[不在一日目]
翌日から、彼女は姿を消した。
まず彼女の不在に気付いたのは、ルカだった。
彼は、昨夜ササライから宛てがわれた部屋で夜を過ごした。だが、翌朝起きて彼女の執務室となった部屋に向かったものの本人はおらず、なぜかクロスとササライが話していたのだ。
なぜ貴様らがここに? そう問うと、ササライは「これからの事を話しておこうと思ったんだ。」と言い、クロスは「資料になるものを見ておきたかったから。」と言った。
次に、あいつは何処にいる? と問うた。
するとササライが、クロスを見つめた。クロスは、笑みを浮かべながら「2~3日、留守にすると言ってた。」と答えただけだった。
・・・・こいつ、何を知っている?
目の前で笑う男は、物腰や言葉こそ柔らかさを装ってはいるが、その本質は違う。ひとたび戦いに加われば、その腕は戸惑いなく血に染まり、政治に加われば、必ずその中心となって彼女を補佐するまでの才覚を見せるのだ。
普段、それを見せるような事はしないが、彼女の為とあらば、持つ能力全てをフル活用させてその助けとなるだろう。
「おい、クロス…。」
「なんだ? あぁ、ここじゃマズい話なら、あとにしてくれ。」
「…………。」
やはり『何か』あったのだ。彼は、暗に『介入するべからず』と言っている。
ということは、あの女が、自分がそれを知ることを拒んだのだろうか?
じっとドジャーブルーの瞳を見つめるも、彼はそれに気付かぬフリをしている。そしてその足で、昨夜自分が部屋を出るまでには無かった本棚──パッと見ただけでは、かなりの高級品だろう──から一冊の本を取り出すと、何も言わずに立ち去った。
・・・・・静寂。
ササライも、彼に彼女の不在理由を聞いたのだろう。しかし自分と同じくはぐらかされたのだ。その表情は、困ったような情けないような何とも言えない顔をしている。
と、部屋の扉が開いた。クロスが、今しがた閉めたはずの扉を開けて顔を覗かせたのだ。
そして彼は何を思ったのか、作ったと一目で分かる笑みを見せながら、「そういえば、彼女から伝言なんだけど…。」と前置きして、小さく囁いた。
「きみは、軍事の方を任されるみたいだから、皇子時代の能力を最大限に発揮してくれ。」
どういう事だと問い返す暇もなく、彼はまた出て行った。
入国したばかりなのに、二日目には、既に不在。
この状況に困惑したのは、ルカだけではなかった。ササライとて、彼女の不可解な行動に頭を悩ませていたのだ。
彼は、彼女達がこの国へやって来ると言われたその日に、部下二人に事情を話していた。部下──ディオスとナッシュ──は、その報に大層驚いていた。
それもそうだ。あの英雄戦争を引き起こした者の『家族だ』と自ら称した女性。そして、元とはいえ、かつて『狂皇子』とあだ名された男。更には、あの彼女と一対一の勝負をしてみせた少年。
一時期ササライが、何やら機密命令で一人動いていたようだったが、まさか神官長直々に『彼らを迎え入れろ』との命が下るとは。彼らの何が国のトップへそうさせたのか。それは、この国の方針を考えれば、自ずと答えは出る。
彼女の持つ紋章こそが、今は、姿を見せなくなって久しい神官長を動かしたのだ。
彼女達がやって来た、その日。
「迎えに出て来るよ。」と言って執務室を出た上司を、ディオスは笑顔で見送った。あまり良い傾向と言えないが、あの上司があそこまで瞳を輝かせるのが珍しかったからだ。
だが、戻って来た彼の顔は、酷く落胆していた。問うてみたものの「…何でもないよ…。」との返答。しかし執務を再開したその手は、一向に動かない。その手の中で羽根ペンがくるくる円を描くだけ。心ここにあらず、だ。
それを見てディオスは、小さく溜息をついた。
資料を探しに部屋を出ようとすると、上司が、それに待ったをかけた。そして話し始めた。
しかしその内容は、己の予想を遥かに超えていたものだった。まさか国の長が、彼女を『副神官長』として迎え入れるとは・・・。
話が済み、これから先のことを真剣に考え始めた上司を置いて、ディオスは書庫へ向かった。この神殿には、書庫がいくつもあり場所もまばらだ。とはいえ、正確な位置づけに置かれているので、感覚さえ掴んでしまえば迷う事はない。目指す書庫までの道のりは少し遠かったが、然程時間を感じなかった。
