当酷いね。」
 「……本当にごめん。でも、きみが、すぐに戦いをやめてくれれば…流水の紋章で跡形なく治せるから…。」
 「…ふふふ、冗談だよ。いいよ、気にしてないから。」

 軽口を叩きながら、彼女は、流れる血を手袋をとった指先でなぞり、ペロリと舐めた。冷たい笑みを張りつけながら。その姿を見て、心の闇に魅入られてしまうような気がしたが、すぐにそのおぞましい考えを捨てた。
 そして、じっとその黒き瞳を見つめる。
 冷笑、とも言えないのかもしれない。その無すら表す微笑みは、それでも終わりを告げることを禁じ続けるかのようだ。

 手袋を外しただけでわかる、その細い指にこびりついた血を綺麗に舐めとると、彼女は、左手に持ち替えていた刀を取った。闇を纏っても、彼女は美しい。素直にそう思う。

 だけでなく、観戦している者たちも、その笑みに魅入られた。
 誰もが、心に隠し持つ『闇に』・・・・・。

 それでも彼女は、『』らしからぬ、妖艶で氷のような冷徹な笑みを消すことは無かった。
 そして、自分を瞳に写し、言った。

 「まずは…………あんたからだね。」

 それは、宣告。
 闇へ誘う、彼女からの。
 その”闇”には、『捕われてしまっても構わない』と。

 そう・・・・

 狂おしいほどに、そう思えたのだ。