[ただいま]
『用がないなら帰れ』とは言ったものの、本当に帰られてしまうと手持ち無沙汰になった。
はっきり言って、何もせずにただ寝ているというのは、このカーテンで仕切られた空間にいる自分にとって酷以外の何ものでもない。
故に、ホウアンに頼んで適当な本を借りてきてもらい、それらに目を通して時間を潰していた。魔術書でないのがつまらないが、医学の本なら、多少暇つぶしにはなるだろう。幸い、あとどれぐらい居ればいいのか分からない、この『無駄な時間』を潰すには、分厚い本が救いだった。
ぱらぱら、と、それに目を通しながら、医学についての知識を得ておくのも良いかもしれないと思った。なにか有事の際に、役に立つかもしれない、と。
油断した彼女が、どこかで傷をこさえた時に・・・・。
「……………。」
それは、ふと湧いた考えだった。それを咄嗟に振り払い、常人では理解できない薬草やら専門用語の並べられた厚い本に目を通していく。
ルックは、本を読むのが早かった。
それは、彼の頭が、人並み外れて良く出来ているからだ。それに、外で体を動かすことより、部屋で知識を吸収するほうが、彼に合っていた。
魔術書は当たり前。手が空き、やることがないと、図書室へ足を運ぶこともある。
暇を見つけては、紋章術以外に、魔術師の塔に置いて無いような書物を読みあさっている内に、次々と知識が構築されていった。その中に、時たま、簡単な医学に関するものも含まれていた。
なので、特に誰かの解釈を頼ることなく、難しい単語の並ぶ文字列を目で追っていた。
そうして、ホウアンが本を持ってきてくれてから15分も経たない内、その1/4ほどを読み終えた。
なんだか本に目を通すことに飽きて、顔を上げた。しかし、それから15分20分と経っても彼女が姿を見せる気配がない。
もしかしたら、また何かあったのかもしれない。脳裏に一抹の不安が過る。しかし、あの男と一緒なら大丈夫だろう。そんな、認めたくもない安心感を抱いた自分に腹が立つ。
「…………。」
ムカつきを心の中で押し殺してから、本に視線を落とした。
その間、一度だけホウアンがカーテンから顔を覗かせたのだが、すぐに閉められた。
ルック自身、気付いていなかったかもしれないが、眉間に皺、唇は文字通り機嫌が悪いことを示し、目は文字を追っているのか曖昧だったからだ。
そうして、本を読み始めて45分ほど経った頃。
待ちわびた、とは、口が裂けても言いたくない相手が、顔を出したのだ。
それらの『回想』を一瞬で終えたルックは、目の前に座る女性を見つめた。
彼女は、俯き、何か悩んでいるのか唇を尖らせている。それは、『礼を言ったものの、それ以上の言葉が見つからない』と言っているようにも見えた。
それが何となく面白くなくて、つい、いつもの悪態をついてしまう。
「別に………きみのためにしたワケじゃないよ。」
「……そっか。」
暗に『あの男がいると、グリンヒル攻略が難しかった』と言ったつもりなのだが、どうやら彼女は、それすら白々しい嘘にしか感じられなかったようで、困ったように笑っている。
本当は、口実を与えようとしていただけだ。それなのに・・・・・いつもなら「素直じゃないなぁ!」と言って自分を小突いて来るはずの彼女に、覇気は見られなかった。
チクリ。胸が痛む。
『まただ……。』
この感覚に気付くようになって、どれぐらい経っただろう。そろそろ慣れればいいものを、それは、毎回痛みを増しながら自分を突いてくる。
嫌な感覚ではなかった。もどかしくは思うものの。
ふと、今の自分が言葉を欲していることに気付いて、それを口にした。
「言いたいことがあるなら………はっきり言いなよ。」
「……………。」
その言葉に、彼女が、ようやく顔を上げた。そして、諦めたように小さく笑う。
参った、と、その仕草が言っていた。
彼女は、ベッドに腰かけると、自分の首に腕を回して優しく抱き寄せた。
「ごめんね…。それと、ありがとう………。それと……」
「おかえり。」
たったそれだけの、一言。
それだけで、胸に刺さっていたはずの棘が、脆くも崩れ去っていく。代わりに沸き上がるのは、嬉しい、という感情。そして、それを取り巻くように肥大する『何か』。
『どうして、こんなに……。』
そう思ったが、答えなんて、この世界に一つしかない事も知っている。
それは、きっと・・・・・彼女だから。
彼女の言葉やその声が、自分を支配し、生かしている”理由”を一時だけでも頭の隅へ追いやってくれる。
彼女は、自分を待っていてくれた。
彼女は、自分を信じていてくれた。
彼女は、自分を想い、抱きしめてくれた。
他の誰でもなく・・・・・彼女だけ。
彼女だけがいれば、自分は満たされるのだ。
あぁ、やっぱり彼女だけは離したくないな、と思った。
彼女だけは、自分の運命に巻き込みたくないな、と思った。
純粋に。
しかし、やはりそれを認めたくない自分もいるわけで。
そう感じたのは、きっと思い出せない夢を見た所為だ。そう思い込んだ。
そうしなければならなかった。そうしなければ、先を望めない。望めなくなってしまうから。
この世界の行く末を・・・・・。
だからルックは、その背に腕を回して、そっと目を閉じた。
そして、彼女に聞こえるか聞こえないかの声で、小さく呟いた。
「……………………ただいま。」
彼女の元へ帰って来れたという安堵。待ってくれていたという喜び。
そして、いつか自分は踏み出すのだろう、未来を創るという見えない不安、恐怖、小さな勇気。
けれど、今は、それら全てを頭の中から消し去ってでも、彼女に触れていたかった。
指先や頬から伝わる体温が、この世界の何より尊いものだと、知ってしまったから・・・。