[囚われた暗闇の底で・12]



 それから、一ヶ月が経った。
 その間に、テッド達はハルモニアを脱し、フレマリアの国境近くにある街に来ていた。



 あの時、クヴィンに告げられた、彼女の紋章の『最も恐るべき”特性”』。
 だが、それを聞いても、テッドは何の気にもならなかった。

 彼女が、生きていたのだ。それだけで良かった。それだけで充分だった。
 彼女が生きていてくれれば、自分の傍にいてくれれば、それで・・・・。
 彼女が、『生きている』のだから。

 しかし、ここで新たな問題に直面した。彼女の額に宿された『ブラックルーン』を外せる者が、仲間内にいなかったのだ。
 すぐに近くの紋章屋を呼びつけ、何とか取り外せないかと言ったが、困ったように否と返されては、それ以上頼ることも出来ない。
 自分は魔術関連に疎いし、キリルも同じ。だが「誰か外せるような紋章師は知らないか?」とオルフェルやクヴィンに聞いても、返って来る答えは「そんな人物は思い当たらない…」だった。

 どうしようもなかった。どうにもならなかった。
 けれど・・・・・・彼女が生きていることが、自分にとって唯一の救いだった。








 それから数日経った、ある日のこと。
 彼女が、ようやく目を覚ました。
 だが、その額には、まだブラックルーンが宿されており、その意識は無いに等しい。

 意識を取り戻したはずなのに、忌々しいこの額の紋章のせいで、彼女の声が聞けない。その現実にテッドは思わず壁を殴りつけたが、そんな折り、自分を訪ねてきた者がいた。
 自分で言うのも何だが、わざわざ自分を訪ねてくるような友人や知り合いなど、いない。そもそも彼女の紋章ではないのだから、世界を渡り歩く自分の居場所を知る者などいるはずがないのだ。

 だが、自分を訪ねてきた人物を見て、驚いた。

 「うふふ……お久しぶりですね、テッドさん。」

 目の前で微笑む、妖艶な銀髪の美女。最後に会ったのは、確か・・・・・

 「お前は、確か…!」
 「ジーンです。うふふ……貴方は、お変わりないようですね。」

 静かに微笑みながら、『彼女』の傍に歩き出す女性。思わずその腕を掴んでいた。

 「なんで、お前がここに…!?」
 「……うふふ。『古い知り合い』に捕まって、頼まれちゃってね…。」

 その言葉に「あ、そういうことだね!」と笑ったのはクヴィンだ。彼が笑うということは、もしかして・・・・・フレマリアの王か?
 そのまま問うてみるも、紋章師は「さぁね…?」とその笑みを崩すことなくはぐらかす。

 過去、面識のあったこの女性。だが、その登場に驚いたのは、どうやら自分だけではないらしい。見ればキリルが「どうして、貴女が…?」と眉を寄せていた。
 しかし、この紋章師ならば、『彼女』に宿されているブラックルーンを外せるだろう。そう思ったので、問うことを止めて全てを託した。



 彼女は、あっという間にブラックルーンを取り外すと、それを手に「…これは、この世界にあってはならない物よ。」と言い残して、姿を消した。
 礼を言わせるでもなく、何か問うてくるわけでもなく、ただ一言その言葉だけを残して。

 そして、それから一刻もしない内に、彼女の意識が覚めた。

 それを見て、テッドは涙を流して喜んだ。
 彼女が居てくれる。彼女が自分を見てくれる。彼女が自分の名を呼んでくれる。
 それだけで、この世にある『幸福』と呼ばれるもの全てを得たような、そんな気持ちに満ちあふれた。

 そんな自分を目に彼女は驚いていたようだが、ふと困ったような顔で言った。
 ハルモニアの神官に連れ去られ、何も無い暗闇の中で、額に何かの紋章を宿されてからの記憶が一切無い、と。
 だがテッドは、話さなかった。オルフェルもキリルもクヴィンも、誰も何も話さなかった。

