[気が狂うほど]



 彼女は、魘され続けた。
 熱は上がり、体中汗にまみれ、意識がずっと混濁したままで。
 首を振り、浅い呼吸を繰り返し。辛い『夢』を見続けているのかと思うほど、魘され続けていた。

 は、そんな彼女にずっと付き添い続けた。
 汗が出た分、なんとか口移しで水を含ませ、眠りながらも必死に『なにか』に抗おうとする彼女を。ずっと、ずっと・・・・。
 時折、それが落ち着く様子も見られたが、それはあくまで一時のことだった。落ち着いたはずの容態が再び悪化を見せるのに、そう時間はかからなかった。

 彼女を訪ねて来るササライやルカを遠ざけた。状況が状況で話すこともままならないし、かつそんな状態の彼女を誰にも見せたくなかったからだ。背の激痛故か彼女は、無意識に涙を流すこともあったのだ。
 辛いのだろう。見ているこちらが苦しくなるほど、それ以上の痛みと彼女は戦っている。
 自分なら、苦しんでいる姿を人に見られたくはない。だからと言って『彼女もそうだ』と考えるのは本意でなかったが、彼女も自分と同じだと思いたかった。彼女が苦しむ姿を見るのは、自分だけでいい。自分以外には、絶対に見せたくない。
 だから、部屋には誰も入れなかった。

 しかし。

 彼がそうせざるを得なかったのは、他にも理由があった。
 意識の無いまま痛みと戦う彼女には、分からないのだろう。その痛みが、右手の紋章を介して部屋全体を取り巻くほど重苦しい『重圧』として覆っていたのだから。
 もちろんその重圧は、にも掛かっていた。でもそれは、あくまで彼女の味わう半分にも満たないだろう。
 だが、それはとても重く、とても息苦しいものだった。重力が何倍にもなって押しかかってくるような錯覚。じっとしているだけで意識を奪われてしまいそうな目眩。自分の精神力は並大抵のものでないと自覚していたが、他の者なら分からない。いや、耐えられるはずがない。

 それよりも、自分が、この悪夢のような状況に立ち向かわなくてはならないと思った。それで少しでも彼女の痛みが知れるなら、これぐらい安いものだ。それが『全て』ではないとしても、彼女の傍で生きている事を実感出来るのだから。

 「…………?」

 ふと視線を向けた先には、彼女の手の平。握りしめられた拳からは、無意識の中で戦っているのを強調するように血が出ている。滲むなどと生易しいものではない。それは、まるで鋭利なナイフで数カ所、小刻みに斬りつけられたように。
 熱い、苦しい、辛い、痛い・・・・。額に流れる汗が、流れる涙が、そう言っていた。

 手の平に包帯を巻いてやっても、抗い続ける彼女の手は、赤をなくさなかった。何とかそれを止めさせようとして、ふと『同じ道を辿ろう』と思い立った。俯せにしていたその体を横に寝かせ、その左右の手の平に自ら手を絡めた。彼女自身で傷つけていた場所を、自分のものとした。
 爪が平に食い込み、プツ、と音を立てて皮を肉を突き抜けた。更にそこから抉るように震える力が込められる。眉を動かすには、充分な痛みだった。抉られる感覚は神経を伝い、痺れるような感覚を脳に残していく。それは、ややあって位置を少しずらし繰り返される。
 そして幾刻も経たぬうちに、自分の手の平は、彼女と同じような傷が残った。

 当たり前だが、神経の集中している手を傷つけられるのは、とても痛い。だが自分にとっても彼女にとっても、それは、今まで生きてきた中の傷としては小さなものだ。長い時間を生きて来た中で、痕の残ったものは少なくない。自分も、彼女も・・・・。

 「つッ……。」

 それでも、その手を離すことはしなかった。
 思うまま、そのままに、彼女は彼女であって欲しい。その願いは、自らの介入によって崩れた。でももしかしたら、このまま共に在り続けることで、それが修復されるのではないか。

 手の平からは、血が流れていた。とても痛い。
 けれど、それが『生』なのだと知っていた。痛みがあるから実感できる。心も体も、痛みがあるからこそ、今ここに生きていることを実感できるのだ。






