一章
[刻時雨]
輝宗に拾われてから、幾日経ったのか。
異端である自分にとって、『初めて』が、其所此所にちりばめられている、この世界。
その中で全く変わらないのは、刻一刻と過ぎて行く時間か。
何ごとも、新しいと言われるものに着手している間は、それが驚きや楽しさばかりであると、どれだけの時が過ぎたのか忘れてしまう。
反対に、つまらなかったり辛かったりと心を憂鬱にさせる事ばかりであると、逆に時が経つのが遅いものだ。
の場合は、前者でもあり、また後者でもあった。
側仕えになる前に、まずは一通りの礼儀を習うのか?と、細かい作法云々を苦手とするの懸念は、「は作法なぞ覚えぬとも良い」という、主である輝宗の異例の言葉で却下された。
有り難いと思う反面、何を考えているのかと首を傾げるに対し、於喜多は、何か思う所があったのか、にこりと笑って「畏まりました」と頭を垂れた。
そうこうして、輝宗の嫡子である梵天丸の側仕えになってから、数日。
この僅かな日数で、は、如何に自分が無力であるか痛感した。
「頑張ってはいるものの…上手くいかないなぁ。」
「あら、じゃない。どうしたの? そんな所に座り込んで。」
「あ、於喜多さん…。」
梵天丸の部屋の外の縁側に座り、柱に寄り掛かりながら項垂れて表情を暗くしているを可笑しく思ったのか、茶を盆に乗せやって来た於喜多が、小さく笑いながら問うた。
「於喜多さん、なんか上手くいかないんです。」
「上手くって、何が?」
「私って、どうしてこうダメダメなんだろうなぁ…。」
「駄目って…あぁ、梵天丸様の事ね?」
「…はい。」
輝宗から紹介され、側仕えとして働く事になったが、翌日、気合い十分で嫡子殿の部屋へ行ったにも関わらず、見るも無惨、結果は目も当てられなかった。
笑みをたたえて部屋に入ったは良いが、何を話したら良いか分からず終止沈黙。様子を伺いに、茶を運んで来た於喜多が息苦しくなるほど、会話といったものが一切なかった。
そして先日同様、梵天丸は、何とかして話題を振り会話を成立させようとするの話に耳を傾ける事はせずに俯き、視界に入れようとすらしなかった。
そっぽを向き、小さな背中で目一杯拒絶する梵天丸に冷や汗をだらだら流している内に、梵天丸は閨へ閉じこもってしまった。
時間にすると、半刻すら経っていない。
それは、今日も変わらず。結果として、全戦全敗だった。
最初から上手く行くとは思っていなかったが、あそこまで拒絶されると中々に痛いし悲しい。例外無く、今回も梵天丸に閨へ閉じこもられてしまった為、こうして縁側で自問自答していたのだ。
「でも、仕方ないと言えば、仕方ない事なのかもしれないわね。」
「…どうしてですか?」
「私達は、梵天丸様の心の痛みは予想出来ても…、それを根底から理解して分かち合ってさしあげる事は、出来ないでしょう?」
「悲しい事だけど」と、付け足す於喜多の言葉に、この女性も自分と同じ事を考えていたのだと思った。
やはりどんなに予想しても、それはあくまで『予想』。
それは、結局『こういう気持ちなのかな? そうなのかな?』という事でしかなくて、本人の心の傷を反映するまでにはならない。
自分と実年齢が近いだけあり、目の前の女性は、包むような優しさを持ちながらも冷静に物事を見ている。
けれど、それでもは、その考えに甘んじたくなかった。
「確かに、その通りかもしれないです。でも、私は…」
「えぇ。が言いたい事。私は、ちゃんと分かってるわ。」
「…はい。」
の後ろ髪に指を通しながら、於喜多は泣きそうな顔で笑った。
「私は、梵天丸様の傍に長く居たけれど…ああまで拒絶された事は、始めてだった。それが凄く辛かった。出来る事なら、理解してあげたいと思っていた。でも…どれだけ考えてみても、片目を失った痛みを実感してさしあげる事は、出来なかったわ。」
だからこうしてお側に仕える事で、梵天丸様の寂しさが、少しでも紛れれば良いのだけれど…と、彼女は続けた。
彼女は、梵天丸の乳母をしていたと、輝宗から聞いてはいた。梵天丸に乳飲み子の頃から乳を与えていた彼女にとっては、息子のようなものなのだろう。
傍に居て常に見守っていたのに、病の所為で口を閉ざし、部屋から出る事すら拒む現状は、彼女にとっても苦痛そのものなのだろう。
は、彼女の気持ちを知り、俯いた。
それに気付いたのか、彼女が不意に問うてきた。
「。どうして輝宗様が、あなたを側仕えにしたのか…分かる?」
「えっ?」
「これは、私の推測だけど。あなたなら、梵天丸様と近い目線で、話が出来る、と思われたのではないかしら?」
「…目線?」
