[今は それで]
静かな執務室には、ぱらぱらと本を捲る音が響いていた。
紙特有の音は掠れているが、音の無い静かなこの部屋には、丁度良いのかもしれない。
そう思った直後は、サッと顔を上げた。突如、宮殿全体を覆うほどに広がった『力』を感じたからだ。
「おい…。」
「……あぁ。」
正面のソファで同じく読書していたルカも、感じたようだ。本から目を離すと『力』を感じた方角へとそれを向けながら、億劫そうに鼻を鳴らしている。
誤摩化すためにそんな事をするなら、最初から声をかけなければ良いのに・・・。そう思ったのだが、それが彼なりのコミュニケーションの取り方だと分かっていたので、小さく笑うだけに留めた。
それから暫くして、執務室の扉が開かれた。
は、静かに立ち上がると、扉を開けた少女を出迎える。その傍に歩みより、随分と小柄になった肩に手をかけて、声をかけた。
「おかえり、。無事に終わったのか?」
「……うん。少し、手を焼いたけどね…。」
幼くなってしまった彼女。そこに宿る無機質さは相変わらずだが、それでも構わなかった。彼女は、じっと小さくなったその右手を見つめている。
先ほどもそうだったが、彼女が触れる物は、その時の流れを遅くする。不可思議な感覚だったが、自分も彼女と同じものが見れるのなら、その方が良い。
何とはなしに彼女の視線を辿って見れば、ゆっくりと開閉されている。
本当に・・・・本当に小さな手だった。
「でも首尾は、上々なんだろ? 俺の予想では、圧倒的勝利だったんじゃないかと思…」
「…うっ……!」
言葉が終わる前に、彼女が、突如苦悶の声を上げて膝をついた。
咄嗟にその背を擦ろうと手をかけるも、阻まれる。
「っ……いい………大丈夫だから……。」
「…?」
苦しげに顔を歪めた彼女。さすがにそれで異変に気付いたのかルカも本を放り投げてその傍に膝をついている。それを目で追いながらも案じていると、彼女が目を閉じた。
そして右手に力を込める。
ズ・・・・・・。
途端、全身が潰されるほどの『重圧』がかかった。同時に感じたのは、それに支配されてしまいそうなおぞましい感覚。
しかし、それは、すぐに収まった。気付けば、部屋は元の空気を取り戻している。
見れば彼女は、呼吸こそ荒げているものの、先の苦痛に満ちた表情は、少し眉を寄せる程度にまで戻っていた。
「……これは…?」
「圧倒的勝利……か…。っ…意外と………そうでもなかっ…みたい……。」
言葉だけでは苦笑いしているように映ったが、その表情は変わらない。
段々と呼吸が落ち着いたのを見て、今度は、ルカが声をかけた。
「おい……どういうことだ?」
「……『円』を………封じただけ…。」
「なんだと…?」
彼女の『答え』。
それに彼は、一瞬眉を寄せていたが、すぐにその意味を解したのか小さく舌打ちした。
は、二人のやり取りを黙って聞いていたが、彼女が不意に立ち上がり覚束無い足取りでソファへ突っ伏したのを見て、近づきその背を擦ってやった。
ルカが、まだ何か言いたげな顔をしていたが、彼女の様子を見て諦めたのか読みかけの本をそのままに出て行ってしまった。
ゆっくりと、彼女の背を撫でた。優しく、優しく。
自分が生きる意味は、『彼女が生きること』なのだから。
「。」
「……なに…?」
「『彼』とは、話せたのか?」
「……うん。」
「どうだった?」
「……想像通りといえば、そうだったけど………違うと言えば、違った……。」
「そっか…。」
「……ごめ…………少、し………休ま……て…。」
こうやって話している間にも、彼女の声は、少しずつ弱くなっていく。先の『封魔』によって、体力、精神力、魔力を相当消耗したのだろう。
は、それ以上声をかけるでもなく「ゆっくり休んで…。」とだけ言った。
それから暫くして、室内には寝息が聞こえ始めた。緊張ではないにしろ、それに近くも遠い糸が、大仕事を終えてぷっつり切れたのだろう。
だが背が痛むのか、それとも直後だからなのかは分からないが、彼女は俯せで眠っている。
『夢』の中へ行ってしまったその眉を、時折、僅かに寄せさせるのはいったい何だろう?
