[鳴かぬなら・4]
院長室から退室したあと、俺は、無意識に院の正門へと歩いていた。
ふと当たりを見回していると、授業が終わったのか、終了の鐘が鳴る。
何もすることがなくて、何となく森の方へと足を向けた。先の喧嘩で負った傷が痛んだが、こんなものは放っておいても治るし、治療を受けに保健室へ足を運ぶことすら億劫だった。
市内を大きく囲う、森の一角。そこへ入ったところで、後ろから声をかけられた。
、だった。
「……なんだよ。まだ、何かあるのか?」
「いや、別に? あんたが、そっちに行くのが見えたから、何となく追ってみただけ。」
「……付いて来るなよ。」
「あんた、やっぱり反抗期でしょ? まぁ、いいけど。……それより、さっきの喧嘩で負った怪我、見せて。」
笑いながら、彼女は俺に近づいた。
だが、人に触れられるのが嫌で、出された手を払おうと身をよじる。しかし、瞬時に痛みが走り、それが大した怪我ではないことを知った。先ほどまでは、本当に大したことではないと、そう思っていたのに・・・・。
痛みの余りに表情が歪んだが、それを見られたくなかった為、咄嗟に背を向けた。
すると彼女は、苦笑して、言った。
「ほら、少年。こっち向いて!」
「…………。」
「へー、無視ですか? そんなら力づくでいくけど……良いよね?」
「っ、出来るもんなら………ッ!!?」
ドッ!!
襟首を掴まれたと思ったら遠慮もなく張り倒され、思わず息が詰まった。
傷に思いきり響き、声も上げられない。
「ほら、痛いんじゃん。痛いんでしょー?」
「っ……。」
こいつ、どこまで乱暴なんだ。
腹が立って咄嗟に拳を振るうも、簡単にいなされてしまう。
「はっはっは! そんな怪我してたら、当たるものも当たらんよ、少年。」
「くっ……そ…………ガキガキうるせ……」
そう言いながらも、体を起こそうと腕と腹に力を込めた。だがそれを制止するように、彼女は、覆い被さるように腹の上に乗ってくる。痛いなんてもんじゃない。
「そんな偉そうな口は……そうだなー。紋章で、自分の傷治せるようになってからにしたら?」
「うるせぇ!! この、ババ…」
ゴッ!!
「………………。」
拳を食らうことはなかった。しかし、俺の顔側面スレスレには、彼女の拳。チラリと地面に視線を落とすと、そこには女が殴ったとはとても思えない、小さなクレーター。
その時の俺は、まともに声が出せなかった。恐ろしいという感情よりも先に、この女が何者であるか気になって仕方なかったからだ。
禁句というものが誰にでも存在するのだと、その時はじめて知った。
「ふふ、なんだって? 聞こえなかったよ、少年。」
「…………。」
「今の言葉がもう一回言えるか、試してみる?」
「………退けよ、重たいだろ。」
重い、はどうやら禁句ではなかったらしい。鼻を鳴らしながら彼女が退いた。
実際、言うほど重くはなかったが、傷の近くに座られていたので痛いものは痛かった。
すると彼女は、傷の治療をしようと服を捲ってきた。何が嬉しいのか「ほほっ! 眼福、眼福!」と笑いながら。
・・・・・・・変な女だ。
暴力的で、言葉遣いが悪くて、でも赤の他人を心配出来る優しさを持っていて。
だからかもしれない。何となく、話してみても良いかと思えたのは。
「なぁ、お前さ…」
「。」
「…?」
「さっきも言った。私の名前は、。同じことを何度も言わせんな。」
不機嫌そうに聞こえたが、どうやら本当に怒っているわけではないらしい。その証拠に、声とは裏腹に、表情が呆れたような色を帯びていたから。
その瞳の中に僅かに見えたのは、果たして・・・・・。
なんとなく、彼女になら、素直になれそうな気がした。
「……。」
「あ、なに?」