そしていくつか必要な本を手に、来た道を戻った。行く道とは違う経路で戻った故か、気分は悪くなかった。だが角を曲がった所で、意外な人物に出くわしたのだ。
「あ、あなたは……。」
「あぁ、きみは、確か…。」
彼女と共に来たはずの少年。彼は、自分に気付くと「ディオス、だったよな?」と笑みを浮かべた。その笑みは、自分をもってしても『掴みどころが無い』と思わせるものだ。
どうしたのかと聞くと、彼は、困ったように笑った。
「書庫を探してるんだけどな…。」
「書庫…ですか? なぜ…」
「ササライから、何も聞いてないはずがない…よな?」
「…………。」
沈黙が肯定だということを、少年は悟ったのだろう。「その話は、真実さ。」と意味ありげに呟いて強かに笑っている。
書庫は至る所にあり、探している資料にもよる。そう答えると彼は、『成る程』という顔。嘘でもなんでもなく、その答えによって自分が真意を計ろうとしている事に面白さを感じているようだ。
だが彼は、その鎌すら気にならないのか、あっさり「軍務と内政。」と答えた。
「……随分と、はっきり仰るんですね。」
「きみみたいなタイプは、はっきり言った方が、裏がないと思ってもらえるだろ?」
嘘だ。この少年の手の内には、まだまだ何かある。嘘が嘘とばれても構わないと、それだけでは決してボロは出さないと、その瞳がそう言っている。
たったそれだけのやり取りで、力の差を見せつけられる。
自分より遥かに上手を見せる少年に、ディオスは舌を巻くしかなかった。
それから。
一通り書庫の場所を教えてから、彼と別れた。彼が角を曲がるのを見届けて、ディオスはまた溜息を一つ。
気を取り直して執務室へ戻ろう。そう考えた矢先、疑問が芽生えた。
そういえば何故あの少年は、この場所にいたのだろう? 聞いた話だが、一行を招いたはずの部屋は、この辺りではなかったはずだ。何かあったのだろうか?
ふと視線を上げれば、一定の距離を置いて正確に並び続ける扉。その内の一つが、少しだけ開いている。ここに人はいないはず。そう思いながらもそっと中を覗いた。しかし、本当に僅かな隙間だった為、狭い視界には絨毯や壁以外なにも見えない。
そっと、少しだけ扉を押した。幸い音が鳴る事はなかったが、その中にいた人物を見て目を見張った。僅かにキャラメルが香るその部屋には、上司の表情を喜から哀に突き落とした女性が、ソファに腰を下ろしている姿。どうやら気付かれてはいないらしい。彼女は、ティーカップを手にしたまま静かに目を閉じている。
気配を殺してじっとその姿を見つめていると、不意に、その唇から零れた言葉。
「………抑えろ…………自分を……………殺せ…………。」
それは、とても低く。内側から這い上がってくる『何か』に対する言葉。カップを持つ女の手は、この場所からでも震えているのが分かる。
だが驚いたのは、これだけではなかった。彼女がそう言った瞬間、その手の中にあったはずのカップが、音も無く崩れ去ったのだ。その中で小刻みに波紋を作っていただろう茶は、パシャと音を立てて絨毯に落ちる。
熱い、どころの話ではないはずだ。下手をすれば火傷の痕が残り、一生ものの傷になりかねない。それなのに彼女は、何も感じていないのかそれに目を開けることもない。
恐怖心に駆られた。理由は、きっといくらでもある。
ブリジットを驚かせるような紋章を持ち、膨大な魔力を雑作無く使いこなす技。そして、女性の身でありながら、軽々と真なる紋章の所持者たちをねじ伏せる”力”。見る者を時に優しく、時に動けなくさせるだけの”意志”を持つ瞳。
そして・・・・・・・彼女だけが持つ、独特の”気配”。
全身で感じるとは、こういうことか。戦いを生業とせぬ自分でも、身を以て感じる。
神がかっているとすら感じてしまう。彼女は。
「っ………。」
この場にいてはならないと思った。今すぐ立ち去らなければ、魅入られてしまうと。
ディオスは、恐怖にも歓喜にも似たその感覚に恐れをなし、音を立てずにその場から立ち去った。