[たった一つの嘘]



 ルックと話し終えた後、することがなくて、彼の部屋を出た。
 それからは、帰ってきたばかりのに買い物に誘われたり、暇つぶしにとクラウスにチェスを挑んでこてんぱんに負かされたり、ついでにシエラに睨まれたり、ビクトール達と酒場に行ったり。あれこれ誘いを引き受けている内に、あっという間に夜になっていた。

 ほろ酔い気分で部屋に戻ると、いつもの「おかえり。」がないことに気付いた。
 途端、湧き上がったのは、不安。
 酔いが一気に冷めた。水の中で漂いフラリと溺れそうになっていた感覚が、急に地を踏みしめるそれに変わる。

 まさか・・・・!!

 自分の紋章の能力を思い出し、咄嗟に気配を探った。そのまさか、だった。
 彼は、ビッキーにでも頼んだのか、この地域どころか、この大陸から姿を消していた。なによりその気配は、この大陸よりもっと南───海を渡った別大陸から感じられる。
 慌てて棚から地図を取り出し、テーブルに広げた。

 ・・・・・ファレナの女王国。

 彼は、行ってしまった。自分を置いて、遠い遠いところへ。
 でも、仕方のないことだ。彼は、前もって居なくなることを自分に告げていたのだから。
 けれど・・・・・。

 『大丈夫。いきなり居なくなったりしない。』

 前に彼は、そう言っていた。
 「きみにだけは、嘘をつきたくないし。」と言ってくれた。
 笑って・・・・そう言ってたじゃないか。

 ふと、いつも彼と紅茶を嗜んでいたテーブルに目を向けた。そこには、一枚の紙切れが、目立たぬようひっそり置かれていた。
 僅かな灯りに照らしてみると、それには、たった一言。

 彼の字で。



 『泣かないで』



 「…………バカ。」

 思わず出た悪態は、自分でも笑いが込み上げるほど馬鹿正直なものだった。



 嘘つき。嘘つかないって自分で言ってたくせに。
 嘘つきは嫌いだ。

 でも、私はちゃんと分かってる。それが、あんたの優しさだって。
 ちゃんと・・・・・・分かってるよ。
 あんたは、人に涙を見せない分、涙を見せられることに弱かった。泣く姿をみられるのも嫌がったけど、人の涙を見て辛そうな顔をしてたの、今でも覚えてる。

 ・・・・知ってたよ。

 誰かを失う度、あんたが一人で泣いていたのを。私は、ちゃんと気付いてたんだよ。
 でもあんたは、それを絶対人に見せなかった。気付かれることすら嫌がった。
 強くて、いつでも上を見て、何を聞いても「大丈夫。」って笑って。
 だから、私も、あんたをただ見守った。あんたは、何も言わずに静かに笑っていた。

 それでも、一つだけ嬉しいことがあったよ。
 あんたの涙を見れた。あんたの不安や恐怖を、一緒に感じられた。
 やっとあんたを知れたと思った。という人間を。

 ・・・・でもね。あんたは、私に嘘をついた。
 泣かれるのが辛かったから、なんて言い訳、聞こえてきそう。
 でも、分かってるよね。 嘘は嘘。

 だから、少しぐらいなら・・・・・・・泣いても良いよね?

 嘘という小さな罪。それは、罪とも言えないものだけれど。
 でも、私もそれを共有してあげる。泣かないでいてあげる。
 そして、それに嘘をついてあげるよ。

 ねぇ、・・・・・。



 だから、私は、涙を流すよ。
 少しでも、きみの心が軽くなるように。少しでも、きみの心が前を向けるように。
 目を閉じて、笑って。傍にいてくれてありがとう、という気持ちを込めて。

 涙は流れ、記された言葉に零れる。その言葉は滲み、形状をなくす。
 灯りはそれを見届けて、黄金色に輝く光が、夜に慈しみを与えてくれる。
 それが慈愛に満ちるとは言わない。言えない。でもそれは、闇の中を漂う者への唯一の希望。救いという名の輝き。
 闇を彩るそれは、時に慰めを。そして心を洗うかのように、全てを涙で包み込む。

 でも、今は・・・・大丈夫。

 もう大丈夫だよ。

 だから・・・・・・・だからね、



 だから・・・・・・・・・”また”。