[混迷する意思]



 人々は、皇帝の聖誕を盛大に祝う。
 延々とメインストリートに連なる露店は、それを楽しませるかのように、ごった返す人の波で溢れ返っていた。

 は、ササライと共に装飾品店を出た後、祝いの言葉が飛び交う街中を流れるように歩いていた。ところが、ある一角を曲がった通りで、首都と呼ばれるにしては些か古ぼけた印象の宿屋に目が止めた。吸い込まれるように、そこに向かって足が動く。
 その少し後ろを歩き、賑わしい人の波を微笑ましげに見ていたササライは、その意思の無いような彼女の行動に首を傾げながらも、その背後を守るよう小走りに追いかけた。

 宿は、もう何十年も前に建てられたのだろう。木造で建築され、所々外装の剥がれを目にすれば、とても『由緒ある宿』とは言えない。どちらかと言えば、懐の寒い旅人向けだろう。
 薄い扉を開けようとノブに手をかけた。だが噛み合いが良くないのか、大抵の人間が『不快だ』と思うようなギギッ、という壊れかけの音を上げる。
 彼女は、それに僅かに眉を寄せた程度だったが、ササライは耳慣れない音に不快を感じ、盛大に顔を顰めた。

 中へ入り、扉を閉める。どこからかすきま風が入っているのか、僅かに空気が流れている。
 陽の灯りだけが照らす内部。辺りを見回せば、正面にはこざっぱりとした受付が。
 左は客室へ続いているのか、狭いなりにも掃除の行き届いた階段。そして右には、夜になると酒場と化すであろう三台程のテーブルに、4〜5人用の小さなカウンター席。

 「随分と狭いね…。」

 外観の割には、小綺麗にされている。だがやはり、敷地の狭さは隠せない。それを何の気なく一言で(悪意は、まったく無いのだろう)述べたササライ。育ちが育ちだと称される彼にとっては、確かにこの宿は狭く感じるのだろう。

 自身、確かに『狭いな』と、そう思った。
 実際、酒場の椅子の数を見ても、泊まり客を受け入れられるのは15人にも満たないだろう。だが、酒場のカウンターに慎ましやかに置かれている一輪挿しや、丁寧に並べられた『春』を思わせる絵画。きっとここの主人は、外見よりも中身を大切にするのだろう。
 この宿を気に入った。

 「……こういう所の方が……食事も人も、暖かいんだよ…。」

 苦笑しながらそう言うと、彼は「そんなものなのかい?」と首を傾げている。
 すると・・・・



 「いらっしゃいませ!」



 酒場の方へ目を向けていた彼女と、きょろきょろ辺りを見回している自分に、明るい声がかかった。パタンと扉を閉める音がした方を見れば、受付の奥から出て来たのか、青年が一人柔らかい笑みで立っている。
 見ただけだと30前後だろうか。緩いウェーブのかかった栗色の淡い髪に、それより少し濃い瞳の色。着ているものは質素だが、生地や全体感、そしてその見目の良さから『好青年』と呼ぶに相応しい。

 「お泊まりですか?」
 「あぁ…。三人なんだけど、空いてる…?」
 「はい。今日は、まだお客様がいらっしゃらないので、三人部屋は空いていますよ。」
 「…そう。それなら、その部屋でお願い…。」
 「ありがとうございます! では、三名様で、一泊300ポッチです。」

 ニコリと微笑む青年に金を払い、宿帳に簡単なサインをし、鍵を貰って階段を上がった。






 「。どうしたんだい?」
 「……?」

 部屋に入り、旅荷を適当な場所へ置いた途端ベッドへ突っ伏した彼女に、ササライは問うた。対する彼女は、いったいなにが『どうした?』のか理解できなかったようで、仰向けに転がっている。

 「ここへ来てから、ずっと様子が変だよ。」
 「……私が?」
 「うん…。」
 「……………。」

 黙りこくってしまった。しかし、何も言わないよりはマシだろうと考えて、続ける。

 「やっぱり、何か気になるのかい?」
 「…………。」
 「?」

 黙して語らず、視線を宙へ向ける彼女。共にした時間は決して長いとは言えないが、それでも、憂いのあるこの表情を目にしたのは、一度や二度ではない。
 だからこそ、確信を持って言えた。

 「嫌な予感でも、するのかい…?」
 「………うん。」
 「どんな?」
 「………言えない。どうしても、言葉が出て来ない…。」

 額に手を当てた彼女は、自分にとっての恩師である。
 言わず語らぬ姿は、あの国にいた頃から見てきた。その瞳に決して何か映そうとはせず、ただ淡々と『成すべきこと』を遂げようとしていた事も、もちろん知っている。
 でも彼女は、あの国にいた頃より少しだけ笑うようになった。話をしてくれるようになった。その心を、少しでも話してくれるようになった。
 でも・・・・・彼女にとって、自分が『何』であるのか。どのような存在なのかが分からなかった。聞く事が恐かった。彼女は、きっと答えてはくれないだろうから。
 でも、それでも。せめて、自分にぐらいはその憂うものの意味を教えて欲しかった。

 すると、彼女は、静かに問うてきた。

 「……彼らを見た時に………あんたは、何も感じなかった…?」
 「彼ら?」
 「…この宿の主人と……それに、さっきの装飾店の…」
 「パドゥメって言ったよね?」
 「そう…。彼も、彼女も……。確かに、この街に入ってから、なにか……どこかおかしいと思ってた…。続くように、彼らを見て………違和感というか…」
 「どんな違和感だい?」
 「それは……。」



 彼らを見て、まず頭に浮かんだ光景。
 目の前が光るような錯覚に陥り、目を開いているにも関わらず、一瞬思考だけがどこか別の・・・・・言うなれば、この世のものではないような『なにか』に引きずられ・・・。
 幾千、幾万の『瞬き輝きを発するもの』が・・・・・縦横無尽に、意識を明暗させた。

 そんな、感覚。

 でも、その一瞬だけ見えた『ヴィジョン』は、きっと誰にも伝えてはならない。
 心が、体が、そして右手に宿る紋章が、そうと言っている気がした。

 ・・・・だから口をつぐんだ。
 すると、彼もそれ以上問うてくることはなかった。






 「お出かけですか?」

 ササライに『少し用事があるから出て来る』と告げて、部屋を出た。階段を降りて外に続く扉に手をかけると、店内の掃除中だったのか、先ほどの青年が声をかけてくる。
 それに一つ頷いて、答えた。

 「少し、野暮用があってね…。だから、食事の時間は……さっきの子に伝えておいてくれる…?」
 「はい、分かりました。いってらっしゃいませ!」

 性格が穏やかなのだろう。そんな空気を醸す青年に軽く会釈をする。
 だが、やはりササライに言ったように、違和感が拭えない。
 それがピリ、と右手に走った瞬間、自然と問うていた。

 「…………名前は…?」
 「はい?」
 「名前、教えてもらえないかな…?」
 「あ、はい。僕は、セッカと言います。でも……」

 どうして名前を? そう問われる前に、「ありがとう…。」と礼を述べる。問う事を封じた自分の礼に、セッカと名乗った彼は、小さく頭を下げていた。
 それに口元だけで笑ってみせて、宿を後にした。

 この国の・・・・・今は亡き『英雄』の愛しい人だった、美しくも儚い運命を背負った女性に会いに行くために。