[逃げ道・3]



 酒場に降りると、酷い有様だった。
 騒ぎの中心となっている場所は、皿が割れて料理が散乱し、酒の匂いが充満している。
 野次馬を分け入って騒ぎの中心へ向かうと、やはり中央には身内の少年。そしてその背に庇っているのは、10歳にも満たない少女。
 その少年と対峙しているのは、一目で兵士と分かる大柄で屈強そうな男たち。

 宿の女将の話を聞けば、どうやら少女が男とぶつかって因縁をつけられたのだそうだ。男は、少女では話にならないと『保護者』を出すよう命じた。だが生憎、少女は一人だったらしい。その騒ぎをちょうど見とがめたルシファーが、咄嗟に間に入って止めたのだという。
 少年とすれば、幼い少女に本気で怒りをぶつけている男に対し怒りが湧き、庇い立てしたのだろう。

 その心理を瞬時に理解したササライは、すぐに『自分が保護者だ』と前に出ようとした。
 だが、その前に、彼女が「私が保護者だ。」と一歩前に出た。
 少年は自分たちの登場に驚いたようだが、男は彼女を見て口元を歪める。

 「ほー…。ずいぶんとまぁ、若い保護者だな。」
 「……この子が、無礼な振る舞いをしたようで。私が代わってお詫びしよう。」
 「あ? それだけかよ?」

 『無礼』という言葉を使った彼女は、まず何か言おうとした少年を黙らせた。少年は納得いかない顔をして再度口を開こうとしたが、彼女の鋭い視線を受けて俯く。

 「詫びられただけじゃあ、はいそうですかとは言えねぇな。」
 「……そうか。それなら、どうすれば許して頂ける?」
 「そうだな…。俺の部屋で酌でもしてくれりゃあ、許してやらんこともないな!」



 「っ…!!」

 明らかに馬鹿にされた。尊敬し、大切な『家族』であり『母』である彼女を。
 ルシファーはそう感じた。そしてこの時、初めて頭に血が上った。普段からあまり怒ることはないが、これだけは許せないと思った。
 それを目にしていたササライも、同じくその瞳に怒りを燃え上がらせる。

 「このっ!!!」

 ルシファーが、棍槍を構えて兵士に飛びかかる。それを見たササライは、援護出来るようにと直ぐに詠唱を始めたが、何を思ったか彼女がそれを止めた。彼女は、少年と同じく滅多に怒ることのない自分を見て些か驚いた様子であったが、一言「…待って。」と言っただけだった。

 少年は、武器を持ち始めてそう長くない。いくら『師匠』から合格を貰っていたとしても、経験がモノを言うリアルな戦いにおいて、対人の場合は何の役にも立たないことを彼女は知っていた。怒りだけで勝てる戦いばかりではない。それを知っても良い頃合いだ、と。
 だから彼女は自分を止めて、少年と男をサシで戦わせたのだろう。だが、勝敗は分かりきっている。あの少年では、まだ勝てないと・・・。

 勝負は、すぐには決まらなかった。男も剣を抜き放ち、場は悲鳴や喝采が交じり合う。ササライの不安をよそに、彼女は黙ってそれを静観するのみ。
 ややあって、ルシファーの棍槍が弾き飛ばされた。カランという音を立ててそれが床に転がる。すぐに間に入ろうと動いたが、やはり彼女がそれを止めた。

 「…!」
 「…熱くならないで。これも、あの子の成長の一環と思えば良い。」
 「っ……。」

 はっきりとそう述べた彼女に、反論出来なかった。今回ばかりは特にそれを許さないと、彼女の瞳が強く言っていたからだ。

 時間が、急激に遅くなったような気がした。
 ルシファーに対して、男の剣が容赦なく振り下ろされる。
 だが、彼は諦めることなくそれをかわした。
 棍槍を拾おうと手を伸ばすも、男に鳩尾を蹴り上げられる。
 少年は、それを受けて気を失った。

 「ルシィ!!!」
 「おいおい、もう終わりかよ? ははっ! 所詮はガキだな!」

 気を失いぐったりした少年を抱き起こして、ササライは奥歯をギリと鳴らした。
 ・・・・・許せない。
 すぐにでも紋章を発動出来るよう口早に詠唱を終え、彼女の方へと目を向ける。だが彼女は、事の発端となった少女に耳打ちしていた。少女は涙目で彼女に何か伝えると、人混みに紛れて姿を消す。

 僕は、いつでも戦えるよ。そう視線で伝えると、彼女は静かな落ち着いた口調で言った。

 「ササライ。ルシィを連れて先に出て…。」
 「それなら、僕も…!!」
 「…三度は言わないよ。熱くならないで。常に冷静でいろって、に言われてなかった?」
 「っ…。」

 私が何とかするから、あんたはその子を連れて先に出ていろ。
 もう一度そう言われてしまえば、少年を背負って宿の外に出るしかなかった。






 「さて…………先の無礼も兼ねて、すべてお詫びしよう。」

 ササライが宿を出て行ったのを確認して、は男の前に立った。
 男は、それに下卑た笑みを浮かべている。

 「ほぉ……随分と、物わかりが良いじゃねぇか。」
 「そうだな…。」
 「それなら、さっそく…」

 そう言って差し出された手を軽く払う。男は眉を上げたが、気にする気もない。
 ・・・・我慢ならなかった。下卑た笑いに、醸す嫌らしい空気。気持ちが悪くてしょうがない。触れる事すらおぞましいのだ。

 ・・・・これは、何と言う感情だろう?
 そう思ったが、すぐにその考えを振り払い、男に静かに告げた。

 「ついでと言っては何だが……」
 「あ? もっとサービスしてくれるって事か?」

 下品に笑う男。その周りの男たちも、ニヤニヤと笑っている。
 ・・・気持ちが悪い。胸くそが悪い。吐き気がする。でも、この”感情”は・・・?
 だからかもしれない。久しく抱いていなかった『それ』が、ふつふつと沸き上がってきたのは。

 だから、男たちに薄く作ったような笑みを見せて、言った。

 「…………これから行う『更なる無礼』も、今の内に詫びておこうか。」
 「あ?」

 そう言った直後、一人の兵士が「あっ!」と声を上げた。男がそれに問う。

 「あ? なんだ? お前、この女のこと知って…」
 「この女……確か、首都で指名手配された『女』に、そっく……ぐあッ!!?」

 手下の兵士が言葉を終えることは無かった。真横から飛んできた強烈な回し蹴りによって壁に吹き飛ばされたからだ。
 それを放った女は平然と立ち、うすら笑っている。

 「おい……ほ、本当か!?」
 「な、なんでも…ミルド様から直々のお達しがあったとか……うあッ!!?」

 もう一人の手下が、今度は避ける間もなく殴り飛ばされる。

 「ふふ……………残念だったね。今さら気付いても、もう遅いよ…。」

 静かに冷やかに放たれたその言葉を聞いて、男の背に冷や汗が伝う。
 首都城内を騒がせた『女』の事は、あっという間に兵士たちの耳に届いた。精鋭が束になっても適わなかったと聞く。
 噂はあくまで噂だが、信憑性はある。現に目の前の女は、手下を次々に蹴り飛ばし殴り飛ばしながらも、汗一つかかずに涼しい顔をしているのだ。
 それを見た他の手下も恐怖したらしい。だが男は「囲め!!」と怒号を飛ばした。

 「……連れが待っているが………まぁいい。すぐに終わらせてやるよ…。」

 そう言って笑う女の瞳は、どこまでも透き通る『闇』を持っていた。