[憎悪の瞳]
緩やかな微睡みと、全身を覆う倦怠感。
意識を、そこへ委ねている中で感じたのは、少しずつ沸き上がってくる己が”意思”。
この感覚を捨てて、どれだけ時が流れたのか。そして、これまでどれだけ後悔したのか、その全てを覚えてはいない。
「……?」
ふと、急激に促された覚醒。
その感覚すら懐かしく感じる。忘れてしまっていた、かつての”想い”と共に・・・・。
だが、感傷にも似たこの思いを無視するように、目蓋はゆるりと開いた。
ぼんやりする焦点を合わせれば、扉を開けて入ってきたのは、美しいほどの黒髪を持つ少女。
「そなたか……。」
まだ少しだけ違和感が残る、この唇を動かす感覚。自分の物であるはずなのにそう思ってしまうのは、自らの意思で数百年と使用していなかった所為か。
ヒクサクは、今しがた開けたばかりの目を伏せて、そう思った。
「……気分は?」
対して、意識が浮上するきっかけを作った少女は、見た目にそぐわぬ無表情で問うてくる。
少しだけ、もう少しだけ微睡んでいたかった。そう思っていると少女が近づき、その手の平を額に当ててきた。常人ならばゾッとするほどの冷たさだ。だが、逆にそれが心地良かった。
「少し……熱があるね…。」
「そなたが、気にする事でもない…。」
「……ごめん、辛いよね…。強制的に、あいつを封じ込めたからかもしれない…。」
無機質な声。抑揚の無い、感情すら伺うことの出来ない声。操られているだけの人形のような、酷く居心地が悪くなる声。
だからこそ、彼女とようやく目を合わせる事が出来たのかもしれない。
ゆるりと目蓋を開けると、立ったまま自分をじっと見つめている瞳とかち合う。幼い姿に還されてしまったその体は小さく、座っている自分よりも少し低い位置にある。
黒い底の無い瞳は、広がり続ける闇の色。それは、おぞましく淡く、何よりも優しい色だ。哀しく、孤独で、冷たい、愛しい色。
そっと、その頬に触れてみた。その瞳をもっと間近で見つめてみたいと思った。反目し続ける表裏が、その中で戦い続けている気がして。
自分を・・・・いや、全て包んでくれそうなそんな気がした。この世界の全てを・・・・・始まりも終わりも、総べて。
それでもそなたは、戦い続けるのか。ただ一人、孤独を胸に抱えながら。
いずれやって来る”終末”から、この世界を何とか遠ざけようと・・・・・・ただ一人で。
ふと、これまで一切揺らぐことのなかったその瞳が、現実に引き戻されるように振れた。
「どうしたのだ…?」
「……なんで……も……ない…。」
「……?」
「ぐッ……!!」
途端、彼女が体を仰け反らせ、苦悶の声を上げた。
心地良かった手の平が、額から離れる。
膝を折ったかと思えば、それすら辛くなったのか彼女は、ドッと音を立ててその場に崩れ落ちた。
「…!?」
「…っ…構わない、で………すぐ…に………抑え…から……っ…。」
みるみるうちに彼女は痙攣しだした。
その額には、脂汗が浮かんでいる。
「、いったい…………うっ!!?」
今度は、自分の右手が脈打った。それがすぐに震えに変わり、そして痙攣へと変わる。
ゾクゾクと、まるで右手から全身へ這い上がって来るような、おぞましい感覚。
「これは……まさか………!?」
”過去”。
一度だけ、この感覚を経験した事があった。
この全身の毛が逆立つような恐怖、悪寒は・・・・・・
「まさか………『円』…………『円』なのか…!?」
「…ヒクサ………少し、待っ………すぐ…………抑えるか、らっ……。」
『支配』の強制。それにより蘇るのは、あの恐怖心。
自らと、そして愛する者たちの為に、一度は捨てた己が”意思”。守るために、己が器を受け渡したはずなのに、壊れることを許されなかった”自我”。
それを取り戻せたとはいえ・・・・彼女という存在に『希望』を見出し、取り戻してしまったからこその、恐怖。
