「それじゃあ……。」
アルベルトの言葉を受けて、そう言った瞬間だった。
段上に、厳かな光を纏って『彼』が、その姿を現したのは・・・・。
「…………ヒクサク、様……?」
初めて、だった。
初めて・・・・・・『会った』のだ。
そう、初めて・・・・・。
生まれてこの方、その名だけを聞いていたものの、拝謁を許された事はなかった。
自分がどれだけ望んでも、神官将という地位を任されたとしても、どういった御方なのかとせがんでみても・・・・・拝謁を許されたことは、ただの一度も無かった。
しかし、今、その『彼』が、目の前にいた。それこそ、本当に自分の『目の前』に。
「っ……。」
だが、戦慄した。その顔を見て、その姿を見て、その瞳にある憂いを見て。
『彼』こそが・・・・・・・自分や弟の『大本』であったのだと。
もう・・・・・・認めざるを得ないのだ、と・・・・。
[虚構の権威]
「…ヒクサク様。」
そんな自分の思いとは裏腹に、ここで彼女が動いた。椅子から立ち上がり、その前に跪いて頭を垂れると、皆に聞こえるようにその名を呼んだのだ。
対する『彼』は、その頭にそっと触れ、僅かに口元を緩める。
ササライは、すぐさまに視線を向けたが、彼は目を閉じ沈黙を保つのみ。
「ヒクサク様…。先日も申し上げた通り、やはり私の就任に異を唱える者は、ここには…」
「………良い。」
しん、と。場は、静まり返っていた。
久しく姿を見せていなかった神官長が、死亡説まで流れていた神官長が、直々にこの場に現れたのだ。皆が皆、驚きを隠せないでいる。
だが、ササライにとって、そんな事はどうでも良かった。
国のトップは、その容姿だけでなく、更には”声”まで自分と全く同じものだったのだから。
それに気を取られて言葉が出てこなかった。段下の者たちも、皆一様に自分と同じ事を考えているのだろう。『自分と、国の長が、恐ろしいほど似ている』ことに。
だが、ふと違和感を覚えた。自分よりも少し高い上背。僅かながらも違いがあるとすれば、そこか。ということは『彼』は、ピークを過ぎた後に『それ』を得たということ・・・?
じっと己の内に抱える疑問。それは『彼』と目が合った瞬間、何処へと消え去った。
初めて、だった。
初めて・・・・・だったのだ。
こうして会うことも、こうして目を合わせたことも。
哀しそうな眼差しで、ふと微笑みかけられた事も。
すべて・・・・
『彼』の”意志”では、なかったのだろうか? 自分や弟が、この世に生まれてきたのは。
『彼』の”意思”だったのだろうか? 今、こうして自分に微笑みかけてくれたのは。
・・・・・・どうしてだろう?
その瞳の奥に見えた『哀しみ』が、酷く自分の心を突き刺した。
「我が決定に………異論がある、という事か……。」
「……その様です。」
彼女と彼の会話は、まだ続く。
その、ある種『パフォーマンス』とも取れる会話を指示したのは、他でもない自分だ。
彼女の存在は、神殿派の者にとって、『ヒクサク』という御名の下に相応しき『御使い』だっただろう。ヒクサク直々の命により『副神官長』という大任を任され、決して表に出てこなかったヒクサクの『秘蔵っ子』として噂されるその存在は、ルクデンブル卿殺害の件もあってか、ここぞとばかりに神殿派の人気を射止めている。
しかし、それが『他国との友好条約』という外交面になると、話はまた別か。
そう考え静かに苦笑して、は、二人のやり取りを見守っていた。
「…勅令は、出したはず……。」
そう言って彼が、静かにササライを見つめた。そして、その手に握られていた書状を見て、そっと目を伏せる。それを目にし、皆が皆、口を開けないでいた。
そんな中、それもそうかと思った。それまで隠れていた『国の長』が、ようやく数十年ぶりに、こうして姿を見せたのだから。
「……皆……よく、聞け……。」
・・・・そうだ。それで良い。
それを言葉にすることこそが、きみの役割なのだから。
そして、紡げ。お前が成した『虚構の権威』を、その言葉として。
自分にとっては、傀儡でも、意志なき器でも、何でも構わない。
だから、ただ紡げ・・・・・
国を変え、”世界の先”を変えるという、彼女の『望み』を果たすために・・・・・。
「…各国との、友好条約…。それが、我が”意思”……。皆、それを心に留め置け…。」
「しかし…!!」
ここで、またも声が上がった。
目を向ければ、ブリジットが、瞳を揺らしながらもヒクサクを見つめている。
あぁ、またか。それでもこの国を思うというなら、いい加減に黙れば良いものを・・・。
「そなたは……?」
「わ、私は、ブリジット=ルアドルフと申します。父エルボス亡き後、ルアドルフの家督を継ぎ、神官将の任に就いております。」
