[小さな力]



 永久に感じていたはずの闇も、そろそろ明けに近くなる。
 とは言っても、空が白み始めるまでに、あと半刻はあるだろう。

 シャグレィに近い、街道を少し逸れた平原。
 夜霧に紛れるものが皆無なその場所で、バチッ、という何かが弾ける音が響いた。
 途端、そこはぐにゃりと歪み、いびつな空間を通っていたのだろう二つの影が無造作に放り出される。

 ドッ!!!

 「くっ!」
 「うっ…!」

 強制的に転移空間から弾き出された影は、受け身を取ることすら出来ずに地に投げ出され、小さな呻きを上げた。とレックナート。
 は、一瞬顔を歪めただけで直ぐに立ち上がることが出来たが、師はそうでもないらしい。先ほどミルドから受け止めた一撃が、相当体に負担をかけたのだろう。荒く小さな呼吸を繰り返し、立ち上がるのも辛そうだ。

 「レックナートさん、大丈夫ですか…?」
 「………えぇ。」

 膝をつき、華奢な師の肩に手をかける。
 だが彼女は、小さく返答したものの、顔を上げることすら出来ないようだった。

 「……肩を貸します…。」
 「…………。」

 ゆっくり彼女の腕を肩に回し、足に力を込める。
 だが、思っていた以上にその体は軽かった。元々食も線も細いとは思っていたが、自分の予想より、遥かに・・・・。

 「……なんで…?」
 「……?」

 問おうとして、ふと目頭が熱くなった。理由は・・・・言葉になってくれない。
 すると彼女は、顔を上げた。

 「今の貴女では………ミルドの力に抵抗出来ないと、分かっていたからです…。」
 「………。」

 自分の問いを、彼女はきちんと理解してくれていた。『なぜ、幻影でなく本体で現れたのか?』と。紋章は、幻影の状態では使えない。師という『本体』がその場にいなくては、紋章の力を使えないのだ。
 でも、彼女は分かっていたはず。不完全な紋章である『門』では、絶対にミルドに適わないと。それなのに、彼女は・・・・・・それでも自分を守ろうとしてくれたのか。

 「………ありがとう、ございます…。」

 月並みな言葉しか出せない自分に、歯痒さが残った。もしかしたら、命を落としていたかもしれないのに。執行者である前に、やはり彼女は”人”なのだ。
 唇が少しだけ震えた。けれど、夜の闇がそれを消してくれる。
 だからは、一つ涙を落とすと、すぐに奥歯を噛み締めた。



 ケピタ・イルシオでの爆発。
 その大きな力に巻き込まれ、数十名の兵士が命を落とした。
 それは、の”感情”の留め金が外れたゆえに起こった事故である。だが彼女は、彼女自身でそれを許すことはないだろう。その出来事を胸に刻みつけ、また終わらぬ心の闇を広げ続けるのだ。
 レックナートには、分かっていた。目は見えずとも、それを補うように培われてきた感覚。それは、自分に肩を貸してくれている彼女の心を明確に教えてくれる。
 『ルシファーたちの重荷になってしまう』と・・・・。

 闇を背負い、どこまでも広げ、その中から決して出ようとしない彼女。
 そんな彼女だからこそ、レックナートは言った。

 「…。」
 「……はい。」
 「この件を経ても尚、ミルドは、貴女を諦めることはないでしょう。違う手立てを考え、この先も、貴女を捕らえようと画策するはずです…。」
 「……でしょうね…。」

 空気が揺れる。俯いたのだろう。これから先のことだけでなく、友人をなんとか救う術はないかと考えているのだ。レックナートは、そんな彼女の想いを痛いほど分かっていた。
 そして、何より彼女自身を苦しめるのは、『制御の出来ない力』だということも。

 数年前、『円の紋章』を封じた彼女は、その膨大な力を100%使えなくなっていた。僅かばかりは使える余力があるものの。それは転移であり戦いであり。
 だが、紋章には”意思”がある。円は、抵抗することによって彼女を苦しませていた。円を抑える為にその力の大半を使うも、その抵抗は毎度激しいのだろう。時にそれは彼女の情緒を犯し、力のセーブすら崩そうとしている。
 それが、彼女が不定期に見せる『発作』であった。そしてあの皇座の間の爆発も、彼女の精神面の暴走故に起こった悲劇である。

