[それから… ─ヒューゴ─]
広大で実り豊かな土地、グラスランド。
草原を流れゆく風は、少し渇き、また物悲しい音を立てながら南から北へと流れて行く。遥か南から、遥か北へと。時に急ぎ、時に緩やかに旅路を急ぐ。
風も、また、”永遠”という”時”に翻弄されながら。
が、自らを眠りに閉ざしてから、ちょうど一週間が経過した。
風の旅路は途中経過にある、ビュッデヒュッケ城。
そのとある一室では、英雄の意志を継ぎ、この戦いを終わらせた内の一人であるヒューゴが、ベッドに横たえられていた。その体は、呼吸する以外ピクリとも動かない。
彼の看病をしていたのは、その母ルシア。ろくに睡眠を取っていないのか、少し顔色が悪く、その眉間には小さな皺が刻まれていた。
あのシンダル遺跡で彼女と戦って以来、ヒューゴは、一度も目を覚まさなかった。あの時、彼女にやられたクリスやササライも同じであり、それぞれの部屋で未だに眠っている。
なぜ、その三人が、未だ眠り続けているのか。
あの日、シンダル遺跡に行かなかった者たちは、皆訝しげな顔をしていたが、遺跡に出向いた者たちは、皆が皆、口を開かなかった。彼ら自身にも『理解不能』だったからである。
なぜ、ヒューゴたちが眠り続けているのか、という疑問をそれぞれ頭に浮かべていたが、皆目見当もつかなかった。
シンダル遺跡に赴いた者の間で、一度、その事について話をしたこともある。
彼女の一撃が、それほど重いものとは思えない。成人しており、刀を主体とした戦い方をするとはいえ、相手は女性なのだ。殴る、という行為だけで歴戦の戦士達を眠らせ続けるなど、考えられない話だ。
もしくは、風の紋章を使ったのでは? という意見を述べた者もいたが、それだけで一週間も眠り続けるなど聞いた事がない。
だが、彼らは、ここで大きな計算違いをしていた。
は、ヒューゴにもクリスにもササライにも『魔力を込めた一撃』を叩き込んだ。そして彼女が使ったのは、まぎれもない『風魔法』だったのだ。
では、彼等は、どこで計算違いをしたのか?
風魔法を使って相手を眠らせることは、魔力を持つ者───つまりこの世界の存在───ならば、誰でも出来る。潜在的に持つ魔力の強弱によって、その紋章に適正が有るか無いか調べることも可能だ。
だが強弱とは言っても、それはあくまで『普通の人間』である場合のみ。そこに『真なる紋章を宿している者』という前提はなく、あくまで『普通なら』なのだ。
彼女を知らぬ者は、あの場で彼女が『真なる紋章を持つ者』だという事を知った。そして、所持している紋章の特性───共鳴や回収───も、朧げながら理解した。
だが彼等は、知らなかった。彼女の紋章の”特性”が、それだけではないことを。
創世の紋章は、27の真なる紋章の中でも、殊更変わった能力を持っていた。”共鳴”や”回収”、果ては、共鳴した紋章ならばいつでも使用可能なこと。
そして、もう一つ。『共鳴すればする程、共鳴相手の持つ魔力に比例して、魔力が上がっていく』こと。
彼女は、これまで生きてきた中で、様々な紋章と共鳴してきた。その中には、当然魔力が弱い者もいたし、逆に強い者もいた。だが、共鳴相手の魔力が最初は微々たるものであっても、経験を積み重ね、魔力が上がっていく毎に、紋章の繋がりを介して彼女のそれも上がっていく。共鳴相手たちの魔力が上がれば上がるほど、何もしなくても、勝手に彼女の魔力が上がるのだ。
言ってしまえば、それらの魔力をトータルすれば、世界を滅ぼすことすら可能になる。
それに気付いているのは、を筆頭とした『彼女という存在を、昔から知る者』達。
シエラや星辰剣、ゲドやにも、その中にいた。
だが生憎にも、たちが、その話し合いに参加することはなかった。彼女の味方をしているのではない。彼女が、ここまで大掛かりな事をやってのけたのは、何かしらの思惑があるはずだ、と考えたからだ。
彼女は、何か思う所があって彼らに深い眠りをかけたのだ。
そして、その眠りには、恐らく『期限』がついているはず。
だが、その思惑に気付かぬルシアたちは、ただただ頭を悩ませた。
ルシアは、ゆっくりと手を伸ばし、我が子の額に手を当てた。
熱は無い。顔色も良いし、一見すれば、本当にただ眠っているだけのよう。
「ヒューゴ……。」
息子の右手を両手で取り、優しく握りしめる。いつになったらこの子は、目を覚ましてくれるのか。その想いが、この一週間という短い期間ではあったが、日に日に強まっていった。
もしかしたら、永遠に目覚めないのか? は、この子に何をした?