 ・・・・どうでもいい。過去の事など、もうどうでもいいのだ。
 今は、ただ・・・・・・自分の名を呼び、自分だけを見てくれれば、それで。

 だが、彼らを見た彼女は「誰? あんたの友達?」と笑っていたが、その笑みを見れるだけでも、心は喜びに満たされた。あぁ、彼女が笑ってくれるだけで、なんて幸福なのだろう。

 だから、彼女に言った。

 「…お前は……何も知らなくて良い。何も……思い出さなくていいんだ…。」

 また彼女を抱きしめられるという喜び。
 また彼女に抱きしめられるという喜び。

 残ったのは、成長したいなどという、そんなちっぽけな願いじゃない。
 この心に残ったのは、彼女が傍にいてくれるだけで良いという想い。
 そして、彼女の体に残された、致命傷ではない多くの傷跡ばかり。

 でも、それでも良かった。

 彼女と、また一緒に生きていけるのだから・・・・・・。






 夜が明けると同時に、「復讐は遂げた。」と言い去っていったオルフェルと、「僕も、もう行くよ。彼女が無事で本当に良かった。…またね。」と笑って去っていったキリル。
 その二人を見送ってから、テッドは、起きようとする彼女に「…まだ安静にしてろ。」と言い残して、隣の部屋にいるよと言ったクヴィンのもとへ向かった。

 ノックをして部屋に入ると、彼はムスッとした表情。それが気になったので、どうしたのかと問うと、彼は、不貞腐れたような顔を隠すことなく言った。

 「ヒクサクを、殺せなかったからさ。」
 「……あぁ。」

 聞けば、あの時の話だった。
 自分は気絶していたので分からなかったが、クヴィンの話だけを聞くと、自分たちの紋章は確かな”意思”を持ってヒクサクを攻撃したのだという。だが、どうしてか殺すまでには至らなかった。それに腹が立ってしょうがないのだ、と。
 原因は? と問えば、彼は、これまた忌々しい顔を隠すこともせずにポツリと言った。

 「……彼女の紋章だよ。」
 「の…?」
 「……きみは、本当に何も知らないんだね? 僕より長生きしてるんでしょ? はーあ!」

 しかし、本当に、この子供っぽい所というか無邪気な口調は変わらない。
 そう思っていると、彼はテーブルに突っ伏しながら、続けた。

 「この世界は、この世界に存在する紋章は、殆どが『秩序』と『混沌』側に別れてるでしょ?」
 「…は?」
 「あーもう! きみは、そんな簡単な知識すら知らないの!? もうちょっと、真なる紋章に関して調べた方が良いよ! きみも彼女も!」
 「………。」

 言い返せなかった。確かにそうだったからだ。自分は持っているくせに、『真なる紋章』に関して何も知らない。これまで、ハルモニアに行って調べようとも思わなかった。
 すると、彼が顔を上げて、ジロリと睨みつけてくる。

 「テッド。言っておくけど、僕は『彼女が囚われたのは、きみの所為じゃないよ』なんて優しいこと、言ってあげないからね! 僕は、きみのことを責めてるんだよ! きみの事も、彼女の事も!」
 「………あぁ。」

 彼女の紋章どころか、自分の紋章のことも知らない。知っているとすれば、『近しい者の魂を喰らう』という性質だけだ。そして、前に聞いた彼女の紋章の”特性”だけ・・・。

 「でも、あいつは悪くない。俺が『成長したい』なんて下らないこと、あいつに言ったから…」
 「あぁ、きみが悪いよ! でも、彼女だって悪いんだよ! 確かに、きみがそんな事を言わなければ、彼女がハルモニアに囚われることもなかったんだ。でも、彼女がハルモニアに行こうと言わなければ、そもそも、こんな大惨事にならずに済んだんだよ!」
 「っ……、だから、俺が全部悪いって言ってるだろッ!!!!!」