一瞬の安堵と、抗い続けると誓った決意。しかし、その何倍もの恐怖が心に根付いていた。
強制的な支配感と、『また』という恐れに、瞳から流れるのは、涙。
意識が、混濁する宵闇へと引きずり落とされる、あの感覚。
「あ…………あぁ………!」
恐い、怖い、こわい・・・・。
抗うと誓ったのに、この身を滅ぼしても必ずと、そう決意したのに・・・・。
ずるり、ずるり・・・・闇の中から這い出て来る手が、『さぁ、堕ちろ』と自分を引きずり下ろそうとしている。
だが、次の瞬間。
彼女は、少女とは思えぬほどの大声で叫んだ。
「くっ、抗えッ、ヒクサク!!! あんたは、もう、ただの『器』じゃないんだ!!!!!」
「っ…!!!」
その言葉の直後、閉ざされようとしていた意識の暗闇の中に、大きな光が降り注いだ。
ヒクサクは、そこから伸びて来た手を力一杯掴んだ。そして、未だ自分を闇へ引きずり落とそうとする『何か』を、力一杯蹴り落とした。
彼女の右手が輝き、それに連動するように、その背に刻まれている『禁縛』も発光する。
そして、その光は、大きな”意志”を持って、二人を苦しめる”元凶”の暴走を封じ込めた。
・・・・・・体が、軽い。まずはそう感じた。
次に目を開ける。
その視線の先には、少女がいた。
汗をかいてぐったりと倒れ伏し、閉じられている黒い瞳。
ヒクサクは、体を起こすと、彼女にそっと手を伸ばした。
と、ここで扉が開く音を耳にし、目を向ける。
「………そなたは…?」
「……………。」
開かれた扉に立っていたのは、タンの髪にドジャーブルーの瞳を持つ少年。
理知的ながら、鋭利で冷酷さを秘めた、その瞳。
それは、まるで・・・・自分を、憎悪している・・・・・ような・・・?
少年は、その問いに答えることなく、彼女に近づき膝をついた。そして、まったく動かなくなってしまったその体を抱き上げる。優しく、優しく。
その一連の動作を目で追っていたが、もう一度、問うてみた。
「そなた………名は…?」
「………………………。」
何か考え込んでいたのか、それとも自分との会話を拒否したかったのか、と名乗った少年は、静かに答えた。
彼女を連れて行こうとする辺り、彼は、彼女の『仲間』なのだろう。
ゆっくり立ち上がりながら、少年を見つめる。
「……彼女は…」
そう言いかけた、その時だった。
「………ヒクサク。一つだけ『忠告』しておく。次に、また同じ状況になったら、きみは……死ぬ気で『円』に抗え。」
彼女は、大丈夫なのか? その問いを無視するように、彼は、向き合うこともせずにそう言った。どこからか今までの流れを見ていたのか、それとも、この状況で判断したのかは分からないが、恐怖心に囚われ、抗う事の出来なかった自分の心を、彼は瞬時に見抜いたのだろう。
「っ……。」
言葉を発せずにいると、少年が、今度は、はっきりとその瞳を自分に向けた。
だが、その瞳と長く目を合わせることが出来なかった。強い『怒り』と『憎悪』の籠った、深い闇を持つその瞳を・・・・。
彼が、自分に持つ『怒り』。そして、その『憎悪』の意味を理解してしまったから。
言葉を発せずにいると、彼は、怒りを隠そうともせず忌々しげに言った。
「俺は……きみが、許せない。きみが、最後まで円に抗おうとしなければ…………彼女は、命を落としていたかもしれないんだ。」
「…………。」
「今の彼女は……彼女のこの体じゃあ、これが精一杯なんだ。円を抑えておくだけでも、俺たちには想像できないほどの『負荷』がかかる。それなのに………きみは、円の支配に飲まれそうになった。その恐怖に取り込まれそうになった。」
「私は……」
「もし、次に同じような事になったら……」
ギ、と奥歯を噛む音が聞こえた。
顔を上げれば、明らかな『殺意』の灯った、赤黒い炎を纏う少年の瞳。
「俺が……………俺がお前を殺し、その紋章を封じる。」