三日ほど前に現れた『シエラ』という女性が、息子を一瞥して「…心配するでない。いずれ目を覚ますじゃろう。」と言い去っていったが、はたして・・・・・。
「早く……目を覚まして…。」
手を握る力を少しだけ強めて、精霊達に祈りを捧げた。自分でも分かるほど、体が震えている。
愛する人から授かった、大切な我が子。昔からやんちゃな所はあったが、今度ばかりは、どれだけ心配したのか、目が覚めたら厳しく言い聞かせなくてはならない。自分がいかに想い、どれだけ愛しているのかという事を、しっかり教えてやらねばならない。
自分の愛した人に、日々重なって行く息子の笑顔を思い浮かべて、涙が零れた。それは、子の右手に零れ落ちる。
と・・・・・
「ん……」
「……ヒューゴ?」
小さく発された、目覚めの声。思わず涙を拭い、顔を上げた。
目の前には、早く目を覚ましてと祈っていた息子が、うっすら目を開けている。
光が目に痛いのか、寝ぼけ眼を左手でこすりながら、彼は目を閉じた。
「ヒューゴ!!」
「ん…。あれ……母さん?」
「目が……覚めたんだな…。」
声が聞こえたのか、隣の部屋にいたビッチャムが、ノックをして入ってくる。
「ビッチャム…、ヒューゴが目を覚ました。」
「おぉ、ようやくですな!」
「え、なに………二人とも、どうし…」
ヒューゴの言葉は、母の涙と優しい抱擁によって遮られた。
「じゃあ、俺は、結局……。」
「……あぁ。お前たちは、負けた。」
ビッチャムに席を外してもらい、シンダル遺跡の戦いの結果を話してから、一週間眠り続けていた事を告げると、彼は、眉を寄せて悔しそうに歯噛みした。
それを視界にいれながらも、敗北したのだと、はっきり伝える。
「負けたのか……。っ、くそ…………くそッ!!!」
「ヒューゴ……。」
ベッドに拳を叩き付け、敗北に対して怒りのやり場がない息子の肩に、そっと手を置き首を振った。
「命が助かっただけでも、有り難いと思いなさい…。」
「なに言ってるんだよ、母さん! あのって奴は………破壊者を…!」
「……あいつ自身が『家族だった』と言っていたのを、忘れたのか?」
宥めるようにそう言うと、彼は、少しだけ項垂れた。
友達がいた。
兄弟のように仲が良く、いつも一緒だった少年が。
その日々は、『破壊者』の巻き起こした戦争によって、幻のように儚く消えた。
だからヒューゴは、破壊者を許せなかった。
「でも、俺は………あいつらを許せない…。」
「……確かに。あいつらのした事は、許されるものじゃない。このグラスランドに戦火を放ち、多くの命を犠牲にした。」
「それじゃあ、どうして…!?」
「……よく考えなさい。は、その戦争を起こした張本人の『家族』だった。でもあいつは、それを止めようとしていた。だからこそ運び手に入っていたんだと、母さんは思う。」
「どういう…」
「いいから聞きなさい。破壊者を殺したのは、我々運び手だ。あいつは、家族を私たちに『殺された』。でも、それを憎もうとはしていなかった。破壊者を止めることが出来なかったと、自分自身を責めていた。それにね、ヒューゴ…………あいつがその気になれば、私たちを『仇討ち』と称して、あの時、簡単に皆殺しに出来るだけの”力”はあったんだぞ?」
「……あの人に? 確かに、あの人は強かったけど、俺たち全員がやられるワケ…」
パンッ!!
皮肉めいた、まるで反抗期の子供のような口調で言ったヒューゴの頬に、ルシアの平手が入った。驚いたのか、彼は目を見開いている。
ルシアは、先の表情から一転して、鋭い眼差しをもって睨みつけた。
「お前は、相手の力量を見分けることも出来ないのか?」
「…………。」
「お前の気持ちは、分からないわけじゃない。でもね、ヒューゴ…。」
そう言って、息子を抱きしめる。
赤子をあやすように、ゆっくりと、その背をさすりながら。
「置いていかれる悲しみを、お前は……知っているだろう?」
「…………。」
「父さんを失い、その上、お前まで失ったら………母さんはどうすれば良いの? お前は、それを考えた事があるの?」
「俺は……。」
諭すような、母の口調。
早くに父を亡くしたヒューゴにとって、それは、根強い重みとなっていた。威厳がある中にも時折見せる、女性としての儚さ。長きに渡って族長を努めてきた母でも、亡くすことは恐い。愛する夫を失い、その人から授かった子すら失ってしまったら・・・・。
それを母の口から聞き、初めて感じた。無駄に命を散らすものではない、と。生きててこそ、大切な人が傍にいる喜びを得られるのだ、と。
「お前が、母さんの生き甲斐だという事を………どうか、忘れないで。」
「母さん………………ごめんなさい。」
一つ成長を遂げた息子を胸に抱きながら、ルシアは、窓から見える空を見上げた。輝く光がこの世界の全てを照らし、生きる意味や喜びを教えてくれる。
ふと、どこか納得がいった。
あの時、何故、彼女が一気に片付けることをせず、個々に撃破していったのかを。
彼女は、こうなることを予想して、あえて『眠り』をかけたのではないか?
ヒューゴにも、いかに自分から愛されているか身をもって教えてやるために?
家族を失い、己を責め、それでも人を想える彼女を想った。
15年前に出会った時とは変わらぬ、あの微笑み。
闇に佇み続ける黒き双眸は、それでも慈悲や愛を忘れてはいなかった。
儚い笑みのみが、色濃く印象に残るあの女性に『出会えて良かった』と、今さらながらそう思う。
強い陽の光に目を細めながら、今はどこにいるかも分からない彼女に、心で礼を言った。
『……………ありがとう。』