[ヘルド城塞]



 ヘルド城塞には、大きな城下町がある。
 だが、すでにフレマリアが責めてくるという噂は広まっていたのか、街中は酷く慌ただしかった。しかし、それも数日すると落ち着いてきた。
 またも小競り合いで終わるだろうという気持ちもそうだが、今回の戦には、あの皇帝ミルドが参戦すると言われたからだ。

 しかし、その報を聞いたルシファーは慌てた。まさか皇帝自ら戦にやってくるとは思わなかったからだ。
 すぐにササライにどうするかと訪ねたが、彼は、と暫し何事か話し合った後「たぶん、大丈夫だよ。」と言って笑った。だが、ルシファーにとってみれば笑い話ではない。がお尋ね者になっているのだ。
 そう口にすれば、がササライの言葉を言い換えた。「絶対に大丈夫だよ…。」と。フレマリアと幻大国の境目(フレマリア国内のジャンベリー平原)で合戦となるだろうから、ヘルド城塞が落ちなければ皇帝はそのまま首都に帰還するだろうし、目立たなければ害はない、と。

 街人の噂によれば、フレマリア軍は、もう目と鼻の先まで迫っているという。戦が始まるのは、明日の正午辺りからだろうと。
 前ヘルド城塞守備者であった『ヘグラム=フラン』の後任の『J兄弟』は、若年であるが一軍を任されている。そして、ヘルド城塞の軍師は相当変わった人物であるが、その才は首都からも高い評価を受けているので、まず負けることはあるまい、と。

 その噂を耳に街を歩いていると、その『J兄弟とやらが、戦前の演説をする』という話を聞いた。ルシファーは、ササライとと共にその場所へ向かった。



 城塞から街へ続く途中の大広場に行くと、人でごった返していた。すでに話が始まっているようだ。ササライは、ルシファーに「迷子にならないように傍にいるんだよ。」と言って、城塞バルコニーから演説している人物に目を向けた。

 我らは負けない! と声を大に市民にそう言っているのは、薄茶の髪に背の高い20代後半と思われる青年。そして、その隣に立っているのは、同じ薄茶の小柄な少年。噂で耳にした『J兄弟』とは、彼等のことだろう。確か兄の方はニキータで、弟はクラマといったか。
 しかし、肝心の軍師の姿が見当たらないことに首を捻っていると、隣のが口を開いた。

 「…J兄弟だけ……みたいだね…。」
 「うん。噂の変人軍師っていうのは、見れないのかな?」

 すると話が終わったのか、J兄弟はバルコニーから姿を消した。それを期に、広場には歓声が上がる。
 と思えば、集まった市民全てが「ミルド様!!」と声を上げ始めた。それは次第にコールとなっていき、街中を埋め尽くすほどの歓声に支配された。
 しかし・・・・・・

 「……ミルド皇帝……出てこないみたいだね…。」
 「うん。首都からの兵士が到着してるんだから、姿を見せてもおかしくないはずなのに。」

 皇帝は、民たちの声に応えることはなく、姿を見せることもなかった。






 「ミルド様…。」

 ニキータ=Jは、バルコニーから中へ戻ると、すぐ目の前に立って微笑している人物に声をかけた。

 「ニキータ、ご苦労様。」

 そう言って自分を言葉だけで労う人物こそ、この国の皇帝であるはずなのに・・・。

 「皆は、ミルド様のお言葉を待っておられます。」
 「…あら? 必要ないわ。」
 「何故…」

 あの時から、彼女は変わってしまった。愛する伴侶を失った、あの時から・・・・。

 「私が声をかけたからと言って、いったい何になるのかしら?」
 「…負けるはずが無いと分かっているでしょうが、それでも、やはり民とて不安…」
 「うるさいわねぇ…。」
 「っ…。」

 にべもなくそう言った皇帝に、次の言葉が見つからない。隣を見れば、弟のクラマが唇を噛んでいる。

 「あぁ…それと、ニキータ。」
 「…はい。」
 「今回の戦は、私が陣頭に立って指揮をとるわ。」
 「ミルド様みずからですか? しかし、先日も申し上げた通り、この戦では…」
 「たまには、陣頭に立ちたい私の気持ちも察してちょうだい。」
 「…………。」

 目の前に立つ人物は、はたして前皇帝の愛したあの人だったのだろうか? あれだけ穏やかで優しさに溢れていたはずの彼女は、変わってしまった。その想いが強ければ強いほど・・・・・人は、これほどまでに変わってしまうのだ。

