[ハルモニアの神官長]
「どれぐらい……?」
ポタポタという音のみが繰り返される中で、実に無機質な女の声が響いた。
その顔に表情というものは無く、その声も、どこか遠くを語るように朧げで。
だが、しっかりと通る声質は、やはり彼女の声だった。
「一年だ。」
「……………。」
静かに答えたルカに───は、沈黙で返した。
それを見ていたには、分かった。彼女が『まだ、それだけの時しか流れていないのか』と思っていることを。
いや・・・・。
もしかしたら、思っていないのかもしれない。そこに見せる感情すらなく、ただ『一年経ったのか』としか。なぜなら、僅かに揺らぐ闇色の瞳は、落胆も絶望も映してはいなかったのだ。喜びも哀しみも無い。彼女は、今ここで生きているのかと疑問すら湧いてしまうほど。
無機質な顔、声。感情をなくした瞳。
その僅かな挙動すら、今は機械的に映った。
「一年か…。変わりは…?」
「……そいつに聞け。世情なら、そいつの方が詳しいはずだ。」
そう言って、ルカが己に視線を向けてきた。途端、ピンとした張りつめた空気。彼女が、それまで朧げであったはずの意識を、はっきり自分へ向けたのだ。
だが彼女は、ここで僅かに眉を寄せた。
「…? なんで…」
彼女の視界が定まり、自分をその瞳に映す。
パシャ、と音をさせながら一歩。ゆっくりと、自分に近づいてくる。
そして、少しばかりの距離を空けて立ち止まり、言った。
「私が……すべて背負うと言ったのに…。あんたには……あの頃のままで居て欲しかったのに…。捕われてしまったんだね…。でも、今ならまだ……」
「。」
彼女の言葉を、首を振ることで止めた。彼女のことだ。きっと本心からそう言ったのだろう。でも自分が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。
今ならまだ戻れる、という、そんな優しさじゃなくて・・・・
「俺は………きみとなら、どこまでも行くよ。」
「……。」
罵って欲しいとは、もう思わない。詰ってほしいとも思わない。彼女がそれを望んでいないのだから。
だから今は、この瞬間だけでも、己が欲する言葉を・・・例えそれが我が儘でしかないのだとしても、心から求めていた。
「ありがとう………。」
「……うん。」
その優しさに甘えても良いと思った。その心からの言葉を受けても罪にならないと思った。彼女がそれを望まなくとも、自分は堕ちていけるのだから。
抗えぬほど巨大な”運命”を負うその背を、自分のこの手で支えていけるのなら・・・。
『俺は、きみの為なら…………世界を犠牲にしても構わないから……。』
言葉にはしない。
でも、彼女が僅かに目を伏せたのは、それが伝わってしまったからだろうか?
それでも良かった。伝えぬと決めた想いの切れ端が、断片的に伝わってしまっても。
彼女に一歩近づいて、その体を抱きしめた。優しく、強く。
彼女は何の反応も示さなかったが、それも悪くない。見返りなど求めていないのだから。
だが、不意に己の背に腕が回されたことに驚いた。
水の滴る女の体は柔らかくて、どこか儚い。
自分にとって、唯一のかけがえのない存在。
『大丈夫だよ……。俺が……………守るから……。』
「っ…!?」
不意に全身に駆け巡った『悪寒』に、まずルカが踵を返した。も顔を上げ、彼女を背に隠す。
その気配は、先にこの地の入り口へと降り立ったはずの人物か。
圧倒的な存在感に、戦慄すら覚える。人には絶対に醸すことの出来ない『それ』を持つ者は、もうすぐそこまで来ている。すでに森を抜けたのか、洞窟の前に佇んでいた。
ふとルカを見れば、剣の柄に手をかけている姿。
だが、森の中には黒い悪魔がいたはず。彼は、どうなった?
