一章



[邂逅]


 は、迷っていた。
 迷うと言っても、それは大した事ではない。
 明らかに自分が先日まで住んでいた場所と違い、着る物やら言葉遣いやら、それら全てが自分の知らぬこの場所。それを形容するならば『世界』と言うべきか、はたまた『時代』と言うべきなのかを。

 自身、その答えが出ようが出まいが、どう形容しようが自分の勝手だと思っていたのでなんら問題はないが、そんなどうでも良い事を考えていなければ、また『どうしてこんな事に』とか『なんで私が』といった終わらぬ疑問に胸が押しつぶされてしまいそうだったからだ。
 故に、彼女自身でも下らないと一笑に伏してしまえるような考えを、頭で巡らせていたのだ。

 今の自分に丁度良い広さである部屋の壁に寄り掛かりながら、力を抜き、ぐったりともたれる。
 どう贔屓目に見ても、だらしないの一言だろう。
 そう自身で思いながらも、今居るこの部屋を、はとても気に入っていた。





 あの時「ここに居れば良い」と言ってくれた輝宗の言葉は、にとって、正に救いの手と呼べるものであった。
 明らかに変わり者といった格好をし、素性さえ明らかにしない小娘の頭を優しく撫でてくれた彼の言葉。

 今着ているものでは動くのに不便だろう、と連れて行かれた部屋には、数人の女達。
 そして彼は、何事か女達に伝えると、部屋を出て行った。
 女達はせっせと動きだし、やれ着物だ帯だと、時折に視線を向けながら取り出していた。
 着ていた服を脱がされ、あれよあれよという間に着物を着せられる。数人の女達に囲まれ、その手際良く着物を着せる早業には、も目を白黒させた。

 あっと言う間の着せ替え劇が終わり、女の「お待たせ致しました」という声に、外で待っていたのか輝宗が部屋へ入って来る。
 彼は、きょとんとしたを見て、にっこりと笑った。

 次に彼は、部屋を与えてくれた。
 それがまた広く、大人五人が大の字になっても寝起き出来る程だったので、「流石にこんな大きな部屋は…」と辞退すると、笑いながら小さめの部屋に案内してくれた。

 着物に部屋まで提供してくれる輝宗という人は、一体何者なのだろう。
 だが、その前に『私が何者だ』とが自分自身に突っ込みを入れてしまった為、口に出せなかった。
 「では、また後でな」と去ろうとする彼を、我に返ったは慌てて制止し、「恩を返したいので、せめて働かせて下さい」と願い出た。
 しかし輝宗は「心が落ち着いたらで構わん。また後でな」と笑い、部屋を出て行ってしまった。

 そして、話は冒頭へ戻る。





 あの時、輝宗は「また後で」と言っていたが、彼の「後で」とは、どれぐらいの時間なのだろう。後でと言っていたものの、あれから三日も過ぎている。
 形容問題に終止符は打たれず、一先ず保留としたのか、はまた違った問いを頭で解こうとしていた。

 しかし、やはり彼の事が気になる。せめて輝宗様はどうしているのか聞いてみようと考えて、立ち上がり襖を開いた。
 春だ春だと主張するように、今朝は冷たく感じていた風が、ほんのり暖かい。

 部屋を出て襖をしめようとした所で、ふと目に止まったのは”赤”。
 は、小さな笑みを浮かべると、縁側を降りてそれを見つめた。
 触れてみると、小さな赤が沢山集まり一つの花として形成しているそれは、ひらりゆらりと揺れる。

 何の花か、今度輝宗様に聞いてみようと考えていると、後ろから声がした。

 「様、お茶をお持ち……何をしていらっしゃるのです?」
 「あ、いえ。この花、なんて言うのかなぁって思って…。」
 「あらあら。私もそちらに参りますから、少々お待ち下さいね。」

 笑みをたたえ茶器を持って来たのは、女。名を南摘と言い『慣れるまでは、世話役が必要だろう』という事で、に付けられた女中である。
 南摘は、一度部屋へ茶器を置いてから、縁側へ戻って来た。彼女が下りて来るのを待ちながら、世話になり始めた翌日に『輝宗様から』と届けられた下駄をカコと鳴らす。

