[逃げ道・1]
夜になっていた。
首都ケピタ・イルシオから脱出できたは良いものの、目的地のラミへ到着する前に、は転移空間から投げ出された。咄嗟に受け身を取ろうと体を捻ったものの、犠牲となって打ち付けた右腕がジンジンと鋭い痛みを放っている。この程度の痛みは、別にどうという事もないのだが、最悪の事態を考えて額の盾紋章を使った。
だが、安定しない精神面が邪魔をしてか、痛みは鈍くなっただけで完治はしなかった。
「………くそッ。」
転移空間から投げ出された原因は、恐らくミルドの紋章だろう。城に結界が施されていたが、その規模が幻大国全体にまで広まったのだ。
転移が使えなくなったわけではない。恐らくこの結界は『真なる紋章』の場所を特定するためのものだ。それ故に、強制的に空間を生じさせると自分の居場所が、確実にバレる。
魔力で負けているわけではなかったが、ただでさえ『負荷』のかかっている現状と、折角逃げ出したのに『居場所を教えてやる』という事態を避けたかった為、結局ラミまで歩くことにした。
それにしても・・・・
一人で歩けば歩くほど、抑えていた感情や感覚が鮮明になっていく。
普段無理をしているわけではなかったが、こうもはっきりと捉えられるようになると、自分がいったい何だったのかと思えてくる。そう考えることに失笑してしまうのだが、旧知の彼に言わせれば、きっと「良い傾向じゃないか。」とでも言うのだろう。
「まぁ……悪くは………ないのかな…。」
零れたのは、自嘲的な笑み。だが、ふと視界が滲む。
・・・・・涙なんて、久しぶりに流した気がする。
なんとなく分かるような気がした。『あの頃』の感情が戻ってきているのだ。
しかし、それを取り戻してしまったら、またあの恐怖を味わうことになるのではと、胸を痛ませるものでしかなかった。
「。」
「……無事に首都から出られたようだね……良かった。」
ラミへ到着してさっそく宿へ向かうと、宿の前には見慣れた顔。ササライが、心配そうな顔をしながら待っていてくれた。自分を見つけるや否や駆け寄って来たが、極力声を抑えている。
その肩を軽く叩いて宿へ入り、酒場と化し賑わっている食堂を通り過ぎ、部屋を目指した。
「遅かったから、心配していたんだよ…。」
「……ごめん。ルシィは?」
「さっき、道具屋にお使いに出てもらったよ。」
「…そう。それなら、都合が良い。」
「え?」
「ササライ。あんたに、話しておかなきゃならない事がある。」
彼女の『話』が、何なのか分からなかった。だが予想は出来る。その表情を見れば良からぬことなのだろう。部屋に入っても彼女が寛ぐ様子はない。それもそうだろう。彼女の『懸念』が正しかったのだろうから。
水を一口飲んだ彼女は、ゆっくりと息をはいた。それを見て、珍しいような懐かしいような感覚にとらわれたが、何も言わずに言葉を待つ。
彼女は、静かに語り始めた。
『前皇帝イルシオ、そして現皇帝ミルドとは古い知り合いだった。彼女達が持つ紋章とそれぞれ”共鳴”していたが、イルシオ没後、紋章が一つになった事によって共鳴しなおさなくてはならない。今回皇宮に赴いた理由の一つが、その為だった。
しかし、会うための自分と彼女の『目的』が違っていた。理由は分からないが、彼女は”創世の紋章”を狙っていた。だから逃げてきた。』
話の途中だったが、ササライは疑問を持った。
それをぶつけてみる。
「逃げた? それじゃあ、共鳴はしなかったのかい?」
「……無理だよ。」
「どうして?」
そう問うと、彼女は長く息を吐き出す。相当疲れているのだろう。
「……所持者同意の上で共鳴させてくれれば、私に負担はかからない。でも、それが強制となると、紋章を長く宿している所持者は『抵抗』しようとするんだよ…。」
「それって……。」
思い出すのは、彼女を未だに苦しめ続けている『あの紋章』のこと。
「そう…。『円の紋章』と同じになる…。」
「そんな…!」
「……ただでさえ、円の抵抗を抑えるだけでも正直辛い…。今の私には、他の紋章に強制出来るだけの力が無いんだよ…。」
円の抵抗は、激しいものだ。その抵抗を何度か目にした事がある。
全身を震わせながら息をするのも苦しそうに右手を左手で庇い、必死に抵抗している彼女の姿。そして、その周りにかかるあの『重圧』。
ふと彼女の右腕に目がいった。そこには、擦りむいたような傷跡。
「その傷は、どうしたんだい?」
「……あぁ、これ? 実は…」
逃げる為に転移を使ったが、転移の最中、ミルドが国全体に『結界』を広げたため空間から投げ出された。下手に真なる紋章や空間移動の魔法を使えば居場所が彼女にばれてしまう為、使えなくなってしまった。
