[結果への過程・5]



 ひやりとした空気が、体に纏わりついた。
 それは、少し肌寒い程度のものであったが、起きがけには軽く身を震わせるに充分だ。

 「…………?」

 部屋と思わしきその場所は、決して暗くはなかった。部屋中には松明が灯り、今いるこの場所がどこなのか、否応なく思い知らされる。
 寝床、とも呼べぬほど簡素かつ清潔感のない寝台は、その場所で寝ていたと思うだけで顔を顰めたくなるようなものだ。しかも、目の前でニヤニヤ下卑た笑いを見せる男がいるのなら、尚更。
 ハッとして、衣服や体に違和感がないか確認するが、どうやら、まだ先の言動のような事態とはなっていないようだ。今は、それだけが救いだった。

 しかし、だとしたら、これからか。
 そう思い、次に『どうやって逃げ出すか』『逃げる途中で少年をどうやって救うか』、『それ以前に、この部屋から逃げ出すにはどうすれば良いか』と考えた。しかし、今までこれほどの危機に面したことのない自分では、その問いに対して良い回答を出すことすら出来ない。
 焦りが募り、思考がうまく纏まらなかった。

 「やっと、目ぇ覚ましたみてぇだな?」
 「…………。」

 待ってましたとばかり、男がそう言う。その勝ち誇ったような笑みは、嫌らしいを通り越し、腹立たしささえ覚える。だが、それを口にしてしまったら、アウトだろう。先の言動以上の恐ろしいことが、自分の身に降り掛かるに違いない。
 故に、睨みつけてはみるものの、何も言えなかった。それに対し『分かってるじゃねぇか』とでも言いたげに、男が髪に手を滑らせてくる。

 気持ち悪い・・・・・やめて、触らないで。
 そう言いたくても、口に出せない。
 自分が置かれた状況が、いかに絶望的なものなのか、はっきり認識した。

 「まずは、その口からどうにかしてやろうと思ってたが……。」
 「…………。」
 「一人じゃ、何も出来ないみてぇだからなぁ! はは! たぁっぷり可愛がってやるぜ。」
 「………テッドは?」

 話を逸らそうと、口を開いた。しかし男は、拙い策を見通したのか、一言「牢にブチ込んである。」と締めくくる。そして、今一度ニヤリと笑うと、顎を強引にすくった。
 こんな男となんて、冗談じゃない!
 本能的にそう思い、必死に顔を離そうと、両手で男を引きはがそうとする。だが、力で適うはずもない。
 何故、縛られることなくただ寝かされていたのかと問えば、きっとこの男は「逃げられるわけがないだろうからな。」とでも言うのだろう。

 ・・・・・女というだけで、なめられている。力では適わないだろうと、馬鹿にされているのだ。お前一人では、何も出来ないだろう、と・・・・。
 なまじ、自分にその覚悟もない上に、真っ向から否定できない。
 思えば、守られてばかりだった。敵に止めを刺すのは、いつも彼だった。自分は、それに気付いていた。それでも、ずっとそれに甘えていた。

 少年が言っていた先の言葉が、鮮明に蘇る。

 『いざって時の為に、自分の身を守れるぐらいには………強くなってほしいんだ。』

 それが、今。今なのだ。
 しかし・・・・。
 殺したいと、思わない。殺してやりたいと思っていても、恐くて出来ない。
 腐りきった人間といえど、それでも命は命なのだ。

 ・・・・・違う。自分は、ただ恐いだけ。
 抗う為の武器も手元になく、唯一、身を守るための存在といえば、右手に宿る紋章のみ。しかし、この至近距離で発動すれば、自分にも害が加わる。そんなのは嫌だ。
 痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。辱められ、どこかへ売り飛ばされるのも・・・・。

 それよりも・・・・・・。

 『共に生きる』と誓いを立てた少年と、離ればなれになることが。

 「へっ! 大人しいじゃねぇか。まぁ良い子にしてりゃあ、優しくしてやらねぇでも……っ!?!!?」

 言い終わる前に、男が、股間を押さえて前のめりに倒れた。思いきり蹴り上げてやったのだ。いくら腕力の差があろうとも、心からの怒りが込められたその蹴りは、鍛え上げられた男でも、悶絶するしかない。

 「テッド、テッド!!!!!」
 「ぐぅッ……。くッそお、このアマぁッ!!!」

 無意識に感情が高ぶったのか、震える体を引きずりながら彼の名を叫び、寝台から下りようとした。しかし、相手もやられているばかりでなく、足首を捕らえられてしまう。そのまま寝台へ押し倒された。

 「っ、離して……………離せぇッ!!!!」
 「このクソアマがぁ!!!!」

 バシッ!!