 「お待たせ致しました。」
 「いえ、大丈夫ですよ。それで、この花は何て言うんですか?」
 「あぁ、これは…」

 南摘が答えを紡ぐ前に、後ろからまたを呼ぶ声。
 振り返ると、そこには、三日ぶりに見る輝宗が笑っていた。

 「輝宗様!」
 「済まん、。ここの所、少しばかり忙しくてな。」

 輝宗は、駆け寄るの頭を撫でながら、遅くなったと詫びる。
 は「いえ…」と首を振ると、にこりと笑った。
 茶を持って来てくれた女中に礼を言うと、彼女は「それでは…」と一つ礼をして戻って行った。





 輝宗が来てくれた事が、は、なにより嬉しかった。
 出会って間もないのに、自分に笑みを向け世話をしてくれる恩人。
 自分は、彼に一体何が返せるのだろう? 冷静さを取り戻した後に、そう考えていた。

 南摘は、輝宗が来たと知ると、すぐに追加で茶を運んでくれた。
 「失礼致しました」と言い、彼女が出て行った後は、おかしな事に茶を啜る音だけが響く。

 「あの、輝宗様。」
 「ん、おぉどうした?」

 おかしな沈黙にいたたまれなくなったのか、は、先程の考えを伝える。

 「私に、なにか出来る事はないですか?」
 「出来る事?」
 「はい。何から何までお世話して頂いて…。恩返しがしたいんです。」
 「恩返し……か。」

 ふむ、と、輝宗は、唸りながら顎に手を当てる。
 世話になったのだから恩を返すのが当たり前、とばかりにじっと自分を見つめるの瞳は、真剣そのものだ。

 「何でもやります! 掃除でも、洗濯でも、皿洗いでも!」
 「ふむ。だが生憎、女中は充分足りているのだ。」
 「そこを何とか!恩返しさせて下さい!」
 「……。」

 なぜこれほど熱心に『恩』にこだわるのかと輝宗は思ったが、は『それを返すまでは譲らない!』と言うように、必死に頼み込んで来る。
 そんな少女を見て、輝宗は、やはり変わっているなと思った。

 これぐらいの歳の娘子にしては、些か表情や仕草が大人びている。それは、言動や行動だけと限定するものではなく、強いて言うなら雰囲気もあるだろう。
 顔や体つきの割には、放つ言葉の強さというか、それが見た年齢よりもずっと上に見えるのだ。
 着ている物、身に付けている物まで、何もかも変わっていると思っていた。勿論、そこに警戒心を抱かねばならないだろうことも。
 しかし成る程、少し話しただけ明るいと分かるし、性格もしっかりしている。

 輝宗は、彼女を拾い面倒を見ると決めた時から、ずっと思案していた事があった。それならばと、恩返しを連呼する少女に微笑みながら、一つ提案をした。

 「ならば、よ……子供の世話は出来るか?」

 ぱちくりと目を瞬かせた少女が可愛らしくて、輝宗は、満面の笑みを浮かべた。





 目的地までの廊下を、は、考えを巡らせながら歩を進めていた。
 まさか、自分が子供の世話をする事になるとは、思っていなかったからだ。
 輝宗が「部屋まで案内しよう」と前を歩き、自分はその後ろに付いく。

 世話を出来るか? と聞かれた時。
 は、『子供』と聞いて、一瞬躊躇した。
 別に子供が嫌いとか、苦手とかいうものではない。ただ接し方が分からず、まして躾とか、そういった類のものを親になった事のない自分に出来るのかと不安になったからだ。

 一応不安を吐露してみたものの、輝宗はゆっくりと首を振り「無理だと思えばそれで構わない」と言った。
 根強く恩返しを連呼したにも関わらず、子供と聞いただけで不安を覚えた自分に嫌気を覚え、は応と返した。
 だが、先程までにこやかだった恩人は、『子供』の話になった途端、その顔に影を落とした。

