[それから… ─クリス─]
ヒューゴが目を覚ました頃。
ビュッデヒュッケ城のとある一室で、クリスもまた目を覚ました。
夢の中を漂うような浮遊感から一転。急激に覚醒を促したのは、いったい誰の声だったか。
眠りから抜け出してそっと目を開けると、視界に入ったのは白のレースカーテン。窓が僅かに開けられているのか、その縁取りの部分がヒラリと揺れている。
レースという時点で、それは、自分の趣味とはほど遠い。純白で滑らかな造りであるそれは、柔らかいイメージとは裏腹に、陽の光を反射して、目覚めて間もない視神経を刺激する。
思わず目を瞑って軽く身じろぎした。深い眠りから急激な覚醒を経たせいで、僅かな目眩と軽い頭痛。
『まだ………起きれないか…。』
頭の中で呟き、普段は、何とも思わないはずの痛みと戦う。
ふわ、と何かに頬を撫でられて目を開けた。どうやら、カーテンが風に揺られて頬を掠めたようだ。漠然とそんな事を考えながら、ふとカーテンに焦点を合わせ、まじまじ見つめた。
ここで、ようやく疑問。
自分の部屋に、こんな作りの物があっただろうか? 確かに、幼い頃より『女の子らしいこと』は全部苦手だった。声楽隊もそうだったが、ピアノやダンスといった習い事も、全て『性に合わない』と辞めてしまった。
けれど唯一、そんな自分に合うと心から思えたのが『剣』だった。男勝りという程ではなかったが、それでも、家事や裁縫などといった女らしい事をするより剣を手にしている方が合っていた。
本格的に習い始め、辛い稽古にもめげず、師に腕を認められて騎士団に入った。
それから・・・・
結果として、また『ここはどこなのだ?』という疑問に舞い戻ったわけだが、残念な事に体が言う事を聞いてくれない。目覚めた時よりは、幾らか動くようになった───と言っても手首が動かせる程度だ───が、起き上がれるようになるには、まだ時間がかかるだろう。
いやいや、それよりも、どうして自分はこんな所に?
窓から見える景色で、ここが、ビュッデヒュッケ城である事は分かる。
そう思いながら記憶を辿った。暫くそれに没頭していたが、やがてはっきりと目が覚める前の記憶へ辿り着き、眉を寄せた。
『……そうか…。私は、負けたのか…。』
というあの女性と戦った時、まず最初にやられたのは、ヒューゴだった。そして彼女は、自分を見つめて言ったのだ。「次は、クリスだから」と。
咄嗟に構えを取り彼女からの攻撃に備えたが、そこから先の記憶が無い。背後に殺気を感じたまでは覚えているが、その直後やられたのだろう。それも、一瞬で。
それより、彼女が自分の背後に回ったことさえ、殺気を感じ取るまで分からなかった。
「……………。」
今さらになって思う。あの女性は、人とは思えぬような存在感を放っていた、と。
あの常人離れした素早さもそうだが、家族を失ったと言って泣いていた割には、まるでこちらを煽り、戦いを楽しむような口調。
何より人と思えないと感じたのは、全てを凍てつかせてしまうような空気。鋭さを秘め、己の”力”に絶対的な自信を持つ、あの闇色の瞳。見下すのではない。だが、まるであの女性に己の全てを捕われてしまうような錯覚すら覚えたのだ。
それを思い出し、小さな身震い。ゾク、という瞬間的なものではなく、長い時をかけ追いつめてくるような。
『だが、何故………私は生きている…?』
新たに湧いた疑問。
あの時ヒューゴは、鳩尾を打たれただけで死んではいなかった。それは、きっと彼がまだ幼い子供だからだと思っていた。
それなら、何故、自分はこうして生きている?
よもや自分が意識を失った直後、残った者たちが彼女を撃退したのだろうか?
