[無の境地]



 安らかに眠る家族の顔を見つめながら、涙を流した。
 浮かんでは零れ、零れては浮かび。

 彼らの顔を見ながら、どれだけそうしていたのだろう。
 視線を上げてふと窓を見れば、外は、茜から紺に染まろうとしていた。交じり合う色の境目。それは、とても美しいものだが、今は胸を締め付ける存在に過ぎない。

 視線を戻せば、彼等の顔も体も、そして棺や部屋全体までもが、その色に染まっていた。自分も同じく、その色に染まっている。
 そしてこれからも、永遠の流れの中、幾千幾万の夜に・・・・”己が死”を願い続けるのだ。

 ・・・・一つ、瞬き。

 棺の中で眠る娘の耳に飾られていたイヤリングを、二つ外す。それを懐にしまい、血の気の失せたその頬に、キスを一つ。流れた涙は、その頬にポタリと落ち、夕暮れを反射してキラリと光った。
 時間をかけて愛しい娘の顔を見つめたあと、目を閉じて棺に蓋をした。木と木が擦れる音と共に棺に納められ、外界からの接触を断った。

 次に、その隣に置かれた棺の傍に。
 棺の中で眠る少年。初めての『家族』。たった一人の弟。
 そのしなやかな指にはめられている指輪を、左右共々外す。それを懐にしまい、同じくキスを一つ。
 ふと、その額に目が止まった。端正な顔に似合わぬ古い傷跡。なぞるとザラ、とした感触。さらにそこへキスを落とし、額を合わせた。
 枯れることのない涙が、ポタリポタリと傷跡を濡らす。

 棺に蓋をすると、小さく呪文を唱えた。その言霊に反応するよう、右手からは、小さな光が溢れ、徐々に強い光となって棺全体を覆う。
 これは、言わば『錠』。朽ちることを禁じた、呪縛の『鎖』。
 自分以外、決して開けることの出来ない、自分の為だけの。
 彼等の生きていた『証』を、誰にも渡したくないと願う、精一杯の我が儘。

 カタ、・・・・。

 静かな無音の世界に響いた、僅かな物音。それは、開かれたままの扉から。
 けれど振り返らなかった。そこに誰が立っているか、考えなくても分かることだったから。





 棺だけが置かれた部屋で、彼女は、静かに佇んでいた。
 それを目にしながら、ルカは、その背を見つめる。隣にいたユーバーがゆらりと動いたが、それを視線で制した。『この部屋に、決して入るな』と。
 彼は、呆れたような溜息をはくと、転移でこの場から消えた。

 ルカは、黙って彼女を見つめた。・・・・・痛い程の沈黙だった。
 この部屋に入ってはいけない。彼らと彼女の『別れ』を、誰も邪魔してはいけない。

 「私の……」

 静寂は、彼女によって破られた。
 その小さくて消え入りそうな声。それだけで、涙に濡れているのがわかる。

 「…可愛い娘。そして…っ…唯一の弟よ…。108の星の守護の下……っ…望み得た…眠りによって………その傷ついた魂が………どうか…………………安らぐように…。」

 そう言って、小さく鼻をすすりながら項垂れる。
 暫しの静寂。召された彼らに、静かな祈りを捧げているのだろう。

 ・・・・何故だろう。その背を見て、悲しくなった。
 自分は、そんな感情、とっくの昔に置いてきたと思っていたのに。
 項垂れピクリとも動かない彼女の背を見つめて・・・・どうにも哀しくなった。

 彼女、顔を上げ、ゆらりとした動作で振り返った。
 その瞳を見て、ルカは、咄嗟に逸らした。
 『生』を渇望する者は、その瞳に光を宿すものだ。『闇』を見た者は、僅かなりとも、そこに影を落とすものだ。そして、『死』に逝く者は、色を置いていくものだ。
 けれど、彼女は・・・・・・・・そのどれでもなかった。

 黒の双眸には、終わらない『生』の呪縛と憎悪。
 『闇』よりも深く、『死』よりも虚しきもの。全ての終焉を願うがごとく。
 それは、まるで無。元よりあったものが、無くなるのではない。元より存在すら許さぬよう、何も映さないのだ。
 その瞳は、闇という言葉が陳腐に感じられるもの。空虚とは死より虚しく、その意味すら失うもの。
 永久の無。空虚。すべての存在の『否定』。

 「……あとは…………自分で出来るから…。」

 ありがとう。
 彼女のその言葉が、何故だか自分を救ってくれた気がした。

 でも・・・・。
 本当に、救われたいのは・・・・・・・

 「お前……だろう……?」

 ・・・・そうだ。
 目の前にいる女のはずだ。無の境地で、それでも『助け』を乞うているのは。
 この女のはずなのに・・・・。

 けれど、それは、間違いだったのかもしれない。全てを無に返したような瞳の女は、それすら考えることもない。見飽きるぐらいに見てきた女の顔には、表情が無く、ただ無機質な『作り物』を見ているような錯覚すら覚える。
 生きて、いない・・・?
 無へ還るということは、全ての感情感覚を失うことなのだろうか?

 自分の言葉を、彼女は聞いていなかったのかもしれない。いや、聞こえていて尚、何も言わなかったのかもしれない。
 だからルカは、視線を床に伏せ、ポツリと言った。

 「…………いや、何でもない。」

 結局、彼女と目を合わせる事なく、逃げるようにその場から立ち去った。
 何も映すことのない彼女の瞳から、逃げだした。



 自分が『何も思わぬ』ことなど、決して有りはしないのに・・・・