 どれだけ・・・・・どれだけ苦しいことだろうか。
 師と弟子とはいえ、長い時を生きた者同士ではある。だが自分と違い、彼女は他の紋章からの苦しみを受けている。それも、彼女が生き続ける間中・・・・。
 どれだけ・・・・・・・この子は、戦わなくてはならないのか。



 「……………力を貸しましょう…。」
 「え…?」

 膨大な”力”をその体に秘めながらも、それをほんの僅かしか使えない弟子。それなのに彼女は、自分を肩に背負いながらも、額に付けた盾の紋章で体を癒してくれている。
 どこまでも優し過ぎる彼女に、レックナートは続けた。

 「『円』を封じる力を………私の紋章を使って…。」
 「っ駄目です! それに、あいつの抵抗は…!」
 「…良いのです。貴女の使ってくれた盾の紋章で、だいぶ回復しました。それにこれは………師として私が貴女に出来る、精一杯のことなのです…。」
 「レックナートさん…。」

 自分が彼女と『円の封印』を共有することで、彼女はミルドの結界に引っかかることなく、彼女だけなら転移を使えるようになるだろう。今の自分には、それぐらいの事しかしてやれないのが歯痒いが、干渉してはいけないのは、まさに自分のことなのだ。
 けれど、これで彼女が、その『重荷』から少しでも解放されてくれれば。言葉で伝えられなくとも、彼女がその意図を理解してくれなくても、どちらでも構わない。
 後悔も、罪滅ぼしも、感傷も、懺悔も・・・・。

 「さぁ……右手を…。」
 「………はい。」

 彼女の手の甲に、自分の右手を重ねる。
 重なり合った互いの右手からは、徐々に光が零れ始める。

 我がこの目に、その光を感じることは出来ずとも・・・・。






 「これで、貴女一人だけなら……転移を使えるようになるでしょう。」
 「………ありがとうございます。」

 師の突然の申し出に、驚かないわけがなかった。
 今まで、その殆どを下手に干渉することなく生きてきた彼女が、自分に貸してくれた”力”。
 だが、不意に不安が過る。追尾を阻止するとはいえ、師の言葉通り団体では使えないのだろう。想うのは、何も言葉を残さず置いてきた、我が子のこと。

 「。」
 「……はい。」
 「ルシファーのことを……考えているのですね?」
 「…………はい。」

 何も言わずに置いていくことなど、初めてのことだった。
 あの少年を不安にさせてしまうことに、不安になるのだ。

 「不安は、尽きることなく……また、心乱れることもあるでしょう。貴女の案ずる彼の少年は、まだ幼く、脆い…。ですが、それを乗り越える強さが………”絆”があります。」
 「……はい。」

 その言葉に、どうしてか少しだけ心がほぐれる。”運命”という言葉に頑だったこの心が、ほんの少しだけ・・・・。
 顔を上げれば、師が光を纏っていた。だが自分に力を貸すということは、相当な力を消耗するはず。移動空間から弾かれぬよう、あの塔に戻ることが出来るだろうか?
 その疑問に似た不安を察したのか、彼女は、僅かに微笑んだ。

 「私なら、大丈夫です。安心なさい。」
 「……はい。」

 ホッとした。だが、ホッとした自分に、違和感。
 自分は・・・・あの頃に戻ろうとしているのだろうか? 安堵を知っていた、あの頃のように。

 すると、姿を消す直前、師がポツリと言葉を残した。

 「。貴女は、──する力を………──を得ました。それは、偶然でも必然でもなく……流れに……、……────されたのです。だからこそ、今度は、貴女の想う通りに……”運命”を…。」



 朝日が顔を出し始めた。
 師の言葉は、己の胸に染み付いた。でも・・・・

 その言葉を全て聞き取れた者は、他に誰もいなかった。