胸の中にザワリとしたものが駆け巡った。
「ルカ…。」
「さて……これからどうするか。」
思いのほか、相手の到達が早い。それだけの使い手だということだろう。
視線を戻せば、ルカが苦い顔をしている。
と・・・・・・
「っ…!?」
「な…!」
音もなく、光もなく。
この空間に現れた、確かな『存在』。
現実として保たれているはずなのに、そこだけ、歪みや澱みが生じているような・・・。
どろりとした『それ』は、徐々に光を発した。
そして、太いうねりとなって人の形を成す。
目に見えぬ、複雑で難解、だが確固たる”意志”。
形を成し終えた、整ったその顔、目、鼻、唇。
遠き昔に打ち立てた国の、青と白を基調とした、幾重にも揺れる衣。
彼が造り上げた『者たち』より、歳がいくらか上に見えるのは、ピークを過ぎた後に『それ』を宿したからなのだろう。
だが、それを見ただけで・・・・・もルカも、彼が『本物』だと認識した。
この男が・・・・・・・・・・・ハルモニア神官長、ヒクサクなのだと。
不意に、それまでまったく動かなかった彼女が、ゆらりと顔を上げた。
が横にずれたことで、ヒクサクと彼女の瞳が交錯する。
どちらも、視線を揺るがすことはなかったが、それが、ルカとの居心地を悪くした。
「………………。」
と、彼女が視線を外した。そして目を伏せて、言った。
この時を待ち焦がれていたように。ずっとずっと、”この時”を待ち望んでいたように。
口元に、僅かな自嘲を含ませながら。
「待ってたよ……………………ヒクサク。」
「大丈夫か、ユーバー?」
「まったく、情けない事だな。一瞬でカタがついたか?」
自力で森から出てきたのか、傷一つない体を重苦しく引きずりながら、苦痛に顔を歪めた彼に声をかけたのは、。続けてお馴染みの茶々をいれたルカが、鼻で笑った。
「…っ……黙れ……殺すぞ…。」
「まぁ、へばってても、それだけ言えるんだから大丈夫だな。」
「まったく…。だから止めておけと言ったのだ。」
話すことも辛いのか、その場に尻餅をついたユーバーを、二人で宥めた。
あれから。
とルカは、から「ヒクサクと二人にして欲しい」と言われ、洞窟の外へ出た。
彼女は、今、彼と二人きりだ。
だが、ユーバーのこのやられ方は、尋常ではない。先ほどヒクサクと見えた時、その体には何の傷も・・・・・いや、纏っている法衣すら破れていなかった。
そこで、ふと思い出す。あれは、一年前の英雄戦争が終結した直後の事だった。ササライの提案によって、英雄達が向かったシンダルの地。そこで一度だけ目撃していた。
彼女が使った『魔力による拘束』。
聞いた話だが、それが使える者は、相当な術者であるという。ユーバーと戦いながらも服も乱れず汚れすら見当たらないとなると、彼もまたそうなのか。ヒクサクも彼女と同じく、その身の内に巨大な魔力を秘めているのか。そして、魔による拘束を使いユーバーを返り討ちにした。あれほどの存在感を持つ者なのだから、きっとそれぐらい容易いだろう。
不意に背筋に走ったのは、ゾクリとした冷や汗。だが、決してそれを表情に出すことはしない。例えそれだけの魔力を持っていたとしても、彼女の持つ『それ』には適わないのだから。
それだけは、自信を持てた。
左手に宿している流水の紋章で、ユーバーの体力を癒してやりながら、彼女が出てくる時を待った。
「ハルモニアに行く。」
夕焼けに染まる、創世の地。
その紋章が祀られていた洞窟から出て、まず彼女が放った言葉がこれだった。
皆が皆、そうなるのだろうと考えていた。
それを聞いて、まず楽しそうに口元を吊り上げたのはユーバー。
ルカは、元より全て知らされていたのか、つまらなさそうに鼻を鳴らしている。
それを見ながらは、一つ深呼吸してから、寄りかかっていた岩場から背を離して立ち上がった。
「。ヒクサクは?」
「先に戻った。ルカ、準備は?」
「……出来ている。」
ルカが簡単に答えると、彼女は、無機質な表情を変えることなく目を閉じた。
「……とルカは、先にハルモニアに向かってて。」
「え…?」
「…分かった。おい、行くぞ。」
返答する前に、ルカがの腕を掴み、転移を発動させた。
ユーバーは、目の前で転移の光の名残を見つめている女の顎を、そっと持ち上げた。
そして、静かに問う。
「どういう事だ?」
「…ユーバー。あんたには、一つ頼みたい事がある。」
「お前が……俺に…?」
揺らめく黒い瞳に、無機質な顔。何も想うことなく、すべて何処かへ還したような。
面白い、と思うと同時に感じたのは、僅かな苛立ちだった。目の前の女は、本当にあの『』だったのだろうか、と。
だが、纏っている気配は、己が愛し認めた女。
満足げな顔をして「言え…。」と言うと、彼女は、頼み事とやらをゆっくりと紡ぎ出した。