[使者]



 いくらこの地が、三重の紋章によって加護されているとはいっても、どうにもならない事もある。昼は暖かくても夜は気温が下がっていくように、僅かな寒気を感じて、はふと目を覚ました。
 いつの間にやら眠っていたらしい。この季節、昼と夜の寒暖差はそう大きくないはずなのだが、眠っている間に火照ったのか、夜の風に撫でられ肩を小さく震わせた。

 隣で読書をしていたはずのルカは、どこへ行ったのか、荷物をその場に置いたまま姿を消していた。それまで読んでいた本が無造作に置いてあったので、どんな書物を読んでいたのだろうという興味から、それを手に取ってみる。タイトルの部分は抜けてしまっているため、そこから内容は把握出来ない。パラパラ捲ってみて、それがどういったものなのか理解した。
 一般人ならば、殆ど学ぶ事の無いだろう、小難しい政治やら経済やら。そして、ついでとばかりに書かれているのは、軍務関係。
 皇王を辞めたといっても、その育ち故か、読書となるとこういった物ばかりらしい。他、何かの物語を読むこともあるようだが、フィクション系は嫌いなようだ。
 やはり育ちは隠せまい。そう考えながら一人笑っていると、横から声がかかった。

 「おい、何をしている?」
 「…難しい顔をして何を読んでいたのか、気になったんだ。ごめん。」

 笑みを見せて答えると、彼は、ふんと鼻を鳴らしながら隣に腰掛けた。

 「貴様が見ても、分からんだろう?」
 「……それ、俺にかなり失礼だぞ?」

 わざとらしくムッとした顔を作って腕を組んでみるも、彼は騙されないようだ。まぁ、生い立ちや育ちが特殊であるから仕方ないか。
 そう思っていると、突如、すぐ近くに転移の光。だが、現れたユーバーを目にして、思わず首を傾げた。

 「ユーバー? 俺はてっきり、きみが出迎えるのかと思ったけど…。」
 「馬鹿言うな。こいつに出迎えられては、相手の命が、いくつあっても足りん。」
 「まぁ、それもそうか…。」
 「…それに、下手にこいつに動き回られては、たまったものではないからな。」
 「確かに。どうりで、起きたらきみが居ないと思ったよ。まさか迎えに行ってるなんてな。」

 ルカと二人、言いたい放題言うも、なぜかユーバーは口を挟んで来ない。
 その瞳が、森の奥を見つめたままであるのを知り、は閉口した。

 「ククッ……来たようだな…。」
 「…そうみたいだな。」
 「それで、どうする…? 俺が、全員始末してやろうか…?」
 「まったく…。ユーバー。きみは、との契約があるんだろ? 彼女の性格から考えて、もし、きみが約束を破れば…………『くたばれ、二度と近寄るな』って言われるぞ。」
 「…………。」

 とりあえずユーバーを黙らせると、そのやり取りが面白かったのか、隣のルカが吹き出す。すると、それを見たユーバーが、面白くなかったのか背を向けた。

 「まぁ…。いずれにしても、生半可な奴じゃない。これだけの結界の中を歩いて来れるんだからな。」
 「……相手が誰なのか、貴様なら、見当がついているのだろう?」
 「あぁ、もちろん。」
 「……まずは、あいつの好きな『話し合い』とやらで進める。」
 「分かった。それは、きみに任せるよ。」

 いい終えたと同時、森の中から、三人分の足音が聞こえはじめた。






 「まだ着かないんですかねぇ…?」

 先ほどから、何度その言葉を聞いただろう。かれこれもう十回は聞いているが、あえて今まで答えたように返答してみる。

 「……もうすぐじゃないかな。」
 「本当ですかぁ? さっきから、十回以上は、聞いてる気がするんですよねぇ…。」
 「ディオス殿、泣き言を申されるな。ハルモニアに仕える者が、なんと情けない…。」



 前を向いたまま、先ほどから同じ答えばかりを返してくる、上司。
 そして、見た目と中身のギャップからか、同僚達より一目置かれている女性。
 その二人の言葉に、ディオスは、そっと溜息をついた。

 その美しさから、この世のものではないと感じた草原を抜け、ようやく遠目に見えた森の中に入った。すでに陽は傾きを終え、世界は、夜の闇に包まれている。
 一見、森の中は鬱蒼としているように思えるが、実は、そういった禍々しさを感じるのと同時に、とても暖かい気配を醸している。
 風がやんでしまったのか、それぞれが夫々を覆う役割を果たす樹々は、僅かすら揺らめく事もなく、月の光を一筋も運んではくれない。
 ・・・・・恐いくらいに静かだった。

