[風の主]



 部屋を出て、一目散に階段を駆け下りた。
 エレベーターを使っても良かったのだが、この時間帯は夕食時と重なるため、レストランを利用する客に占領されているはず。
 今は、それを待つ時間すらもったいない。

 出来るだけ早く階段を下りると、約束の石版がある広間に出た。そこを右に曲がり、訓練所や医務室に続く通路に入る。
 途中、訓練を終えたのか、数人の兵士達が、武器やら防具やらを手一杯に抱えてフラフラおぼつかない足取りで歩いているのを見かけたが、たぶんマイクロトフ隊の者だろう。彼にしごかれ過ぎて疲労困憊しているようだが、顔色は悪くはない。
 「飯どうする?」「俺スペアリブ!」「やっぱマヨカレーだろ。」と口々に言っていたが、足下に集中することも忘れていないようだ。
 もしここで自分が走り、ぶつかるようなことがあっては、彼等の手荷物が散乱することは目に見えている。夕食を楽しみに後片付けにいそしむ彼等の邪魔にならない程度に、速度を落とした。

 通路を抜けて走り出そうとすると、タキに声をかけられた。彼女は「風使いの坊やが、心配なんだね。」と柔らかく微笑んでいた。それに苦笑していると「早く行ってあげなさい。喜ぶわよ。」と背を押されたので「ありがとう。」と返事をしてまた走り出す。

 『”坊や”なんて言われたと知ったら、あいつ怒るだろうな』と笑いながら。






 医務室の扉をノックすると、「どうぞ。」という簡素な返答。どうやら、ホウアンは中にいるらしい。

 「先生、お邪魔します。」
 「おや、さんでしたか? お待ちしてましたよ。」
 「私を?」
 「えぇ。」

 話をしながら辺りを見回す。ベッドごとにカーテンで仕切りが設けられているようで、そこからは、傷が痛むのか苦しそうに呻く声や、痛みに耐えかねてか小さな嗚咽が聞こえる。
 そんな中、ホウアンがそっと耳打ちしてくる。

 「ルックさんでしょう?」
 「あ、はい。あの子は…?」
 「そちらのベッドに…。ですが、あまり機嫌は宜しくないようです。」
 「………どうも。」

 あえて先に教えておいた方が良い。そう考えたのだろう彼の気遣いに礼を返し、足音を忍ばせ目的のベッドへ向かった。鎮静剤を打たれて眠っているかもしれない兵を、極力起こさないように。

 示されたベッドの仕切りカーテンを軽く開けて、チラリと中を覗く。どうやら、ホウアンの言っていたことは間違いではないらしく、苛々顔で本を読んでいるルックの姿があった。
 彼は、自分に気付くと、分かるように顔を顰めて本を閉じる。なんとまぁ、本当にご機嫌麗しくないようだ。

 「……なに?」
 「あんたねぇ…。見舞いに来たのに、そんな言い方ないでしょ?」
 「見舞い? ……きみが?」
 「そうだよ。きみが? って…。あんたの中の私って、どんだけ冷血非道なわけ?」

 いつもの調子で始まった会話に、なんとなく安心する。だが、ふと彼の顔を目にして「あれ?」と口に出てしまった。彼の顔────正確には、その頭に包帯が巻かれていたのだ。
 よく見れば、額の辺りが少し盛り上がっており、薬草入りの湿布を貼っているようだ。その固定のために、包帯をグルグル巻きにしているのだろう。
 もちろん、彼がいつも身に付けていたサークレットは、どこを見ても無い。

 「…………。」
 「…………。」

 ついまじまじ見つめてしまったが、その視線を避けるように彼が顔を逸らす。もの凄く気まずそうな顔だ。無言の中、彼が『何も聞くな』と言っている。しかし、それは無理なお願いだ。
 だから、あえて無視して問うてみた。

 「ねぇ…。」
 「………。」
 「無視? あんた、私を無視すんの? それでいいの? 意味なくね?」
 「………。」
 「じゃあ単刀直入に聞くわ。いいね?」
 「………聞かなくていいよ。」
 「聞くに決まってんじゃん。んで、そのオデコ、どうしちゃったの?」
 「………うるさいよ。」

 悪態をつく彼の額を、じっと見つめる。どれほどの傷なのか知りたかったからだ。は、大した怪我ではないと言っていたが、このこんもり具合は明らかに大した怪我である。
 気になってその箇所に触れてみた。直後、声にならない悲鳴を上げて彼が身を引いた。
 ・・・なるほど。軽く触ってこの反応。これは、相当痛いに違いない。

 「ッーーっ!!!」
 「あー、ごめんごめん。大丈夫?」
 「きみ………なに、するんだよ……。」
 「いや、痛いのかなーって…。」
 「痛いに決まってるだろッ!!」
 「はいはい、ごめんってば!」

 よほど痛かったのだろう。涙目で抗議された為、降参のポーズをしてみせる。

 あれから、彼がどうしていたか知らない。
 自分を眠らせたあと、彼がどうしてこうなったのか知らなかった。だから聞きたかった。
 口を開きかけて、また閉じる。彼の瞳が『何も聞くな』と言っていたからだ。
 強くその場に留めるような、意思のある強い眼差し。問うことは許されない。

 だから・・・・・一言だけ伝えた。


 「ルック。」
 「……なに?」
 「あのね………………ありがとう。」
 「…………。」

 彼は、返事をしなかった。






 あの時。
 彼女を眠らせ、転移で本拠地へ送り、ユーバーと対峙したあの時。

 ルックは、死を覚悟していた。

 相手は人間などではなく、狂気と殺戮を糧としている悪魔。
 その悪魔と戦うためには、自分の『真なる風の紋章』の力が不可欠だった。
 しかし、その力を解放するには、自部隊の仲間達が余りにも近くに居過ぎたため、使用できない。下手をすれば彼等を巻き込み、その命までも奪ってしまうかもしれないからだ。
 それだけは、避けなければならなかった。

 だから、あの時。

 ユーバーが剣を振り下ろすと同時に、口早に魔法を発動させた。
 転移魔法を・・・・・。