[信じること]
誰かに呼ばれた。
『』と。
この世界に来てから、新たに自分で付けた、その名前を。
次に、! と。
叫ぶように。涙混じりの声で。
何度も、何度も、何度も呼ばれた。
だれ・・・? 私、眠ってたの?
なんで? どうして?
分からない。分からないけど・・・。
そこで、夢を見ていた。とても、とても大切な夢。
忘れてはいけない『夢』。
でも、それって・・・・・・・どんな夢だった?
酷い焦燥感が残った。
思い出そうとすればするほど、手元に残っていたはずの『欠片』が粉々に崩れ、サラサラと記憶の隙間から零れていく。
いったい、何の夢だったのか? 馬鹿な。もう思い出せない。
自分を包む暖かい温もりで、今度は、はっきりと意識が覚醒してしまったから・・・・。
ゆっくりと、目を開けた。
まだ少し夢の中にいるような感覚が残っていたものの、目の前に映る見慣れた景色で、ようやく戻った。
いつも自分が重用しているティーカップや、茶葉を入れている棚。ペールブルーの布を敷いた木製のテーブル。窓には、かつての茶飲み友達が贈ってくれたレースのカーテンが、隙間から入る風に揺られていた。
視線を正面へ戻すと、少年が立っていた。緑のバンダナと、赤を基調としたチャイナによく似たそれを身に纏う彼は、心配そうに自分を見つめている。物静かな瞳が、僅かに揺れていた。
『大丈夫だよ…。』
声にならなくて、僅かに微笑んだ。
次に、身体を動かそうと試みた。だが動かない。おかしい。
誰かに抱きしめられて・・・る?
自然と顔を少し動かすと、柔らかいタンが目に映った。それがの髪だとすぐに分かった。彼に、抱きしめられているのだ。だから、彼の姿が確認できなかった。
自ずと理解し、何とか動く方の腕をその背に回した。ピクッと彼の肩が動く。
反応鋭く、彼が身を離した。だが、彼を見て驚いた。彼の目に浮かんでいたのは、涙だったのだから。今にも壊れそうなほど悲痛な顔をして。
「……なんで…?」
「目が……覚めたんだな!!」
そう言って、彼は、更に抱きしめてきた。どうして彼が泣いているのか、理解出来ない。
寝起きの働かない頭で考えてみるも、答えは・・・・
「あんた……なんで泣いてんの…?」
「ッ…なに言ってるんだ!? 当たり前だろッ!!」
いつもは憎らしいほど冷静沈着であるはずの彼が、声を荒げる。それには素直に驚いたが、怒られる謂れを感じなかったので、説明を求めるために視線を向ける。すると、彼は安堵顔で言った。
「僕たちが、ここで話をしていたら………突然、強い光が現れて……。」
「光…?」
「はい…。光が止んだと思ったら……今度は、あなたがそこに倒れていたんです…。」
「…ひか…り……?」
彼の言葉を反復していると、が口を挟んだ。
「きみが、倒れたままで動かないから………俺は……。」
「あー…。そっか…。心配かけちゃったんだね。ごめん…。」
力が抜け、その場に崩れ落ちた青年の背を優しく抱きとめると、彼は肩を震わせ目元を手で覆いながら、肩に顔を埋めてきた。
そして、震える声で・・・・・
「きみまで……………きみまで、俺を置いて………!!」
決して人前で見せたことはないだろう、その涙。
彼が見せたそれで、彼の心内を始めて覗いた気がした。
自分より遥かに上回る数を亡くしただろう彼の、本心という心の声を。
あの頃から、人前では『絶対』といっていいほど弱さを見せず、リーダーとしての役目に従事していた彼。常に冷静さを忘れず、生来の性格からか仲間からの信望も厚く、頼られていた彼。
それは、今も昔も変わらない。現に自分は、彼を頼っている。縋っている。
しかし、彼の涙を初めて見て、今日はっきりと理解した。
彼だって、置いていかれることが恐いのだ。あの頃から彼を知る者。その最後の一人である自分を失うことは・・・・。
初めてだった。
彼と出会ってから今日、この日。
ようやく、彼が心に抱えている『恐怖』に触れた気がした。
「…大丈夫だよ……。私は、絶対に……あんたを置いて逝ったりしないよ……。」
そう言って、彼の背を優しく撫でた。
ふと頭に感じたのは、引っかかり。それも、とても大きな。
こめかみを指でグリグリいじりながら、記憶を探ってみた。
それを察知したのか、が口を開く。
「…。あなたは、ルックと共にグリンヒルへ向かったはずです…。」
「あ!!」
ようやく、ずっと感じていた引っかかりの謎が解けた。
そうだ。自分は、グリンヒル攻略へと向かったはずだ。
そこで陣を敷き、部隊を整え、ようやく戦開始の合図が聞こえて・・・・
それから・・・・・・・・・それから?