 暴れて抵抗した。しかし、大きな手で思いきり頬を張られ、恐怖と痛みで体が動かなくなった。両腕を男の手でガッチリと押さえ付けられて、観念せざるを得なくなったのだ。
 口内に広がったのは、鉄の味。恐怖と痛みに震えつつも、気持ちだけは負けまいと歯を食いしばる。だが、己の無力にたいする絶望感から、目からは涙がこぼれる。

 悔しい・・・・・・・悔しい!!
 もっと、自分に力があったなら。大柄な男さえ片手でいなせるだけの力が、自分にあったなら。
 あの少年も、利き腕を負傷するなんてことは無かった。自分も、今のように苦渋を味わいながら涙を流すこともなかった。
 誰も殺さずに・・・・殺す恐怖すら感じることなく、戦えたかもしれないのに!!!

 「…………。」
 「ん? どうした? 怖くて、声も出せねぇか?」
 「……しょう………」
 「あぁん?」
 「…くしょう………ちくしょう…………ちくしょうッ!!!!!!!!」

 悔しくて、やり切れない。余りの自分の愚かさに、体の震えが止まらない。
 情けなくて、殺してやりたくて、でもそれが出来るはずがなくて。

 と・・・。

 「お頭!!!」
 「あぁ? 何だテメェら、騒々しいぞ!!!」

 部屋の前で見張りをしていたのか、手下と思われる男が、物凄い音をさせて扉を開けた。それを見とがめて、頭目が怒鳴りつける。
 だが『いったいなんだ?』と問う前に、手下は何も言わずに地に伏した。それを見た頭目の表情が、驚愕するそれに変わる。

 「お、おい!! いったいどうした!? 何があった!!」

 慌てて飛び起き手下を揺さぶるも、全く反応がない。
 それよりも、自分のおこぼれを今か今かと待っていたはずの手下達が、廊下で所々倒れているのだ。
 しかし、それは仕方のないことだった。何故なら、牢からこの部屋にかけていた筈の者達は・・・・・・・・全て、魂を抜き取られていたのだから。

 「な……何なんだよ、チクショウ! いったい、何が…!」



 「……………返せ。」



 手下を助け起こそうとしていると、頭上から降ってきた声。
 正確には、頭上でなく真正面から。
 男は、顔を上げた。

 痛む頬を押さえながら、寝台から下りたもそこへ目を向けた。だが、信じられないような者を見たように瞳を目一杯開く。その疑問は、無意識に言葉となった。

 「テッ……ド……?」

 だが、自分の声も届いていないのか、彼は頭目から視線を外さない。
 感じたのは、違和感。彼の纏う空気や存在感が、今までのそれとは明らかに異なっている。
 おぞましい程の気配。そして、意思の無いような、虚ろな瞳。

 「テッド……?」

 しかし、少年の目が『敵』から離されることはない。
 不意に、視界に入ってきたのは、赤黒い光。それは、一度だけ見た事がある光。
 彼の右手から発される、禍々しい『何か』。

 ──── さぁ、食らえ!! ────

 刹那、聞いたこともないような、”声”。
 それは、耳ではなく、頭に直接響いてきた。
 人では無いその声は、彼の全身に纏わりついている。それを見て、全身からどっと冷や汗が吹き出た。今の彼は、彼であって彼ではない。

 「テッ……」

 ふと、彼と目が合った。それが一瞬、本来彼の持つ色に戻る。
 その瞳が、僅かに揺れた。
 『助けて』と。本当の彼が、そう言っている気がした。

 ・・・・・・自分には、何が出来る?
 いつも守ってくれていた彼に、自分は・・・・・・。

 すると、彼の物とはまた別の”声”が響いた。



 ──── 助けてあげて… ────



 狙いを定めたのか、彼の紋章が、頭目めがけて光を放つ。
 食らおうと。奪おうと。

 しかし、それと同時。

 の右手の紋章も、また大きく輝いた。