 「それと……軍師の坊やは?」
 「…それが、いつもの癖が出たようで、街へ…。」
 「そう…。まぁいいわ。私が出るのだから、策など必要ないでしょう。」
 「…確かに、我が軍の5000に対し、あちらは2000しか兵を率いておりません。ですが、これは、きっと何かの罠かと…」
 「そうねぇ。あっちも、私が出てくると分かれば、策を練るかもしれないわね。……でも安心してちょうだい。イライジャは、私が、ちゃあんと殺してあげるから。」
 「……はい。」

 その微笑みに見えるのは慈悲なき雪のような冷たさだけで、イルシオ生前の頃のような慈愛は微塵も感じられない。
 だが、皇帝の命令故、従う他なかった。

 少しずつ少しずつ、この国が、何か大きなものに飲まれていくのを感じながら・・・・。








 次の日の朝。
 陽が顔を出してすぐに、ルシファーは目が覚めた。おかしな事に、何故か眠くない。
 入国の際この城下町は通ったが、大して見物もせずに首都を目指してしまったため、それなら少し探索してみようかと考えた。
 ササライやを起こさぬよう身支度を整えて、そっと部屋を出る。
 まだ早朝ということもあってか、宿の中は誰の姿も見えない。まだ泊まり客も眠っている、そう考えて、忍び足を最大限に発揮して外に出た。



 「…………。」

 少年が出ていった後、そっと目を開け隣のベッドを見れば、ササライがすやすやと安らかな寝息を立てている。なるべく口に出さないように努めていたのだろうが、それでもこれだけ逃亡生活を送っているのだから、相当疲れは溜まっているのだろう。
 ならば、眠らせてやろう。そう考えて、は彼を起こさぬよう簡単に意身支度を整えると、そっと部屋を宿を後にした。







 朝の空気は、よく澄んでいた。
 この国は、とても穏やかな気候に囲まれており、今日は気温も高めなのか早朝といっても肌を震わせるものではない。
 時間が時間なために街にはまだ人影がなく、小鳥の挨拶以外は、夜の静寂さを残していた。

 その中をゆっくり歩きながら、ルシファーは辺りを見回した。
 ・・・・誰もいない。余りに人の気配がなさ過ぎて、その中に『自分一人だけ』という錯覚を伴う。まるで一人世界に見放されてしまったような、自分一人だけがその瞬間だけに存在しているような、そんな寂しさ。

 やっぱり、宿に戻ろうかな。
 そう考えて踵を返そうとしていると、横から声がかかった。

 「こんな早朝から、散歩か?」
 「…?」

 顔を上げれば、男性が一人立っている。アッシュブラウンの髪にバーントアンバーの瞳、首に変わったチョーカーやら何やらつけており、左右の前髪の長さが違う男だ。
 ルシファーは、まず『恐そうな人』という印象を持った。その目つきは鋭く、声をかけてきたのは向こうだというのに、ウザッたそうな顔をされたからだ。

 「あ、はい…。目が覚めちゃったんで…。」
 「……実に変わった子供だな。」
 「えっ、と…」

 手で口元を隠しながら、ジロリとまるで睨みつけるかのごとく自分を見つめる男。
 早々に話を終わらせて宿に戻った方が良いのかな。そう考えていると、男は言った。

 「……昼過ぎにも、ここで戦が始まることは?」
 「え?」
 「……知らないのか?」
 「あ、ごめんなさい。知ってます…。」

 無駄な会話はしたくないとでも言うように、淡々とした彼の言葉に臆してしまう。自分にとっては、苦手な部類となるのだろうその男。
 なんだか恐いので、早く宿に戻りたい。そう考えていると、男が一つ息をついて言った。

 「……旅の者なら、早々に立ち去ることだ。」
 「え…。」
 「………親はいるのか?」

 急にそんな事を聞いてきた男に、目を丸くしながら答える。

 「あ、はい…います。」
 「そうか。……負けることのない戦だが、もしもの時の為に、親と共に早くこの街から出た方が良いぞ。」
 「あの、えっと…その…。」
 「なんだ? 何か言いたいことがあるなら、はっきり言え。」
 「あ、いえ……ごめんなさい。なんでもありません…。」

 ピシャリと、まるで『お前の言葉を待っている時間も惜しい』とでも言いたげな言葉。
 やっぱり恐い人だ。そう思っていると、男は続けた。

 「………親からは、絶対にはぐれるなよ。」
 「…? あ、はい…。」

 その言葉を最後に、男は、踵を返すと静かに去って行った。



 「あぁ、恐かったぁ…! あんなに恐そうな人、初めて見た。…あ! 帰ったら、とササライに報告しなきゃ!」

 ポツリと呟かれた少年の言葉。
 気配を消して近場に身を潜めていたは、その言葉を聞いて、思わず吹き出した。