でも・・・・・
ぐるぐると、その疑問だけが脳裏を駆け巡った。目に見えぬ恐怖に、少しだけ動くようになった手を使い、肩までかけられていたシーツを目元まで引き上げる。
と・・・・・・
背後でカタ、と何かを置くような音がした。誰かいるのかと、先の疑問を頭に追いやり、意識を背後に回す。気配からして、おそらく二人か。
ボルス達か?という疑問は浮かばなかった。なぜなら、その後に聞こえてきた小さな咳払いが女性のものだったからだ。
いったい誰が、と思う間もなく、背後にいる人物の一人がポツリと呟いた。
「ほら…。せっかく入れたんだから、さっさと飲みなよ…。」
その声で、やはり騎士団の者でないと確信した。だが、良く通るその女性の声に聞き覚えがあった。少し低くて、でも落ち着いた声。
「……あぁ……済まん、クイーン…。」
もう一人が、そう言った。
先の女性は、12小隊のクイーンで、彼女をそう呼んだ男はゲドだ。
飲め、と言ったのは、紅茶かなにかを入れたのだろう。先の小さな物音は、カップをテーブルに置いた音か。それなら、ここは、クイーンの部屋か。
しかし、紡がれはじめた彼らの問答に、咄嗟にその考えをしまい込んだ。
「でも、なんでは『殺す』なんて言ったんだい…? 結局、誰の命も奪わなかったじゃないか…。」
「……あいつは………昔から………無益な殺生は、決してしなかった。」
自分が目を覚ましている事に気付いてないのか、クイーンが話し出す。
ゲドが、静かに答えた。
「昔から、ねぇ…。……それは、50年前からってので良いのかい?」
「…………あぁ。」
そう言えば、あの時シーザーが、『50年前の戦にも姿を現した』の事を聞いていた。そして当の本人も、平然と「そうだ」と答えていた。
僅かな静寂。思う所があったのか、それとも聞く事を躊躇していたのかは定かでないが、クイーンが、声を落として問うた。
「あいつは、いったい……何年生きてるのさ?」
「…………。」
「…別に、答えられないんなら構わないけど…」
「あの当時は………140を過ぎたと言っていた…。」
「……なんだって?」
それを聞いて驚いたのは、クイーンだけではなかった。黙って聞き耳を立てていたクリスも、驚かざるをえなかったのだ。彼女のように声こそ上げることはなかったものの、僅かに肩が引き攣ってしまう。
真なる紋章を所持する者は『不老』になるという。だが、あの女性がそれだけの時を生きているとは、思いもしなかった。
トサッ、とクイーンが、ソファにかける音。ゲドが更に続ける。
「あいつは…………俺よりも、ずっと長く生きている……。」
「ってことは…」
「……あと十年もすれば、二百に手が届くだろうな……。」
思いも・・・・しなかった。それだけ生きていようとは。
だが、言われてみれば、確かに・・・・・言動や物腰、そして影のかかっていた表情、はては、時折見せてくれた笑みも自分と歳が近いと思えぬほど、憂いに満ちてはいなかったか?
自分も『父』という大きな存在を失った。だが彼女の瞳は、それとは比較にならないほど、もっと深い闇を見てはいなかったか?
・・・・・そう。そうだった。問えば答えてくれたが、彼女自ら誰かを頼る姿は、見た事がない。あのルカという男以外とは、すべて世間話程度でおさめていた気がする。
彼女の闇の中に見えた脆さに、自分は、気付いていたのかもしれない。誰かと軽口たたいていても、ふと遠くを見る瞳の中にある深さが、長い時を過ごしてきた者ゆえの心理を醸していたことを・・・・。
「恐らく……あの挑発めいた言葉も………あいつらを煽るためのものだったんだろう…。」
「でも…どうしてあんな事を?」
紅茶に手を伸ばしたのか、小さく食器が触れ合う音。
「人は……憎しみを抱えれば抱えるほど、そのはけ口が狭まっていく……。怒りは破壊を生み、憎悪は………その者の心を蝕んでいく……。」
ゆっくりとした口調で、言葉を紡ぐ彼。
目を閉じ小さく身じろぎしたが、それに気付くことなく、会話は続いていく。
しかし。
聞きようによっては、彼の言葉は、という女性を介して『破壊者』を支持するようにも聞こえてしまう。けれど、それに怒りを覚える事はなかった。
それよりも、彼の言葉が胸を貫いた。怒りと憎悪。それは、彼女に対する自分の感情にぴったり当てはまる『言葉』だと思えたからだ。
「あいつは………破壊者の『家族』だった。だが、あいつは……家族の起こした戦を、目の当たりにしてきた。やつらの起こした罪を……誰よりも深く受け止めていた。」
「………。」
「あいつは……それでも破壊者を『家族』として愛していたんだろう。葛藤……していたと思う。家族を想う気持ちと、俺たちの狭間で…。そして、すべての者の癒えない傷を誰より深く受け止めていたからこそ……あいつは、すべての憎しみを自ら背負う”覚悟”を………決めたんだ。」
落ち着いた口調の中に悲しみを灯しながら、ゲドがそう言った。
それに対して、クイーンが、ゆっくり息を吐く。
「でも、どうしてなんだい?」
「……昔から………そうだった。あいつは、昔から………敵対する者にも深い慈悲をかけていた。出来うる限り殺すことはせず、戦意を削ぐような戦い方をしていた。それは、同時に…あいつが、誰より傷つきやすかったからだ。…運び手から見れば、破壊者は、あくまで『破壊者』でしかないだろう。この大陸ごと生命を脅かそうとし、真なる紋章を破壊しようと画策した。しかし、破壊者からすれば……筋は通りはしないが、確かに『未来の解放』という目的があった。」