 輝宗は、まずそれが自分の嫡子だと前置きして、話し始めた。
 なんでも病を患ってから鬱ぎがちになり、終いには、人に会う事すら拒むようになったという。
 それは何故かとは聞いたが、彼は、視線を畳みに落として只一言「…会えば分かる」と言っただけだった。

 もうすぐだ、と言われて我に帰る。
 気兼ねしているわけではなく、相手が恩人である輝宗の息子だからと緊張しているわけでもない。
 どうしてか、その部屋に近付くにつれて不思議な感覚に捕われたのだ。
 それがどういった類のものかは分からない。
 だが、初めて体感するにも関わらず、心震えるようなそれは、懐かしいと形容するのが近いように思えた。

 「梵天丸、居るか?」

 自分の部屋から然程距離がなかったと気付いたのは、輝宗が、とある部屋の前で足を止め、その中にいるだろう者へと声をかけてからだった。
 不可解な感覚をなんとか消し去り、は、それまでの想いを振り払うよう首を振る。
 輝宗が声をかけた部屋からは、何の反応も返っては来なかった。

 すると今し方、自分達が歩いて来た場所から「輝宗様?」と声がかかった。目を向けると、そこに立っていたのは、二十歳前後の女性。手に持つ盆には、茶と菓子が乗せてある。

 「おぉ、於喜多か。」
 「輝宗様、如何なさいましたか?」

 女性の名は於喜多(おきた)というらしい。
 が、二人の会話をじっと聞いていると、輝宗に頭を撫でられた。

 「於喜多よ。この娘が、だ。」
 「まぁ! では、この子が例の…。随分と大きな娘ですこと。」
 「です。初めまして。」

 例の、という部分に引っ掛かりを感じたが、なんとなく意味合いが分かってしまったので、そこは何も言わずに挨拶をする。
 大きな、というのは、確かに彼女より自分の方が上背があり体格もしっかりしていた為、あえて流した。
 於喜多もにっこりと笑い、初めましてと笑っている。
 は、顔を上げて、まじまじと於喜多の顔を見つめた。

 肌は、透き通るように白いが、病弱という印象は全くなく、むしろその白さの中ではっきりと伺える健康美に、まず羨ましさを覚えた。
 桃と白の入り交じる着物が、艶やかな黒髪に良く栄え、柔らかな印象を感じさせるが、目には、意志というか芯の強さが感じられる。
 どこを取っても、同じ女として羨む程の美女だと思った。

 「ところで、喜多よ。梵天丸が居らんようだが…。」
 「ま。そんなはずはございません。」

 輝宗の言葉に於喜多はそう言うと、襖の前で膝を折り、持っていた盆を床に下ろした。
 すると、声をかけようと彼女が息を吸った所で、中から小さな衣擦れの音。続けて襖が、僅かに開かれる。

 しかし、於喜多の後ろに輝宗が居たため、更にその後ろに付いていたには、話題の主の姿が見えなかった。
 つま先立ってみても、輝宗より小さな自分では、伺えないだろう。
 ならば御姿を拝見させて頂くまで待ってみようとじっとしていると、幼い少年の声が聞こえた。

 「……父上。」
 「おぉ、梵天丸。居ったのなら、早く出て来れば良いものを。」
 「……申し訳…ありません。」

 父親に謝罪する小さな呟き声を聞いて、が最初に覚えたのは、違和感だった。ぽつりぽつりと聞こえる幼い声は、下を向いて話しているのか、くぐもって聞こえる。
 決して顔を上げる事はせず、何かに怯えているようなその声は、ただ内気という言葉では足りない気がした。
 何なのだろうと考えてみても、輝宗や於喜多が前にいるため、肝心の嫡子の姿が見えない。それでは全く意味がない。

 先に輝宗が言っていた、『会えば分かる』という言葉の意味。
 怯え、哀しみを滲ませる少年の声。
 そして、その姿を一目見た瞬間に、それらが示していた理由を、はようやっと知る事となる。