「そうだ! 私、確かユーバーからルックを庇って…!」
「ユー…バー……?」
その言葉に、が僅かに反応を見せた。
気にはなったが、次に思い出した記憶が、スルスル口から滑り出る。
「そう…そうだよ!! 私、ルックに『眠りの風』をかけられて……!」
ようやく全部思い出し、二人に事の顛末を話した。それを神妙な面持ちで聞いていたのは、。
話が終わると、彼は言った。
「そのユーバーという男は………あなたの右手の紋章のことを……?」
「うん…。これで隠してるのに、その下に隠れてる紋章は何だ? って聞かれた。」
言いながら手袋を外して、その甲に光る『大地の紋章』を見せる。
それを見た彼は、暫し俯いていたが、やがて顔を上げた。
「ユーバーは……あの男は…。」
「あいつのこと、知ってるの?」
「はい…。あの男は、人間ではありません…。」
「……どういうこと?」
以前、もユーバーと対峙した際、人でない何かを感じてはいた。確かに、姿形は人間そのものではある。だが、あの異様な気配とオッドアイを見れば、人ではないとわかる。
あの男の持つ独特の気配の中に、”魔”すら感じていた。
「あの……男は………ッ!!」
途端、が僅かに出したのは、殺気。しかしすぐ我に返ったのか、それをしまい込もうと拳を震わせている。
と、それまで黙っていたが、口を開いた。
「恐らくルックは………きみの身の危険を感じて、こっちに返したんだろう。」
「私を? なんで…」
「今の話で、だいたい分かった。」
眉を寄せる彼女から身を離し、は、左手で彼女の右手を取った。直後、互いの甲が同時に淡い光を発したものの、共鳴を済ませている為か、疼きを発することはない。その光は、目の眩むものではなかったが、革手袋をした状態から漏れるほど、はっきりと存在を主張している。
手を離して彼女の革手袋を外せば、そこには、それまで隠されていたはずの創世の刻印がくっきりと姿を表している。
「ルックは……そのユーバーという男が、きみの持つ『これ』を狙っていると知ってたんだろ?」
「あっ…。」
「きみの話を聞いてる限りじゃ、ユーバーって奴は相当強い。ルックはルックで、今の力じゃきみを守り切れないと分かっていたんだ。だから彼は、きみにここへ戻れと命令した。」
「なんで…」
彼女が、眉を寄せた。その頭をゆっくりと撫でてやる。
「ルックは………きみを助けるために、ここに戻したんだ。」
「………。」
途端、彼女の肩が引き攣った。と思えば、徐々に震え出す。
「私…」
「。大丈夫だから、落ち着いて。」
「だから……だからあの子は、戻れって…!」
「。」
彼女を落ち着けるように、その肩をさする。しかし、それは何の意味も成さなかった。
彼女は、顔を上げると右手を掲げた。
「私、あの子を助けに…!」
「駄目だ。それは俺が許さない。」
「なっ、ちょっと、何すんの!?」
その腕を掴み、止めた。その意図を組むことなく、彼女が声を荒げる。
「。」
「、離して!」
「。よく聞いて。」
腕を解こうとする彼女を力ずくで座らせて、強い口調で言い放つ。それに少なからず彼女は動揺したようで、下唇を噛みながらも従った。
「いいかい? ルックは、きみを助けるために、きみをここに戻したんだ。それなのに、きみが戻ったら……どうなる?」
「……………。」
「彼の気持ちが、無駄になってしまう。彼の想いが、無駄になってしまう。」
「でも…」
「きみを大切に想っているからこそ………彼は、俺達にきみを託したんだ。」
それ以上、彼女が何か言うことはなかった。
彼の気持ちをくんでやれ。その言葉が彼女を傷つけていることは、自身、痛いほど分かっていた。それでも譲ることは出来ないのだ。
彼は、きっと自分の思った通りの『決意』を持って、彼女をここへ帰したのだろうから。
彼女は、震えていた。
「でも、あの子は、私にとって…」
「…………『家族』なんだろ?」
その言葉に、彼女は顔を上げた。途端、その瞳からは大粒の涙。
彼女の額に自分の額を押し付けて、その頬を両手で包み込むと、幼子に言い聞かせるように言った。
「きみは…一人じゃないんだ。分かっただろ? いや、分かってたはずだ。きみには、きみを愛し、大切に想ってくれている”家族”が残ってるんだ。」
額を離し、彼女を見つめる。
今、自分は、泣きそうな顔を彼女に見せているだろう。
それでも、言葉は止まらない。
「俺には、もう、きみしか残ってないけど…。でも、きみには……まだ家族がいるんだ。」
「っ……。」
「きみには、まだ………きみのことを愛してくれる人が、沢山いるんだ。」
彼女を抱きしめ、その背をゆるゆると擦ってやる。
「きみには、家族も友達もいる。」
「………。」
「ルックのこと………大切なきみの家族のことを、信じて待っててやろうよ。」
「っ…!!」
彼女は、その場に崩れ落ちて、泣き出した。
ごめん。何も出来なくて、ごめん。そう呟きながら・・・。
せめて大切な人を守れるだけの力があったならと、肩を震わせて泣いていた。
・・・・・ごめん。こんなことしか、きみにして上げられなくて。ごめん。
きみを抱きしめて、その背を撫でてやる事しか出来なくて、ごめん。
せめて、きみの愛する者を守りに行けたなら・・・・。
は、静かに目を閉じた。
そんな二人を見ていたは、ただ視線を伏せることしか出来なかった。