「…………。」
「それは……怒りと悲しみ、憎しみしか生まない。そして結果として生まれたのは、やはり……」
「涙を流す者がいて……。」
クイーンが呟く。ゲドの言葉と、あの戦いを思い返すように。
「…あいつはあいつで、きっと、ヒューゴたちの事も考えていたんだろう。同時に……葛藤していたんだ。破壊者の亡骸を手厚く葬ってやりたい。だが俺たちが納得しないだろう、とな…。」
「でも、どうして、ヒューゴ達と戦うなんてこと…」
「……話し合いでは通じないと、あいつは分かっていたんだろう。それなら”力”を見せるしかない。………だが、あいつの意図は、恐らくそれだけではない…。」
「なんだって?」
「教えたかったんだろう…。そして、分かって欲しかったんだろう。それぞれに……。」
「………。」
「ヒューゴは、猛進だ。その純粋さ故に、引き際を見誤ることがある。あいつは、それを教えてやりたかったんだろう。時には引く事も必要だ、と……。それにあいつは、元より誰も殺すつもりは無かった。ルシアとも、顔見知りだったようだからな……。」
小さく溜息を落とすと、紅茶を口にしたのかカップを置く音。
クリスは、黙ってその音を耳にしながら、じっと彼らの会話を聞いていた。
すると、クイーンが小さく問うた。
「それなら……クリスは、どうなんだい?」
その言葉に、またも肩を小さく引き攣らせた。途端、沸き上がったモヤモヤしたものに胸をかき乱される。
怒り、憎しみ、悲しみ。悔しさ、切なさ、衝動。胸の奥底で、堂々巡りを繰り返す。
自分がここまで醜い人間だったのだと、別の自分が軽蔑していた。
「クリスは………ワイアットの事を、完全に吹っ切れてはいまい。あいつが命を落としたのは、破壊者のせいなのだからな…。事実、そうだろう。だがは、遠回しにではあるが、そいつらを許して墓まで作ると言った。それを…」
「許せるわけがない、か…。」
「……シーザーの言っていた通り、あいつは、50年前に英雄と詠われた男と仲が良かった。あいつが困っている時や、考え込んでいる時に、よく助言しているのを見かけた。同時にあいつは、ワイアットとも良く接していた。だから…」
「その娘であるクリスを殺す筈がない、ってことか。」
「…あぁ。それに……昔、あいつは『言葉の受け売りではあるが』と言っていたが…。『怒りや憎しみだけでは、人は強くなれない。誰かを守ろうとする気持ちが、自分を強くしてくれるんだ』と言っていた。そしてあいつは、それを………クリスに教えてやりたかったんだと思う。あいつは昔からそういう奴だったんだ。どんなに自分が辛くても、相手を思いやることが出来る奴だった。家族を、俺たち運び手に殺されても、この地の者に恨みを買ってでも……………あいつは、ヒューゴ達に伝えたいことがあったんだ……。」
その言葉を最後に、部屋には、完全な静寂が舞い降りた。
というあの女性は、200年近い時間を生きてきた。そして、その長い時の中で多くの仲間を失ってきたのだろう。愛する者に置き去りにされながらも『紋章』に生かされ、それでも出会いと別れを繰り返す。
『家族』という、一番身近な存在を失って尚、彼女は、それでも生き続けるのだ。
けれど彼女は、それを失っても、他の者へ伝える心を忘れていなかった。
大切な者を守ろうという気持ちが、”力”を与えてくれるのだ、と。
それは彼女から、同じ真なる紋章を受け継いだ自分達へ宛てた、『メッセージ』。
ふと、あの時、父のことを問おうとした自分へ向けて彼女が言った言葉を思い出す。
『……その聞きたいことってのが、ワイアットに関する事なら………いつか、じっくり話してあげるよ。』
それは『約束』だったのかもしれない。彼女から自分へ。父のことを知らずに育った、自分への。
それは、シンダル遺跡で彼を救うことが出来なかったからクリスへの、せめてもの償い。クリス自身が、それを知ることはなかったが、今なら理解出来た。あの女性は、ゲドが言った通り、仕方なく運び手と戦ったのだと。
確かに彼女の瞳の色は、闇に捕われ冷たさを見せてていても、本当は優しかったのだから。
優しさ故に、憎むことが出来なかったのだ。互いの気持ちを知ってしまったが故に、戦いを拒めなかったのだ。多くの葛藤の末に、己を憎むことしか出来なかったのだ。
それは、きっと、これから先も・・・・・・・
涙が流れた。人前で流すことは決して許されぬ、騎士団長という重み。
だが、それでもクリスは、今この時だけはと涙を流した。
ポタリポタリと落ちるそれに、もう、怒りや憎しみの色は無かった。ただ、あの女性の優しさや悲しみを思う涙。そして、自分が如何に未熟であったかという涙だった。
目を閉じ目蓋の裏に浮かんだのは、戦の最中に逝った父。そして、ずっと自分と父を愛していると、笑いながら逝った母。
約束の日は、これから先の”いつか”。でもそれでも構わないと思った。例え再会がなかったとしても。
いつか、彼女と再開する日が来た時は、きっと感謝を込めて、こう言えるだろう。
『…………ありがとう…。』
背を向け、小さく肩を震わせ涙を流すクリスから視線を外し、ゲドとクイーンは、気付かれぬようそっと部屋を後にした。