[風と悪魔]



 翌日。
 キバ率いる奪還部隊は、布陣を終えて王国軍と対峙していた。

 王国軍を率いるは、黒騎士ユーバー。
 は気付かなかったが、ルックは、王国軍の一角から上がる人ならざる殺気に気付いていた。

 黒い悪魔がいるであろうその場所を、遠目から目を細めて見やる。その姿を目視することは出来なかったが、確かにあの悪魔はいる。
 故に、ルックは警戒した。以前彼は、興味本位でルルノイエに潜入した彼女が、その男に捕らえられそうになっているのを助けたことがある。その時は、風魔法を使って撃退したが、見た瞬間から人にはないおぞましさを敏感に感じ取っていた。

 そして今、再びその男の気配を感じて、それは『確信』に変わる。

 『やっぱり……あいつは…。』

 自然と嫌な汗をかいた。恐怖ではないが、胸を背中をゾクリとしたものが走る。吐き気がするほどおぞましい。
 けれど、それを押し隠すように男がいるであろう一角を睨んでいると、誰かが隣に立った。彼女だ。
 彼女は目を合わせると、歯を見せて笑った。

 「どーした、少年? めーずらしく緊張でもしてんの?」
 「…………。」

 その問いを黙殺すると、彼女が眉を寄せた。その視線が『どうした?』と訴えている。
 震えているわけではない。かといって、いつもの軽口を叩ける気分でもない。己が心情を表すように、風が震えていた。大気が揺れ、ざわざわと震える。
 彼女は訝しんだ顔。いったい何なんだとでも言いたげな表情だったので、仕方なしに口を開く。

 「。」
 「ん?」
 「きみは………本拠地に戻りなよ。」
 「はぁ!?」

 それは、実に彼女らしい反応だった。だが、この程度の言葉で彼女が戻るはずがないと分かっているので、あの男がいる一角へ視線を向けたまま続ける。

 「あいつが……いるんだよ。」
 「あいつって…?」
 「きみが、ルルノイエに行った時の…」
 「あ、ユーバーだっけ?」
 「ユーバー…。」

 彼女の言葉を繰り返すように、脳にその名を刻みこむ。

 「とにかく………きみは、戻るんだ。いいね?」
 「なんで?」
 「……なんでもだよ…。」

 ここで、会話を打ち切った。進軍の合図が出たのだ。
 キバの号令と共に、同盟軍全軍が動き出す。舌打ちしたい気分にかられたが、それを抑えて自部隊に指令を出した。彼女に視線は向けなかった。

 「ちょっと!!」
 「………。これは部隊長の命令だ。きみは、早く本拠地に戻れ。」

 説明している暇はない。だが、彼女をここに置いておくわけにもいかない。
 だからルックは、いつもより更にキツい口調で念を押して、馬の腹を蹴った。



 彼女がユーバーに狙われているという事は、知っていた。
 ルルノイエの一件がそうだが、その他に、要因となるものがもう一つあった。いつか彼女に「ユーバーに、創世の紋章を気に入ったと言われた。」という話を聞いたことがあったのだ。
 あの男は、カモフラージュで付けている『大地の紋章』の奥に眠る”その存在”を、気取ったのだと。

 だから、ルックは余計に警戒した。

 もし、二人が再び会うようなことがあれば、必ず彼女は狙われる。最悪連れ去られるだろう。いくら彼女が強いとはいっても、剣の腕では、あの男に到底及ばない。力でも早さでも体力でも。
 自分の分かる範囲で、唯一彼女があの男に勝てるもの。それは『魔力』だ。もし、それを彼女が『本当の意味で自由に操れる』のだとしたら、あの悪魔には絶対に負けない。だが、彼女は、まだその力の使い方を・・・・・・その身に宿している紋章の”恐るべき特性”を知らない。

 ・・・・・悔しい。今は、素直にそう思う。
 今の自分の力だけでは、彼女を守り切れない。心底悔しいが、自覚はしている。
 恐らくユーバーは、彼女がこの場所にいることに気付いているはず。ならば、きっと彼女を狙うだろう。
 守れないから逃がす。今の自分には、それしか選択肢がない。だからこそ、彼女に本拠地へ戻るよう部隊長として命令した。

 王国軍も、ユーバーの声を合図に動き出す。
 意識を戻し、目の前に映る敵に集中する。先ほどの悪寒は不思議と消えていた。王国軍が間近に迫ってくる。

 「まったく………。きみって本当、ろくでもない奴に好かれるよね……。」

 とばっちりを食うのは、いつも僕だよ。
 そうボヤきながら、整い過ぎた己の顔に人形のような感情の無い笑みを浮かべて、詠唱を開始した。






 自部隊から繰り出される風魔法に、敵兵が次々と倒れていく。
 風は軍馬を嘶かせ、敵兵士を落馬させる。落馬したところを、前方の剣戟部隊が一斉に責め立てる。
 魔法兵団の中心で、ルックは、淡々と指示を出していた。指示を出しながらも、その惨状を見てふと思う。