 自分が悪く言われるのは、構わない。それだけの事をしてしまったのだから。
 でも、彼女を悪く言われるのは我慢ならなかった。彼女は、自分のことを想ってハルモニアに行こうと言ってくれたのだから・・・。
 すると彼は、またも机に突っ伏して、言った。

 「あーあ! 本当に馬鹿だね、きみは! 友達がこんなに心配してるのに、それを無下にするようなことを平気で言う!」
 「………悪い。」

 彼が、自分を想ってそう言ってくれているのは分かっていた。けれど、彼女の事だけは悪く言わないで欲しかった。彼女がハルモニアに行こうと言った時、それを止めることが出来なかったのは、他でもない自分なのだから。

 「もう! まぁいいや! そもそも、僕がこうして怒ってるのは、さっきの話だよ!」
 「……あぁ。それで、紋章の殆どが『秩序』と『混沌』に別れてるって話の、その後は?」

 続きを促すと、彼は話し出した。

 自分と彼の持つ紋章は、いわゆる混沌側ということ。
 それが、秩序を代表する『円』を、確かな意思を持って攻撃したこと。
 けれど、一つだけ計算違いがあったのだ、と。

 「…計算違い?」
 「そうだよ。それが、彼女の紋章なんだよ!」

 彼女が持つ、創世の紋章。
 ヒクサクを攻撃する最中、彼は「創世の紋章の”意思”だけは、ヒクサクを『殺そう』とはしてなかったんだよ。」と言った。

 「どういうことだよ? まったく意味が…」
 「はぁ…分からなくていいよ。これは、たぶん……僕にしか分からないだろうからね。」
 「…?」
 「まぁ、要するに……彼女の紋章だけは、『殺す』んじゃなくて『逃げる為に円を足止めする』って”意思”を持ってたんだよ。」
 「……悪い。まったく分からない。」
 「あーもう! いいよ、もう! この話は、もう終わりッ!!」

 彼には悪いが、本当に意味が分からないのだ。
 紋章が『殺す』? 『逃げる為に足止めする』?
 唯一分かるとすれば、紋章の意思とやらだ。時折、自分の感情の制御がきかなくなった時に聞こえる、あの”声”のことだろう。

 けれど・・・・・・もういいか。
 彼女を取り戻せたんだから、もうこの話は・・・・終わりにしよう。

 そう考えていると、クヴィンが椅子から立ち上がった。

 「……テッド。ここで、きみに言っておきたいことがあるんだ。」
 「なんだよ? 改まって…。」

 自分から視線を外し、外に目を向けながら佇む少年。その横顔は、美しいとしか表現しようがない。

 「ここは、フレマリアとはいってもハルモニアに近い場所だ。危険が無いとは言い切れない。だから、違う国に飛ばしてあげる。ハルモニアの追っ手が届かないような、遠い遠い国に…。」
 「え、でも…」
 「きみ達を送ったら、僕はそのまま報告がてら、イライジャの所に戻るよ。」

 そう言って、彼が扉の前に歩いていく。
 どこへ行くんだと言いかけて、あぁ彼女を連れて来るのかと考え直し、開きかけた口を閉じた。

 「……それじゃあ、あいつに礼を言っておいてくれ。」
 「うん、分かった。あぁ、それと……」
 「ん?」
 「……飛ばした場所の近くには、村がある。そこには医者がいて、きみ達のある程度の事情はもう話してあるだろうから、そこから定期的に『鎮静剤』を貰った方が良いよ。」
 「え…?」

 振り返りながら彼が放った言葉。意味は分からなかったが、「今は、まだ分からないだろうけど……きっと必要になるからって、イライジャが言ってたよ。」と言われてしまっては、それ以上問えない。

 「それじゃあ、僕は、彼女を連れてくるから…少し待ってて。」

 そう言い、出ていった彼の表情は・・・・・何ともいえない哀しみを秘めていた。
 けれどテッドは、その意味を問うことが、どうしても出来なかった。