そう説明した彼女は、大した痛みを感じていないのか平然と答えた。だがササライは、その傷を見て胸を痛めた。すぐに額の流水紋章を使ってそれを癒し、傷跡を消していく。
「どうして、すぐに言ってくれなかったんだい?」
「………別に、大した傷じゃない。それに盾紋章で傷は塞いだから、あとは…」
「っ、そういう事を言っているんじゃないよ!」
「ササライ…?」
思わず声を荒げてしまったが、自分は悪くない。いくら強い”力”を持っていたとしても、彼女は女性だ。傷は痕の残らないように、出来る限り早く治療するのが望ましい。それなのに、彼女は「私は、痕になっても気にならないから…。」と、気持ちを無下にする。
だが、そこでふと気になった。彼女は『盾紋章を使って傷は塞いだ』と言っていた。盾紋章なら、あれぐらいの傷すぐに完治するはずだ。
それなのに・・・・
「。」
「…なに?」
「もしかして、きみ…」
「……あんたが気にする事じゃない。今日は色々あって疲れてるから、治りにくかっただけだよ…。」
「…………。」
・・・・嘘だ。
そうは思ったが、口に出すのは憚られた。彼女自身が『それ』を気にしているのだろうから。
だからササライは、話の続きを促すことにした。
「それで、ミルド皇帝の事なんだけど…。」
「……あいつは……ミルドは…………狂ってしまったのかもしれない…。」
「どういうことだい?」
どうして自分の紋章を狙うのかは分からないがそう結論するしかなかった、と、彼女はそう言った。
「あいつは……『イルシオは、生きている』と……そう言ったんだ………。」
「でもイルシオ皇帝は、4年前に……。」
「そうだよ。あいつは確かに死んだんだ。それなのに…。」
その死を受け止めることが出来なかったんだ、と。そう言った彼女は、そっと顔を伏せる。
「もしかしたら……ミルドは……」
「なんだい?」
「…………いや、何でもない。」
「言ってよ。僕はそんなに頼りないかい?」
「……違う……そういう意味じゃない。ただ…」
彼女が黙り込む。他にも懸念があるのだろうか。
だが、ミルドが彼女の紋章を狙っているのならば、選択肢は一つしかない。
「それなら、早々にこの国から出た方が良いよね。」
「…うん。でも……この国からは、暫く出られないかもしれない…。」
「どうしてだい?」
「………地図を貸して。」
言われた通りに地図を旅荷から取り出すと、テーブルに広げる。
それを指差しながら、彼女は言った。
「考えてみて。私たちが通過してきた『ヘルド城塞』へ戻るのは簡単だよ。確かに、フレマリアに入れれば安全になる。でもミルドのことだから、もう手配をしてるはず…。」
「…それじゃあ、スカイイーストに逃げるのは?」
「それも無理だよ。スカイイーストに行くにも、東の『レイド城塞』を通らなきゃいけない。」
「それじゃあ、このロズウェルって街は?」
「……確かにロズウェルは、港町だけど……ここに船が着くわけじゃない。海を渡ってこの国に入れるのは、この国の西方を守る『ヒギト城塞』と『ルプト城塞』なんだよ。この二つの城塞の検問をクリアしないと、逃げるにも逃げ出せない…。」
「そうなると厄介だね…。」
「…クシルの村に行っても良いけど……あそこだと、囲まれた時に逃げ場が無い…。」
「そうだね。この地図だと、荒野地帯を山が覆っているから…。」
地図を見て考える。すると彼女が水の入ったコップをくれた。礼を言って喉を潤す。
と、コップを置いてふと気付く。地図にある、とある一点。
「それじゃあ、この村の北方にある森は?」
「…………。」
彼女が、その一点を目にして黙り込んだ。
口元に手をあてているのは、思案している時の癖だ。
「『封じの森』か…。あの子はともかくとして……ササライ、あんたは苦労するよ。」
「苦労? どうして?」
「……この森の北端まで行けば、もしかしたら抜けられるかもしれない。でもこの奥にはシンダル遺跡があって、そこだと紋章が一切使えないんだよ。」
「紋章が…?」
「真なるそれも勿論だけど、五行やサポート紋章も、全ての効果が封じられるんだよ…。」
はっきり言い切る彼女に、違和感。
「きみは……この森に入ったことがあるのかい?」
「………大昔にね。すごく苦労した。」
それが、どれ程前の事なのかは分からない。彼女にとって近い過去なのか、それとも気の遠くなるような過去の話なのか。
彼女は相当疲れているのか、席を立つと窓を開けた。気候は穏やかで風はない。
僅かに出ているだろう月が照らす、その横顔。
それに暫し見とれていたが、ふと我に返り、続きを再開した。