[相反する意思]



 時が、どれほど経ったのか。その感覚すら無かった。
 唯一分かるのは、真新しい白い手袋が濡れた感触。崩れ去った茶器より零れた熱い液体は、完全に冷えきり、赤い絨毯に広がっていたはずの染みは、すでに消え去ろうとしていた。
 それを見て、そこそこの時を経たのだと考える。ゆらりと視線を上げれば、薄茶色に染まった手袋。
 それを、ただ見つめていた。



 「、資料を持って………どうしたんだ?」
 「…いや……何でもない…。」
 「何でもないって…」

 資料を持って部屋に戻ると、彼女の様子がおかしい事にすぐ気付いた。
 その薄茶に染まった手袋と、足下に広がる渇きかけた水跡のようなものを見て、は思わず眉を寄せる。即座に彼女に何が起こったのか推理を始めた。

 「それ……どうしたんだ?」
 「………分からない。」
 「分からない? カップは?」
 「………消えた。」
 「…?」

 濡れた左手を見つめながら、そう返答した彼女。不可解だ。もしかしたら、彼女本人も何が起きたのか分かっていないのか。
 そう考えてその傍に近づくと、手袋を剥いだ。ふわりと漂う冷えたキャラメルの香り。それは、床からも。

 その時、彼女が、何事か呟いた。すると手袋や絨毯を染めていたはずの薄茶が、音も無く色を消す。同じく香りまでをもかき消して・・・・。
 彼女の放った言霊が、僅かに聞き取れた。「消えろ…。」というたった3文字に込められていたのは・・・・・・魔力? しかし、いくら彼女の魔力が高いとはいえ、こんな魔法は見たことがない。

 「……今、なにを……?」
 「………?」

 彼女の左手を取ったまま、そう問うた。しかし彼女は、その言葉で我に返ったかのように顔を上げる。
 全くの無意識だったのか。そう直感した。

 「何って…?」
 「いや…、何でもない。ごめん、俺の気のせいだったみたいだ。」
 「………それじゃあ…………『あれ』も……気のせいだったの…?」
 「え?」

 右の手を見つめながら彼女は、虚ろな目でそう呟いた。それに『意味が分からない』と答えようとするも、彼女は続けた。

 「消えたの……カップが……。……跡形もなく…。」
 「…………。」
 「私………そう……何かを念じてた……。何…? でも、消えたのは…………────じゃなかった…。カップが、消えたのかと…。」
 「、なにを……何を言ってるんだ…?」
 「……全部…消えることを、私が望めば………、『これ』は、それを叶えてくれるのかな…?」
 「…!!」

 暗示をかけるような謎めいた言葉。自分に解けるはずもない。
 本当に彼女なのか? 彼女と『何か』の意思が、混同・・・している・・・?

 「、もういいんだ…。」
 「違う…。『私』が望んでいるのは、バラン、ス…? 秩序と混沌が織りなす”永遠”を………安定させる、こと…?そして、この世界を…………見守ること……。」
 「、やめろ!!!!」
 「っ…!」

 自分は、滅多に声を荒げない。いつも冷静に振る舞いどんな事にも対処してきた。だがこれには、流石に声を上げざるを得なかった。
 彼女は、それまで宙を見ていた瞳を瞬時に覚醒させた。それを見て『やはり、彼女ではない”意志”が、彼女の中にいるのだ』と確信を持つ。

 「……もう、いいんだ…。」
 「…………私は…」
 「きみは、きみの”意志”があって良いんだ。だから……ずっと、きみでいてくれ…。」
 「…………。」

 彼女は、答えてくれない。応とも否とも。
 それでも自分の背にそっと添えられたその手は、暖かい。『生きて』いるのだから。
 ゆっくり彼女を抱きしめる。反応は返らなかったが、それでも良かった。その心音が、彼女が『生きている』ことを教えてくれるのだから。

 でも彼女の”意志”は、どこにあるのだろう?

 情緒が、定まっていない。
 そこから来るものは、なにかに対する不安や恐怖。酷い時には、それは幻聴や幻覚をも引き起こす。いつか知り合いの医師がそう言っていた。
 でも彼女が持つものは、それとは全く異なる場所から現れている。急激な覚醒からそうなるべくしてなったのだろう。
 だが、それ意外の要因が絡んでいる事も、は気付いていた。

 『紋章の意志』

 それは、彼女の師が教えてくれた言葉。聞いた当初はあやふやであったが、今ならその意味が分かる。紋章にも”意志”があるのだ。そしてそれは、所持者の心が弱れば弱るほど、強く表に現れてくる。今の彼女が、そうなのだ。
 そして・・・・・・・・この国の長、も。

 彼女には、まだ”意志”がある。彼女には、まだ抗う”力”がある。
 彼女には、まだ・・・・・・『成したい』と願っている”強い想い”があるのだから。

 自分は、それを手助けするべく共にここへやって来た。
 彼女が望むものが、自分にとっての『全て』だった。
 だからこそ、新たな決意を胸に刻んだ。

 もう一度彼女を抱きしめた。彼女が壊れてしまわぬよう、消えてしまわぬように。
 そして、静かに問うた。

 「きみは…………『彫師』を知ってるか?」