「あんたは、さ…。」
「おーい、おいおい! そこで女の人とイチャイチャしてんのは、学院きっての天才児くんじゃないかー?」
・・・・・嫌なタイミングだ。嫌なタイミングで、嫌な奴ら。
先ほど喧嘩していた奴らと仲の良い、別の面子。
こんな時になんて厄介な。彼女といる時に、なんて。
俺の拳をヒョイヒョイかわしてはいたが、相手が大人数ともなれば、そう簡単にもいかないだろう。だから、彼女だけでも逃がさなくてはいけない。そう考えた。
しかし・・・・・
「…ったく。しゃーねーなー。こんな所で、しかも超年下にナンパされるなんて。」
「って、おい、…」
「私って、罪な女ね!」
うふふ、と俺にウインクして、彼女が立ち上がる。奴らの相手をする気満々だ。
咄嗟にその腕を掴み、止めろと言う。しかし彼女は「…すぐに終わらせるから。」と笑った。
「おい、待てって…!」
「だーいじょうぶだってばー。あぁ、そうだ。あんた、目ぇ瞑っててくんない?」
「な、なに言って……」
「ガキをブン殴ってる、なんて大人げないところ見られたくないんだよ。そんな可愛い女心も分かんないわけ?」
「馬鹿、止めろ!お前だけでも、逃げ…」
「なーんでかなぁ? 私、こういう時って、大抵邪魔が入るんだよねぇ…。」
ま、それが私の”運命”か。
そう言いながら、彼女は、その細い指をバキボキと鳴らす。帯剣していたが、どうやら『子供相手だから』とそれを使う気はないらしい。
それを見たあいつらは、笑いながら「女を殴る気はないぞ。」とか、「そいつ置いてどっか行けよ。」とか言っている。
殺される・・・・ことは、無いだろう。
昔、自分の村で行われた惨劇を目の当たりにしているから、この平和になった時代で殺されることはないと、もちろん分かっている。でも、彼女が痛い思いをするのだけは分かるのだ。
自分は、どうでも良かった。痛くても、辛くても、苦しくても。それらを全て飲み込んで、その痛みに慣れていた、と・・・・・・・・それまで、ずっとそう思い込んでいた。
ケラケラと彼女を茶化す、同級生達。
まだ俺はやれる。そう思い、腹に力を入れて立ち上がろうとした。
すると、彼女の手がそれを阻止する。
「大丈夫だよ。だから、そこで大人しくしてな。」
そう言って、彼女は笑った。会って間もない、何の関係もない他人の俺に。
そして、言ってくれた。守ってやるからさ、と。
胸に・・・・・・チクリ。
「おいおい、俺達とやるつもり?」
「やめとけって! 流石に、部外者には手は出せねーよ!」
「女相手に大勢で勝ったって、面白くも何ともねーし!」
「……うるせぇな、クソガキ共。馬鹿面下げて大笑いすんのは、私に勝ってからにしな。」
途端、彼女の顔色が変わったことに、まず戦慄した。
身に感じたことのある『それ』は、過去に一度、感じたことのあるもの・・・・。
故郷を焼かれた時に感じた、あの『殺気』。
「おい、…!!」
「だーから、大丈夫だってば!」
彼女から放たれるものは、変わらない。けれどあの時とは違い、それに恐怖は感じなかった。それが向けられているのは、俺じゃない。
でも・・・・でも・・・・・
「ジン………目、瞑ってて。」
彼女の言う通りにした。きっと、戦う姿を見られたくはないのだろう。
だから、彼女の言葉通りに目を閉じた。
素直になれた。彼女のその言葉、一つ一つに。
目の前から聞こえてくる音に、殺意は感じられない。彼女は、殺してはいない。
けれど、と思った。
なぜ、彼女は、自分の名を知っているのだろう?
もしかしたら、知らない内に、自分は口にしていただろうか?
不思議と彼女の”声”だけが、胸に響いた。
その声は、義両親に呼ばれていた頃のように、優しく暖かかった。