 『どっちにしても……やっぱり、きみは、ここにいなくて正解だよ…。』

 彼女がこの場にいないことが、唯一の救いに思えた。
 味方部隊を挟んで聞こえてくるのは、金切り声にも似た断末魔。目前に広がり続ける、赤にまみれた死体の山。視界の端に映るのは、腕やら足やら首、果ては胴体を半分近く切り裂かれ、壮絶な最後を遂げたのだろう兵士達の苦悶の死に顔。
 今回の戦は、いつも見るそれらよりも酷い。この光景を彼女が見ようものなら、本当に立ち直れなくなってしまうかもしれない。やはり返しておいて正解だった。

 と、離れた場所で戦っているキバ部隊から伝令が届いた。敵大将が恐ろしく強いため、至急援軍に来られたし、と。
 少し眉を顰めながら、ルックは、自部隊に号令をかけ援軍に向かった。






 「ククッ………あの時のガキか…。」
 「……なにか文句あるのかい?」

 キバの部隊は、殆ど壊滅状態だった。
 急いだものの、これでは撤退を余儀なくされそうだ。そう考えながら、これほど相手が強いものなのかと臍を噛む。目の前でうすらと笑う男は、攻撃力防御力もそうだが、魔法にも耐性が強かったのだから。

 キバの部隊を後方に引かせ、自部隊を前線に出し、敵大将と相見える。
 敵大将───ユーバーが、口の端を吊り上げ笑っている。
 恐ろしいほどの狂気と殺意を纏った男に戦慄しながらも、負けじと憎まれ口を叩く。

 「貴様の右手に宿る、その紋章は………真なる紋章だな…?」
 「……さぁ、どうだかね。」
 「真なる紋章………我が憎悪の元凶………我が悪夢の元凶…。」

 剣に付着した血を一振りで払い、怨念のようにユーバーが呟く。彼は、まるでこの戦場を楽しむように唇についた返り血を舌で舐めとりながら、剣の切っ先を向けてくる。
 それにおぞましさを感じながらも、視線の向けられた右手に力を込めた。いつでも、その大いなる力を解放出来るように。

 と、ユーバーが、思い出したように問うてきた。

 「あの女は……どうした…?」
 「……誰のことだい?」
 「ククッ、と言ったか…?」
 「……………。」

 思わず黙り込むと、それを見た彼が笑う。その笑い方が酷く癇に障ったが、それを抑えて顔を顰めるだけに留めた。

 刹那。

 その姿が、蜃気楼のように揺らいだと思った直後、消えた。
 これは、近距離転移。

 そう思った、次の瞬間。

 背後に感じたのは、殺気。
 彼女の話で反応が遅れた。右手に意識を集中しながら、振り返ろうとする。
 直後、ヒュッ、と剣を振りかぶる音。

 こんな所で・・・・・・!!!

 襲いかかるであろう衝撃を予測し、本能から咄嗟に目を瞑る。
 それが、いかに無意味な事か分かっていても・・・。

 「………?」

 だが、その剣に貫かれることはなかった。薙ぎ払われることもなかった。場に鳴り響いたのは、金属同士が重なり合う音。

 目を開けた。
 そして、自分を庇った者を見て、思わず息をのんだ。

 「な、なんで……きみが……!!」

 本拠地に戻れと命じたはずの彼女が、ユーバーの剣を受け止めていた。自分を背に庇い、彼と鍔競り合いをしていた。
 自分の言葉に反応したのか、彼女は大声で怒鳴った。

 「この大馬鹿!! 説明もなしに『帰れ』とか言われて、私が素直に帰ると思ってんの!? 人のことバカバカ言ってっけど、あんたが一番馬鹿だっつーの! 私の性格を一番分かってんのは、あんたでしょ!!!」
 「……。」

 キンッ!と音がした。彼女が、ユーバーの剣を弾き返したのだ。
 次の攻撃に備えるために、ルックは咄嗟に呪文を唱えた。だが、それからユーバーが何かしてくる気配はない。

 その隙をついてか、彼女が自分を小脇に抱えて彼と距離を取った。それに思わずカッとなる。いくら食が細くて歳の割には小柄な部類であろうとも、軽々片腕で抱えられるなど、彼女にだけはされたくなかったからだ。