 「…。どうであった?」

 嫡子との対面後、は、輝宗に連れられ彼の部屋へ行った。
 正面に座る恩人は、暫し間を空けて問うて来るが、は、それに答えるだけの言葉を持ち合わせていなかった。

 「………。」

 あの時、自分が一瞬目を見張った事だけは、よく覚えている。
 何故なら、これから先、自分が仕える事になるであろう少年の右目には、眼帯が巻かれていたからだ。
 いやそれよりも、少年は言葉を紡ぐ所か、と終始目を合わせる事すらしなかった。挨拶をし、名を名乗った後も俯き、を見る事すらなかった。

 病を患ったと聞いてはいたが、それがどういったものなのかは、分からない。だが、それこそが、接する事に怯え、人を拒む要因になったのだろうと考えた。
 それに確証があるわけではない。答えは、目の前の人物が知っている。そう考え、じっと輝宗を見つめた。
 彼は、視線を僅かに揺らすと、口を開いた。

 「あれは、一年前であった…。」

 彼にとっても、その心に傷を残す出来事だったのだろう。
 その記憶を呼び起こす表情は、とても辛そうだった。

 一年前。
 梵天丸は、疱瘡を患い、その毒にやられて右の目を失明した。
 それにつれ、母である義姫はその容貌を嫌い、弟の竺丸を溺愛するようになった。疱瘡は、梵天丸から右の視力を奪っただけでなく、母の愛をも遠ざけた。
 元来、あれは、内気で人前に出る事が苦手ではあったが、病の後…それに輪がかかった。

 目を閉じ、ゆっくりと、一つ一つの出来事を思い出すよう紡がれる輝宗の言葉を、は静かに聞いていた。
 言の葉が胸を締め付け、目尻を熱くさせる。

 病による失明と、さらには、容姿の変貌により失った、母の愛。
 あの少年は、その出来事でどれだけ傷ついたのだろう。

 次に、片目をなくしただけで何故? と、目通りした事もない少年の母親に怒りが湧いた。
 しかし、『たったそれだけの事で』と言ってはいけない事も分かっていた。自分は、両の目が見えている。あの少年の傷や想いを、根底から理解してやることは出来ないし、なにより当事者ではない。
 あくまで外側の人間なのだと分かっているからだ。

 「…………」

 怒りは、少年の母親にだけ向けられたのではなかった。
 自分に対しても、そうだった。
 たかが片目されど片目と思い、それによって周りがどういった影響を受けるか考えもせず。
 当事者ではないから、と思ってしまった自分の思考に、酷く嫌悪感を抱いた。

 少年の心を思い、などと自分に言う資格などない。
 同情や哀れみといった感情は、その人間に対する侮辱にしかならない。それも重々理解していた。

 「……。」
 「私は…」

 ならば自分には、何が出来るのだろう?
 少年の目を元通りにしてやる事など出来るはずがなく、また、少年に教授してやれるような学を持ち合わせているわけでもない。
 目に見えぬ不安が確かにあった。

 でも……

 「。無理だと思うのなら、それで構わない。」
 「いいえ。」

 はっきりと通る声で、それを否定した。

 始める前から終わりを見定めてしまう、自分の嫌な性格。
 そんなものはとっぱらってしまえと常々思っていたが、結局出来ないままだった。
 でも、今なら……今なら”それ”が出来る気がすると同時に、変わるなら今しかないとも思えた。
 結果は、後から付いて来る。ならば、自分が出来うる限りの事を、精一杯やれば良いだけだ。

 「………。」

 あの少年に、自分が何をしてやれるかは、まだ分からない。
 けれど、それで諦め終わりにしてはならない。
 ”縁”と呼ばれるものが確かなのかどうか、自分には分からない。
 でも……今にも泣き出しそうなあの顔、頑なに閉ざされた、あの心。

 「そのお話、お引き受け致します。」

 何が出来るかなんて、その時その時になってから考えれば良い。
 今は、ただあの少年の側に居たいと、一心に思ってしまったから。





 我発たん 共に殻を打ち破らんが為