[回想─傷─]
黒い悪魔が去ったあと。
ふと右目に違和感を感じ、思わず目を閉じた。どうやら異物か何かが混入したようだ。
しかし、それは、荒野を吹く風の運ぶ砂や埃ではない。どちらかといえば、水が入ったときのような違和感だった。
とりあえず異物を取り出そうと目を擦ってみる。だが、全くと言っていいほど”それ”が目から失せる気配はない。
・・・・・おかしい。そう思い、擦った手の甲を見てみた。そして驚く。
そこには、べったりと血が付着していた。どうやらこれが右目に侵入していたらしい。
先ほど、捨て台詞を残して逃げ帰った悪魔のものかと首をひねったが、生憎、あの男は血など持たぬだろう。そう結論付けて、それならこれはどこからなのかと、再度頭を働かせた。
服が汚れ、手についたそれを睨みつける。しかし、そんなことをしても時間の無駄にしかならないと分かっていたので、軽く舌打ちした。
直後、額にとんでもない激痛が走った。
「ッつ……!!?」
あまりの痛みに、思わず身体を仰け反らせた。気持ち悪い感覚に不快感を募らせて、目を瞑る。どうやら、血は自分のもので、それが額から流れて目に入ったらしい。
そういえば、と。風魔法を使った瞬間のことを、思い出した。自身を癒したあと、化身である風の竜は、悪魔に向かってその鋭利な牙を向けた。
その瞬間を、よくよく思い出してみる。あの時悪魔は、自分に向かって剣を振り下ろそうとはしていなかったか?
「あぁ……そっか…。」
それで納得する。
たぶんこの傷は、あの悪魔の振り下ろした剣の風圧によるものだ。だが、風圧だけでこれだけの手傷を負わせることが出来る男に、改めて冷たい汗が流れた。
同時に沸き上がったのは、その男と対峙して『勝てた』という安堵感。そして彼女を守れたという誇り、だろうか。
知らず、ホッと息をはいていた。あれだけの者と戦ってこの程度の傷で済んだのだから、自分は相当運が良い。命があるだけ、まだマシだ。
「……ん…?」
ふと視線を下げると、見慣れたサークレットが視界に入る。それは、自分がいつも身に付けていた代物だが、どうやら男の攻撃を受けた際、その風圧で壊れたらしい。血の出ている位置にあったはずの玉が、真っ二つに割れていた。
「まったく…………最悪だね……。」
サークレットとして機能しなくなった残骸から目を離し、額の痛みに歯を食いしばりながらゆっくり立ち上がる。そして目を閉じると、本拠地へ転移した。
傷は、骨まで達しているわけではないが、かなり深いのかもしれない。とりあえず風魔法で止血してみたが、血が止まっただけで傷は、ぱっくりと開いたままだ。これがまた空気に触れて痛い。
パーティーに入っている時に小さな傷を負うこともたまにあるが、普段は放っておく。だが今回のそれは、到底我慢できるものではなかった。故に、世話になりたくもない医務室に、もう一度転移する。
本来なら、まずは、勝手に戦を放棄して敵大将と共に消えてしまったことを、軍主なり軍師なりに謝罪へ行かなくてはならない。
しかしルックにとって、それはどうでも良い事だった。頭を下げる気など毛頭なかった。あの敵大将が消えたことで、同盟軍の『グリンヒル奪還』は、確実なものとなったのだから。
いや、それより何より、戦より譲れないものがあった。そうして得た結果がこの傷なのだが、責めを請け負う立場となっても、ルックは、心から満足していた。
・・・・・・彼女を守れたのだから。
気付かない。気付かないフリをしていた。彼女に抱えるこの想いを。
でも自分は、決して『それ』に気付いてはいけない。
それは、いつかの未来の為。その未来のため、この感情は妨げにしかならない。
そう、よく分かっていた。
でも・・・・・
本当は、分かっているけど。知ってしまったけど。
”愛する”という感情を。
でも、だからこそ、その感情に蓋をせざるをえなかった。
彼女を・・・・・・・・この世界の”先”を、守るために。
医務室の扉を叩き、返事も待たずに開くと、奥の机にはホウアンの姿。
彼は、目を合わすことなく、薬品や包帯などずらりと並べられた机でカルテを書きながら「少し待って下さいね。」と言ったので、ルックは、遠慮もせず診療用の椅子に腰を下ろした。
カルテの記入が終わったのか、彼がようやく顔を上げた。と同時に、自分が座っていたことに驚いたようで目を見開く。
戦に出ているはずなのに、と、その表情が物語っていたが、それを気にせず「これなんだけど…。」と額を見せた。患者は患者と切り替えたのか、ホウアンは一言「失礼しますね。」と述べてから、傷口に触れてきた。
「ッ…!!!」
「これは……かなり……。」
僅かに触れられただけなのだが、思わず声にならない悲鳴を上げた。すると彼は「あぁ、済みません。」と笑いながら、傷の具合を確かめた。笑い事じゃない。
しかし、処置が早かったのか、どうやら総じた出血量は少ないようだ。
「でも、血は、綺麗に止まっているようですね。」
「風魔法で…、ッ……止めたからね…。」
なるほどと呟き、納得したよう彼は頷いた。なまじ自分が魔術師で、普段からあまり怪我を負わないだけに、この傷の痛みがいかに苦なものなのか理解してくれたようだ。
「血を綺麗に拭いてから、傷口を縫合しましょう。」
「…縫合…だって…?」
「えぇ。でも、大丈夫ですよ。麻酔を使いますから。」
笑顔でそう言って、いそいそ棚から針や縫合用の糸を取り出す彼を見て、内心『冗談じゃない』と思った。別に、針が恐いわけではない。ただ縫合後、ガーゼで分厚い封印を施された挙句、包帯をぐるぐる巻きにされる、といった近い将来の不格好な自分を想像したのだ。
それを知ってか知らずか、彼は、さっそくとばかり麻酔入りの茶を差し出してくる。
「では、これを飲んで下さい。」
「……………。」
目の前に差し出された、怪しい色の液体。それを見て、らしくなく躊躇してしまう。
しかし、黙っていてもそれが蒸発して消え失せてくれることはない。『嫌だ』と視線で訴えてみるも、目の前の医師は、それを許すまじとばかりに柔らかく微笑んだ。
「……………。」
仕方なしに、観念してそれを飲んだ。・・・・気が遠くなるほど不味い。なんてことだ。味覚障害になりそうなほど、不味い代物だ。
・・・・これっきりだ。こんなの、二度と飲むか!
「はい。暫くすると、頭がふわふわしてくると思いますので、そちらのベッドに横になっていて下さい。」
軽い音を立てて開けられたカーテンの先に、ベッドがあった。言われるがまま、大人しく横たわる。しばらくすると、本当に頭がふわふわしてきた。ぼーっとして、何がなんだか分からなくなる。
麻酔薬といっても二通りあり、痺れるが意識の残るものと、単純に眠るものがある。どうやら自分が飲んだのは後者のようだ。働かなくなってきた頭で、そんなことを思った。
その内に、何か考えるのも億劫になった。目蓋が重くて、身体に力が入らない。
意識が、落ちていく。深く深く。まるで、水底へと落ちていくような。
『───…。』
誰かに呼ばれた気がした。
けれど、返事をすることも、そちらに目を向けることも出来なかった。
意識のない暗闇に、少しずつ飲み込まれていく。
とても深く、深く・・・・。