 「きみっ…!!」
 「うっさいなぁ…。助けてやったんだから、いちいちキレんな! 素直に『ありがとう、 大好きだよ!』ぐらい、可愛げのあること言えないわけ?」
 「っ、馬鹿言ってるんじゃないよ!! 帰れって言っただろッ!!!」
 「ギャンギャン吠えんな。うっせーんだよ、バーカバーカ!」

 呆れたような顔で自分を解放しながらも、彼女は、ユーバーからは決して意識を離さなかった。
 馬鹿バカ言われたので言い返してやろうとも思ったが、自嘲気味に笑う彼女の横顔に、思わず惹かれる。
 その憂いのある瞳をたたえたまま、彼女は、ポツリと・・・・



 「私は、さ……。”家族”まで失うわけには…………いかないよ……。」



 彼女は、きっと、彼女自身に言い聞かせるようにそう言ったのだろう。誰に聞かせるわけでもなく、なにより彼女自身のために。
 けれど、それはどんなに小さな声であっても、ルックの耳にはっきりと残った。

 親友を亡くし、恋人にまで先立たれた彼女に、自分は何もしてやれない。ずっとそう思っていた。優しい言葉をかけることも、その傷を癒してやることも、その涙を拭うことも。
 でも・・・・そうじゃなかった。
 彼女は、想い感じてくれていた。大切な者の死に涙し、嘆きながらも。
 まだ『自分がいる』ということを・・・・・。

 「っ……。」

 不思議な感覚が、暖かいものが心を満たしていく。それがどういったものなのかは、分からない。いや、分からなくていい。
 けれど、その言葉だけで、胸が言葉にできないほど暖かく切なく締め付けられた。



 ユーバーが剣をしまい、右手を差し出しながら、彼女に言った。

 「……。俺と共に来い…。」
 「やだ。」

 彼女は、苦笑しながら彼の申し出を断った。
 だが、ルックは彼女の『変化』に気付いた。その両腕が震えているのだ。
 先ほどの競り合いが、その腕に大きく負担をかけたのだろう。たった数秒のそれだけで、彼女の腕は、限界に達していたのだ。彼女が弱いからではない。目の前の男が強過ぎるのだ。

 ルックは、ユーバーという男の恐ろしいほどの実力を、ここでも目の当たりにした。下手にこの男と戦えば、命を落とすであろうことを。
 心中を悟ったのか、ユーバーが笑う。そして彼女に『提案』した。

 「……お前が来れば………こいつらは、見逃してやろう…。」
 「……………。」

 その言葉に彼女は眉を潜めたが、答えることはなかった。じっと、伺うように彼を見つめている。迷っているのだ。
 それを止めようと口を開いた。だが、彼女がそれを目で制し、刀を鞘にしまった。そして、確認するよう彼に問うたのだ。

 「……私が行けば………本当に、皆を見逃してくれる…?」
 「あぁ…。俺は、お前さえ手に入れば……こんな所に用はない…。」
 「『約束』できる?」
 「あぁ……約束しよう。………さぁ!」

 そう言って、ユーバーが、心底嬉しそうに口元を歪めて右手で手招きする。彼女は、しばし彼を見つめていたが、やがて意を決したように一歩踏み出した。

 ・・・・・・・行かせない!!!

 ルックは、迷わず彼女の手を取った。だが、振り返った彼女の瞳が『邪魔するな』と言っている。

 「ルック、離して。」
 「…………きみが、行く必要はないよ。」
 「なに言っ………え………っ!?」

 言葉が途切れ、彼女がその場に崩れ落ちた。ルックが『眠りの風』をかけたからだ。
 それにユーバーが小さな反応を見せる。それを一瞥しながら、ルックは、深い眠りに落ちた彼女を抱きとめて呪文を唱えた。
 静かな淡い光に包まれて、彼女が、その場から姿を消す。

 途端、ユーバーが声を荒げた。

 「貴様ッ……!!!!!」
 「………これで彼女は、きみの所には行かないよ。残念だったね。」

 すぐにそれが転移であると悟ったのか、ユーバーが再度剣を引き抜いた。
 それに小さく鼻を鳴らして、冷たく笑ってみせる。

 「貴様……殺されたいようだな!!」
 「……やれるものなら、やってみなよ。」
 「ならば、望み通りに………………殺してやろう!!!」

 ユーバーが、剣の切っ先を向けた。赤に滴る向けられたそれは、陽に反射して不気味に光る。

 「彼女は………は、渡さないよ……。」

 それを、底冷えするような冷たい瞳で睨み返し、ルックは、整い過ぎた口元に冷たい弧を描いて笑った。



 「僕の命に………………………………代えてもね。」