「そう、近い目線。私は、もう二十六だし…梵天丸様に近い目線では、お話することが出来ない。そういえば、輝宗様に『礼儀作法を覚えなくても良い』と言われた時のことは、覚えている?」
「あ、はい。」
「輝宗様がそう仰ったのは、きっと、何か御考えあっての事よ。梵天丸様の御側仕えとして働くにとって、それが邪魔になると思われたからよ、きっと。どうして作法が邪魔になるのかは、分からないけれど…。それが、きっとその『近い目線』に関係すると、私は考えているわ。」
「関係…」
確かに、輝宗に作法を覚えずとも良いと言われた事に、引っ掛かりを感じた。
が仕えるのは、その恩人の嫡子である。
その側仕えをするならば、それ相応の礼儀作法が必要になるのだろう。
同じ歳であっても身分による縦社会であり、『ちょっとした粗相で首が飛ぶ』という話を、この世界へ来る前に耳にした事もある。
だが、あえて輝宗はそう言った。
そして、それにはきっとわけがある。於喜多は、そう言い切った。
「………。」
頭の中を整理してみる。
於喜多の言う、近い目線。自分にとって邪魔になる(らしい)礼儀。
そういえば、側仕えを引き受けた時、輝宗は、何か期待しているような顔をしていた。
それらから出される答えは…。
と、ここで於喜多が、思い出したように「あ!」と言った。
「ねぇ、。先程、輝宗様と偶然御会いしたのだけれど…あなたに言伝を受けていたのを忘れていたわ。」
「言伝、ですか?」
「えぇ。」
そう言い、於喜多は一つ頷くと、続けた。
『失敗なぞ、誰にでもある事。身分や作法なぞ気にとめず、お前は、お前が思った通りに行動してくれれば良い』
その言葉の中に含まれた意こそが、が答えを手に入れる鍵となった。
「………。」
縁側で、話し声が止んだ。
布団に隠っていた所為で内容は聞き取れなかったが、二人分の足音が、そこから遠ざかって行くのが分かる。
どんな話をしているか、誰の話をしているかなど、気にもとめなかった。この目に関しての哀れみか、もしくは、蔑むような話しだろうと思っていた。
少年の心は、ぼろぼろだった。
何も見たくない、聞きたくない、話したくない。
病を患い、高熱を発し、意識が朦朧としていたあの時。
朧げながらも覚えているのは、大好きだった母が、顔を見るなり「なんたる事…そなたは妾の子ではない!』と、金切り声を上げて出て行く後ろ姿。
高熱に浮かされる中、自分が母にとんでもない事をしてしまったのだと思った。
そして、その日から、少年の部屋は離れに移された。
悪い事をしてしまったのだと…「謝りたい」と床に伏せたまま泣いて請うも、周りの者に止められた。「なりませぬ」と。
その時は、どうして母に拒絶されたのか分からなかった。
理由を解したのは、病が完全に直った、とある朝。
鏡に映った自分の容貌。ひっ、と自分自身の喉から上がった悲鳴。
そこには、右の眼球が半分飛び出ている、見るもおぞましい己の顔。
次に、酷く恐ろしく醜い姿となった自分に、涙が出た。
涙は、嗚咽へと変わり、やがては自分でもこんなに声が上げられるのかと思う程のものへ。
悲しみに暮れるあまり、鏡に向かって手当たり次第に何か投げつけた。
自分を写したそれは粉々になって、部屋の中に散乱した。
あの時、母が言っていた言葉が鮮明に蘇り、どうすれば許してもらえるのだろう考えた。考えるだけ考えて、それらを父や家臣に話した。だが、皆がこぞって首を振るだけに留まった。
少年の心が閉ざされるのに、そう時間はかからなかった。
完全に足跡が消えた事を確認すると、上を剥いでゆっくりと起き上がった。
己の右目に巻かれた眼帯に、そっと手で触れてみる。
暖かさは欠片もなく、ひやりとしていた。
暫くそうしていたが、やがてそれを外した。
直に目蓋に触れるも、中身のないそれ。
今日に近いとある日、世話役に「目が飛び出したままでは、戦の際に敵に掴まれてしまいます」と言われ、ならば切って欲しいと頼んだ。
世話役は躊躇せず、太刀で右目を一瞬にして切り取った。
痛みと同時に、沢山の血が吹き出た。
痛くて悲しくて、沢山の涙が出た。
痛みも悲しみも苦しさも、少年の心を犯し尽くす程に湧き出た。
それは、そう時間を経ていないはずなのに、もう幾年も昔の事のように思える。
不意に、じわりと左の目頭が熱くなった。
この目の所為で、今まであった当たり前のものを失ってしまった。
もう、誰も自分の側には居てくれない。
「ふ……うぅっ……。」
ぼろぼろぼろぼろ零れる涙は、少年の心を表すよう、止めどなく流れた。
刻は傷を癒す だが時として それは刻みもする