[時は来たりて]



 ササライがこの地を去ってから、一ヶ月が過ぎた。

 ルカにユーバー、そしては、相も変わらず洞窟の前で彼女の眠りを守り続けている。時に剣戟の音を響かせ、時に兵法や軍務や政治の本を読みふけ。
 この地へ来てからは、それが永遠に続くように思えた。



 その日も、いつもと変わらない一日が過ぎようとしていた。
 今日も今日とて、はユーバーの相手を務め、ルカは木陰で読書。
 あれからユーバーもだいぶ頭を使うことを覚えたのか、フェイクにはかからなくなっていた。も負けじと、新たな手の内を見せるようになった。
 ルカは、それに時折茶々入れながら、本を読み深けていた。

 だが、その長閑ともいえるいつもの光景が、一瞬にして凍り付いた。

 「ん…?」
 「……おい、。」
 「あぁ…、分かってる。」

 ユーバーが剣の手を止めたかと思えば、眉を寄せながら、この地の『入り口』に視線を向けた。続いてルカが顔を上げ、は双剣をしまう。
 思うことは、三者三様。
 ユーバーは、結界内に侵入した者の『気配』に思わず口を吊り上げた。ルカは何を思ったか、目を伏せて深く息をはく。
 そんな二人を横目に、は、出来ることならこのまま来訪者が来ることなく、彼女の安息が続けば良かったのにと思っていた。

 「…ククッ……ようやく来たか…。」
 「………。」

 ユーバーが低く笑うも、は、それを牽制することなく唇を噛み締めた。
 と、ルカが兵法書を簡素な荷袋に放り投げると、無造作に立ち上がる。

 「ルカ…?」
 「……貴様らは、そこで少し待っていろ。」

 それだけ言うと、彼が右手を掲げた。

 「どこへ行く…? 『奴』が来るまでには……時間があるぞ…。」
 「分かっている。俺は俺で、やらねばならんことがあるのだ。」

 ユーバーに言われても、彼は、それ以上なにも言わずに苦い顔をするだけだった。
 それを見ては、彼がどこへ行こうとしているのか察知した。思わずその腕を取る。

 「ルカ、待ってくれ!」
 「……なんだ?」
 「まさか…。」
 「……ふん。俺は、あの女を………起こしに行くだけだ。」
 「やっぱり…なら、俺も……!」

 待ちこがれてはいた。また彼女に会える。
 しかし、それでもやはり心の奥底では、望んではいない”時”の到来。
 ・・・・違う。出来ることなら、それを望みたくはなかった。

 彼女に会いたい。
 彼女に触れたい。
 彼女と話がしたい。

 でも、その望みが叶うということは、同時に、それは彼女にとっての『地獄』の再来だ。
 それで・・・・良いのだろうか?
 だがあの時、ルカが言っていた。あいつはこうなる事が分かっていた、と。それは、彼女自身が選び取った『道』。全ての”元凶”を封じ込めるための。
 きっと・・・・・そうなのだろう。

 ササライたちが去ったあと、荷とも呼べぬそれらを簡単に纏めた。だが、それでもまだ迷う自分がいた。どうか、出来ることなら・・・・この時が、永久に続くように、と。
 でも、もう遅い。”時”が来てしまった。願いながらも否定していた『この時』が。

 入り口へ降り立った者は、恐らく『本物』だ。
 幾年も前から『姿を消した』と各国で噂され、シンダルの技を手に禁忌を破って各国を襲い続ける『彼』。
 それを体現するかのごとく、その気配は、この地へ降りたと同時に震えるような・・・・全てが死の灰に覆われてしまうような感覚を、未だ自分に与え続けていた。

 「…………。」
 「ルカ……頼む…。」

 決して視線を合わせることなく口を閉じてしまった彼に、項垂れながらも頼み続ける。
 そうしてから、どれだけの時が流れただろう。ユーバーが、不意にゆらりと森へ足を向けた。それに反応したルカが、顔を上げる。

 「おい。」
 「……なんだ…?」
 「やめておけ。」
 「……ククッ。」

 金の髪をなびかせた悪魔は、また『来訪者』を遊び道具にしようとしている。
 それが分かっていたため、ルカは牽制したのだろう。
 しかし・・・

 「これほどまでの高揚感……久しくわすれていた俺の憎悪を、あの悪夢を……蘇らせてくれる…。」
 「…勝手にしろ。だが、どうなっても知らんぞ。」
 「ククク…。」

 血を、悲鳴を、そして恐怖に歪んだ顔を見ることを愉悦とする悪魔は、彼女と契約したことにより、その牙を納めたはずだ。彼女の紋章によって、彼にとって初めてであろう『癒し』を得たはずだ。それなのに、どうしてその『狂気』や『憎悪』が蘇ったのか。
 だが、すぐにそれを解することが出来た。
 創世の紋章によって加護された、この地。しかし『それ』を持つ者が、結界内に侵入した事によって、僅かながらであれ彼にとっての『癒しの効果』は薄らぐ。眠っていた『悪鬼』と呼ばれる面が、再び顔を出し始める。

 しかし、にもルカにも分かっていた。
 たぶん・・・・・いや、絶対に、ユーバーは、『彼』には勝てないだろうと。
 それよりは、先の答えを促すように、もう一度ルカに言った。

 「ルカ……。俺を………彼女の所に……。」
 「…………。」



 長い長い沈黙。
 ルカは、じっと少年の顔を見つめた。
 強く、巨大な闇を背負ったその瞳。ドジャーブルーの、砂地の美しい海色を思い出させるそれは僅かに揺らいでいるが、決して自分から目を逸らすことはない。
 いつか、彼女から「凄く綺麗な目の色なんだよ!」と聞かされた事がある。はたして、それは何時の事だったか・・・・。

 ややあって、自分が目を逸らした。流石に、そこまで頼まれて『NO』とは言えない。
 彼に背を向けながらも「着いて来い…。」と言った。

 「ありがとう………ルカ。」

 安堵し、ふと見上げた空の色。
 それは、一瞬だけ、あの夢のように灰色がかって見えた。