「あぁ……あのルアドルフ家の…。まだ若き身でありながら、亡き父に代わり、その家督を守っているという旨………話で聞いている…。」
「あ、ありがとうございます!!」
・・・・これも予定通り。彼女の事を調べ、彼に伝えておいただけだ。
命をかけても良いと思えるほど、彼を慕う女神官将。憧れ敬うほどの人物の御身を見れただけで、声をかけられただけで、さぞや天にも昇る心地だろう。
「それで……ブリジットとやら…。そなたも、我が”意志”に、異を論ずると……そう申すか?」
「そ、それは……」
・・・・なんて簡単なことか。彼女は、これで堕ちた。確証ならぬ確信だ。
豪語しているわけではないが、調べなくとも彼女が『神殿派』に属していることは、もう分かっている。その忠誠心を見れば、ヒクサクによる絶対支配を支持していないワケがない。
それに、自分とアルベルトが動けば、調べられないことは皆無。
正直、ここまで上手くいくとは思っていなかった(イレギュラーを予想していた)が、それだけで終わらないのもまた、このハルモニアという国だ。今や『神殿派』の筆頭とも言えるルアドルフ家は、これで完全に堕ちた。『ヒクサクの絶対支配』を望む者たちは、これで。
残るは、民衆派だ。彼らを黙らせる事が出来れば、『彼女』の望む未来がぐっと近づく。
「他に……異論のある者は…?」
「……お待ち下さい。」
声を上げた者がいた。これも、自分たちが警戒していた者の一人だ。
サーズ=ルシバーグ。『民衆派』として絶えて久しい名家ラトキエ家に継ぐ力を持ち、今やルクデンブル家と並ぶほどの有力貴族。
聞いた話では、ルクデンブル家と影で盟約を交わしながらも、表立っての行動をしないという。矢面にルクデンブル家を立たせ、それを影から上手く操っていると聞く。アルベルト曰く『信用できる筋からの情報』という事だ。
そしてサーズという男は、若いながらも聡明な人物だということ。幼い頃に大病を患い、その視力を失ってしまったと聞いたが、見れば成る程。確かに、齢28にて民衆派を影から操ることのできる、その強かな空気。
・・・・あぁ、出来る事なら、自分の下に欲しいな。
そう思ってしまったが、『民衆派』の彼を迎え入れることは、今は無理だろう。しかし友好条約に関しては、受け入れざるを得まい。今は何より、国政を安定させる事が不可欠だと、この男も分かっているのだろうから・・・。
「……私は、サーズ=ルシバーグと申します。」
「サーズか…。して、そなた………論を交えるか…?」
「……ヒクサク様直々の御下命とあらば、異論を唱える気はございません。ですが…。」
・・・さぁ、こい。
これも『範囲内』であり、自分たちにとっての『必要事項』なのだから。
来てもらわなければ、こちらが困るのだ。
「先程、ルアドルフ殿が仰った通り、我らが国は、国政の筆頭に『真なる紋章の回収』を掲げておりました。しかし、何故、それを今さら覆すようなことを仰られたのか……その内情をお伺いしたい。」
「…そなたらも、すでに周知の通り……確かに我が国は、真なる紋章の回収を掲げていた。しかし…それが、新たなる乱を起こし、我が国力を蝕み、いずれこの国を乱す要因となる……私は、そう考えた。今は、国内を安定させる事……それこそが、国の瓦解を防ぐ最善の策ではないか?」
「それは……。」
「ハイイースト動乱を、覚えているか…? あの時、我が国は、デュナン共和国の策によって撤退を余儀なくされたが、その根底にあったのは……国内の不和によるものであった…。いくら強固、巨大と詠われていたとしても……内部が『不和』に埋め尽くされていては、何の意味も見出せぬ…。そなたは、国内の不和を望むか? それとも、安定したその”先”を望むか…?」
「…………。」
国内の安定。遠巻きに『彼』が言った、二大派閥間の緩和。
それを得る為には、まず外側から固めていく必要がある。そして『友好条約』こそが、今最も優先させるべき事なのだ。
『民衆派』とは言っても、国の長直々にそう述べられては、もう黙るしかないだろう。それが嘘であれ真であれ、それを過去様々、派閥間の抗争による失態を見てきたが故に、黙るしかないのだ。
「……他には………?」
・・・・・馬鹿馬鹿しい。こんな国、自分一人でいつでも瓦解させられる。
『民衆派』『神殿派』など全くもって煩わしく、まさに『改革』という名を表立てた『瓦解』に相応しいではないか。
そうは思ったが、は、それを口にすることは無かった。
国の長が表立って出てきてしまえば・・・・・・その衝撃故に、異論を唱える者などもう此処にはいないのだから。