 それまで自分の手の平に加わっていた力が、ふと止んだ。
 僅かばかりの安定に入ったのか。そう思いながらも、その手を離さない。
 じっと、汗の浮かんだその横顔を見つめた。

 すると・・・・・。

 「ふ………。」
 「………?」

 僅かな吐息と共に開けられたその瞳に、は目を奪われた。
 一週間。この短いようで長かった戦いに、ようやく終わりが訪れた。
 そんな彼女が、ようやくその目を開けてくれた。
 緊張と安堵が入り交じり、思わず頬を緩ませる。

 「………?」
 「おはよう、。」
 「…どれぐらい…?」
 「一週間ってところかな。」

 起き上がろうとした彼女を制し、暫く安静にするように言う。その瞳が少しだけ揺らいだが、大人しく言われた通りにしようと考えてくれたのか、彼女は横向きのまま身を捩った。しかし、その動きから手の平に振動が伝わったのか、痛みに顔をしかめてそれを見つめている。

 「それ、寝ている間に引っ掻いてたみたいだから、巻いておいたんだ。」
 「………ありがとう。」

 両の手をじっと見つめたまま、礼を述べる彼女。
 ・・・・どうしてだろう? それに虚しさや寂しさを覚える。

 「一週間も…か…。」
 「ルカも俺も、準備は万端だ。その間に、国の内情は把握しておいた。今までの資料も政策等も、ぜんぶ頭に叩き込んである。」
 「そう……。」

 今度は、瞳を揺らすことなく、彼女はそう答えた。
 ・・・・・あぁ、悲しい。なんて哀しいのだろう。自分は、そんなことを言える権利など、微塵も持ち合わせていないのに。

 「それで……彫り物は、上手くいったのか?」
 「……うん。」

 目覚めたばかりでも、彼女は酷く冷静に見えた。あれだけ苦しんでいたのが、まるで嘘のように。

 「でも、背に彫るほど…」
 「……”先”を………見越してのことだから…。」

 淡々と流れる時に反するように、自分の中では、焦りにも似たざわめきが湧く。それほどまでに、彼女にとっての”先”とは、闇に満ちたものなのか。
 その手が視界に映り、白い布に滲んでいる赤色を見つめる。

 「暫くは……大事を取って、安静にしていてくれ。」
 「………うん、分かった。」

 それから視線を上げれば、目に入る彼女の横顔。その黒い瞳が見つめるのは、自分でもなく今でもない。近いのか遠いのかすら分からぬ、遠き”未来”。

 「……。」
 「…………。」

 一人になりたい。今は一人にして欲しい。沈黙の中、彼女がそう言っている。
 だから、席を立って部屋を出ようと歩きだした。
 自分は、負けたのかもしれない。逃げたのかもしれない。・・・・・否、逃げるのだ。
 重苦しい空気。はっきりと見えたヴィジョン。そして、彼女の言葉。

 扉に手をかけた。このまま何事もなくここから出られればと、矛盾した考えが浮かぶ。
 でも、それだけでは終わらなかった。

 「……………………ありがとう……。」

 そこに感情は、込められていた? それとも・・・・・・
 自分には、分かりたいのに分からなかった。

 「…………あぁ。」

 願わくは。
 戻れれば良いと思った。
 全てを胸の内に秘め、何も知らぬままで。

 願わくは。
 全てが無かったことになれば良い、と。
 そう思ってしまった己が、憎い。

 彼女にとっての『礼』とは、すなわち。
 今・・・・・・この瞬間を生きる自分にとって、胸を痛めるものでしかなかった。
 ”永遠”にすら、縋ることが出来ないのだと。

 手の平には、彼女と同じ傷。
 重ねれば、きっと交わることが出来る。
 でも、その”意志”は・・・・?

 彼女は・・・・・・なにも言わない。

 あぁ、悲しい。なんて悲しいのだろう?
 願わくは・・・・彼女の願いが、『全て』になりますよう。
 あぁ、哀しい。どうして哀しいのだろう?
 気が狂うほどに・・・・・