 「ササライ様……。」
 「…大丈夫だよ、ディオス。きみ達も感じているだろうけど、ここへ来た時からの浮遊感や幻聴は、『紋章の結界』によるものだから。今、きみが胸に抱いている『恐怖』や『不安』は、この地が、例の紋章によって加護されている証なんだ。」
 「それは、分かっているんですけど……どうにも、この感覚に慣れなくて…。」
 「…僕は、真なる紋章を所持しているからだろうけれど、きみ達にとっては、もっと違和感を感じているんだろうね。」
 「そんなものですかねぇ…?」
 「うん。そんなものだよ。」

 僅かに振り返りながら答えてくれる上司は、いつものように穏やかだ。性格がよく出ているその微笑みを見て、ディオスの心は、安堵に包まれた。






 「…あぁ、やっぱり、きみ達か。」
 「え……どうして…?」

 ようやく自分達が待つ場所へ姿を現した『訪問者』を見て、は、思わず吹き出した。まったくの予想通りの者たちだったのだから。
 隣に立つルカも同じことを思っていたのか、口元にうすらと笑みを浮かべている。ユーバーは、先ほど「すぐ戻る…。」と姿を消していた。

 自分達がこの場にいる、という状況に驚いているのは、ハルモニアの神官将であるササライ。訝しげに眉を寄せている。
 それに笑みを返していると、彼の背後に控えていた長身の女性が、口を開いた。

 「なぜ、貴様らが、ここにいる?」
 「そういうきみは、確か……ブリジットだったかな?」
 「質問に答えろ。」

 務めて明るく、飄々とした口調で返したものの、どうやら苛立たせてしまったようだ。その眼光の鋭さといったら、睨みつけるという範囲を超えている。むしろ、下手にからかおうものなら、すぐにでも抜刀するといった形相だ。
 だが、笑みを浮かべたまま彼女を宥めようと口を開く前に、ルカが言った。

 「…ふん、程度が知れるな。ハルモニアは、上司の許可なしに部下の発言が許される、統率も取れん国なのか?」
 「何だとッ!?」
 「やめろ、ブリジット!!」

 咄嗟にレイピアを抜こうと剣の柄に手をかけた彼女を、上司であるササライが止めた。
 も、すぐさまルカを睨んで黙らせる。

 「済まないな、ブリジット。」
 「いや、いいんだ。彼女にこそ、非があるから。」
 「あぁ、そう言ってくれると助かる。」

 彼女の上司であるササライと、同じくこの面々の中では、一番人当たりが良いだろう自分が言葉を交わす。
 では、話を戻そう、とササライが言った。

 「それで……どうして、きみ達がここに?」
 「ふん。貴様が、知る必要はない。」
 「……ルカ。悪いけど、少し黙っててくれないか?」

 さきほど『話し合いで進める』と言っていたはずなのに、どうしてこうケンカ腰なのだろう。よっぽどハルモニアが嫌いなのか、それとも別に理由があるのか。彼を黙らせたものの、思わず溜息。

 「まぁ、俺としては、どうしてきみ達が、こんな辺境の地に来たのか理解しかねる。」
 「それは……」

 その言葉に、ササライが俯いた。目を僅かに泳がせ、どこか戸惑うような仕草を見せる彼は、とうに三十路を超えている事を忘れてしまいそうなほど幼く見える。

 だが・・・・・・

 その様子を見て、とルカ、二人の答えは一致した。彼らがこの地へ赴いた理由を。
 目的は『彼女』だろう。彼女に会う為に、この場所へやって来たのだ。
 もちろん、彼女と会って『何を』話すか、大方の予想もついている。だが如何せん、彼らの属する国のトップの考えが読めない。いや、読もうと思えば読める。簡単な話だ。彼女の紋章が目的だろう。彼女の紋章さえあれば、『秘術』などと言うまどろっこしい技を使用しなくとも、真なるそれらを手元に留めておくことが出来るのだ。

 でも・・・・

 「……紋章だけか? それとも、彼女自身を含めてか?」

 そう言ってやると、ササライが、僅かに肩を引き攣らせた。
 少し鎌をかけただけで、この反応。
 よもや『彼女の命を絶ち、紋章を奪え』とでも言われたのだろうか?

 「それなら……」

 次の質問をしようと口を開きかけたことで、それを制止して前に出たのは、ルカだった。