”過去”か? ”今”か? ”未来”なのか・・・・・それとも、この世界の”果て”なのか。
いずれにせよ、それが『現実』であろうが『夢』であろうが、何ら変わらない。彼女にとっては、悪夢が続いているようなものなのだから。
これから先、全ての者が『なんと幸運か』と思える世界に成ったとしても・・・・。
『決して 戻らない』
音を立てず気配を消して、彼女の寝室へ足を運ぶ。そして毛布を手に戻ると、そっと彼女にかけてやった。
少しだけ身じろぎするその幼い姿が、見ていてとても心苦しい。
「………今は………。」
安らぎを得ることが出来るはずの『夢』ですら、彼女にそれを与えてくれないのだろうか?
彼女の『家族』が、そうであったように・・・・。
彼女もまた、その道を自ら辿ろうというのか?
如何なる”力”を手に入れようとも、彼女は、それでも”人”なのに・・・・。
少なくとも、自分は、『そうだ』と信じたかった。
そして、人であるなら、本当は誰もが『許されたい』と願っている。
きみも・・・・・願っている、はずなのに・・・・・
「今は………ゆっくり休んで……。」
一度だけ、そっとその頬に触れた。名残惜しいとは思わない。思ってはいけない。
は、静かに部屋を出て行った。
部屋に軽いノックの音が響いたのは、それから半刻ほど経った頃だった。
「あれ……?」
控え目にドアを叩いてみた。
その部屋にいるはずの者だからこそ、こんな小さな音でも気付かないはずがない。
『やはり、何かあったのだろうか?』と、少し首を傾げながら、来訪者であるササライは、もう一度ノックしてみた。今度は、先ほどよりも少し強めの音が響いたはずなのに、やはり部屋から言葉は返らず、誰かが顔を覗かせることもなかった。
「……? 聞きたいことがあるんだけど………良いかな?」
思い切って声をかけてみても、中からの反応は皆無。人の気配すら感じない。
流石にこれはおかしい。そう思い、ゆっくり扉を開けた。部屋の中は、明かり一つ灯されてはおらず、誰もいないのかシンと静まり返っている。
もしや、部屋を間違えたのか? そう考えてみたものの、使われていない他の部屋と同様ならば、テーブルやソファに本が無造作に散らばってはいないだろう。
ここは、紛れもなく彼女の執務室だ。そう再確認して、扉を開けっ放しにしたまま、一歩中へと足を踏み入れた。
と、ここで、本の置かれていないもう一方のソファで俯せに寝ている少女の姿を確認する。
「……?」
気配すら感じなかった。それなのに、無意識に押し殺しているのかと思うほど彼女は静かに眠っていた。
・・・・なぜ? そう呟きながら歩み寄り、その傍らに膝をつく。
元々、彼女より警告を受けていたため、戸惑い落ち込みながらもその警告を守ろうとしていた。だが、今回の訪問理由は、決して『私用』ではない。何度も何度も、自分の中で確認してから、この扉を叩いたのだ。
簡単に言えば、先ほどの神殿全体を揺るがした巨大な”力”の原因と、宮殿内にいる時は常に全身に感じていた『重圧』が解き放たれた、その理由。それらの意味を彼女なら知っている、もしくは関わっていると判断したから、躊躇の末にこの部屋にやってきたのだ。
だが、彼女は今、自分の目の前で驚くほど無防備に眠っている。廊下から僅かに入る灯りでは見えないが、きっと深く深く眠っているのだろう。それほどに、彼女は疲れているということか?
考えてみたが、今の自分には分からないだろうと思った。に聞くことも出来たが、いつものように、のらりくらりと交わされるだろう。
それなら今、自分が出来ることは、ただ一つだ。
右の手袋を外し、その眠りを妨げないよう、そっと闇色の髪を一撫でする。今、この気持ちを言葉にするならば、適切なのは『どれ』だろう?
その『答え』は、まだ見つからない。
でも、今は・・・・・・・それだけで充分だった。
「おやすみ…………。」
最後にそっとその頬を一撫でして、ササライは、静かに部屋を出た。