一章



[傾き者]


 輝宗から言伝を受け、に伝えた翌日。
 於喜多は、まだ日が出る前に起床すると、手早く身支度を整えた。

 彼女は、いつもこの時間に起きる。
 朝と言ってもやる事は沢山あるし、何より彼女は、この時間帯が好きであった。悠々と昇り始める夜明けを告げる朝日は、じんわりと世界を心を暖かくしてくれる。
 それを満足行くまで眺めてから、仕事を始めるべく部屋を出た。
 
 春とはいえ、まだこの地の明けは寒い。
 足袋を履いていても、開け晒しの廊下は冷たく足下から冷え、着物や帯びは厚めといえど、天から降り注ぐ寒さには適わない。
 慣れているとはいえ、床を撫でる風がひやりとしていて、その冷たさに思わず身震いした。





 陽が昇り始めて、数刻。
 一通りの仕事を終え、於喜多が向かったのは、の部屋だった。

 拾って来たと笑みを浮かべた主に言われ、慣れるまではと世話を仰せつかった彼女は、を起こす役もこなしていた。
 於喜多と同様、女中達は夜明け前に起き、仕事を始める。だが、この時間にはそれらが済み、今は、もう小休憩を挟んでいるはずである。

 予想した通り、部屋に着き襖越しに声をかけども全く反応がないということは、『いつもの事』だが、はまだ熟睡しているらしい。

 「ったら…本当に寝ぼすけね。」

 そういえば先日、「なんでそんなに早く起きるんですか?」と、驚いたように目を丸くされてしまった。
 逆に返すなら、ならば一体いつまで寝ているつもりなのか?と考えてしまう疑問ではあった。
 しかし、聞いた話では、変わった着物を着ていたというし、主君である輝宗が、その彼女に何か期待をかけているという事もあったので、於喜多は『面白い娘』で済ませた。

 「、入るわよ。」

 一応の断りを入れるが、まだ彼女は眠っているらしい。
 それに小さく溜息を吐いて、音をさせないように襖を開けた。閉める事もなく苦笑を漏らし、ぐぅぐぅすやすやと眠る少女の布団を、緩やかな動作で剥ぐ。
 だが、悪戯心からそうした於喜多の行動も空しく、肝心のはうぅんと唸り身を捩っただけに終わった。

 「まったく、もう…。、起きなさい。」

 開けっ放しの襖の合間から入る、風。陽も高まったこの時間では、彼女を起こしてくれる期待は出来ないか。
 こうして、悪戯慣れなどしていない於喜多という女性の『珍しい悪戯』は、いとも容易く空回りした。
 よって彼女は、もう一つ溜息を吐くと、地道に声をかけてを起こす事に決めた。





 「ふふーん、ふんふん!」

 は、昨日までの全戦全敗ぶりを忘れさせるような爽やかな笑顔で、足取り軽く歩いていた。
 その前を於喜多が歩くが、彼女の表情には、ただならぬ疲労感が漂っている。

 悪戯の失敗に次ぎ、声をかけを起こそうとしたは、良いとする。
 だが、寝ている身体に春の風は、多少なりとも冷たかったのだろう。次には「んがぁ!」と鼾なのか奇声なのか分からない声を発し、寝ぼけたまま身を捩って強烈な裏拳をくり出してきたのである。
 それは寝ている間の奇行、というよりも、単純に寝返りを打っただけなのであろうが、於喜多は、その奇声に驚いて咄嗟に後ろに尻餅をついた。

 それで彼女は、命拾いしたと言っても良い。

 何故なら、先程まで自分が居た場所は、どん! という畳を殴る鈍い音と共に、べこりと音が付くほど凹みが出来ていた。
 かきのたね、と何か寝言のような事を言い、またも寝返りを打つ少女の裏拳が決まった位置には、少女らしい幼い拳形の凹み。
 この時ほど、目の前で眠る少女が『傾いている』と思った事はなかった。

 確かに、歳の割には上背もあり体格も良いが、たかが寝返りで畳を凹ませる力があるはずがない。力自慢の男は世に多かれど、それを寝ぼけたまま披露する少女など、さらに聞いた事もない。
 『輝宗様は、とんでもない拾い者をした!』と、その強靱な力に冷や汗をかいた。と同時に、これは主君に報告するべきなのだろうと思った。

 「於喜多さん? 於喜多さんってば!」
 「えっ…なにかしら?」

 先程起こった出来事や、考えに没頭していたらしい。
 ぽんぽんと肩を叩き自分を呼ぶ声に、於喜多は我に返った。
 自分の肩を叩く少女の力は、先に起こった事を忘れてしまいそうなほど優しい。
 振り返ると、少女は、にこにこと笑っていた。

 「ねぇ、於喜多さん。お願いがあるんですけど、良いですか?」
 「お願いって?」
 「これから、梵天丸様の朝食じゃないですか。だから、その事でお願いがあるんです。」
 「……なに?」

 嫌な予感がしたが、にこにこ微笑む少女は、気にも留めずによく通る声で言った。





 「ふむ。成る程、が、寝ぼけながら畳をな…。」
 「はい。」

 が口にした『お願い』を迷いながらも承諾し、彼女が厨房へ入るのを見届けると、於喜多は、輝宗に面会すべく早急な取り次ぎを成した。
 米沢の主である主君は、忙しいにも関わらず、「の事で…」という取次ぎには、にべもなく応と返した。

 人払いされた部屋に通され、主から話を促されると、於喜多は先程起こった出来事を話した。
 一通り話し終えると、主は「ふむ…」と一つ唸り、何やら思案している。
 別段、於喜多としてみれば、寝ぼけての裏拳程度ならば報告の必要もないと思っていた。しかし、あの畳の凹みを見てしまえば、彼女が幼いとはいえ、何がしかの警戒は必要になるかもしれない。

 明るく社交的な少女を疑うのは、心苦しいものではあったが、あの力や腕を振る際の素早さは、並大抵の者ではない。もしや暗殺者か、逸れ忍の類では? と考えてしまうのも、致し方ない事だった。
 如何せん、主の連れ帰った人物であるが故に、自分で判断を下すのは難しい。それならば、直接主に対応を決めてもらえば良い、と於喜多はこうして参じたのだ。

 「喜多よ…お前は、どう思う?」
 「私、ですか? 私は…」
 「ここ数日、と接して来た、お前の率直な意見で良い。根拠があるなら、それも付け加えよ。」
 「…はい。」

 暫し頭の中で考えを纏めると、於喜多は話した。

 「輝宗様の仰った様に、ここ数日、と接していただけでは、暗殺者や逸れ忍の類ではないと思います。動きを見ても、体術や剣術を教授されたように見受けられませぬし、知識も博識とは言えず、むしろその逆…。本人も『ここは、知らぬ事ばかりで面白い』と申しておりました。」
 「ふむ。して?」
 「ですが、茶の入れ方も分からないとは…。脱いだものは、脱ぎっぱなしです。それに、済んだ後にすみませんとは言うものの、小さなげっぷはするし、くしゃみも口に手を当てる事すらせず盛大に、ですよ? そうかと思えば、食べた物は厨房まで持って来るという、なんとも…」
 「そうかそうか。」

 途中から、報告ではなく愚痴になってしまったような気になったのは、於喜多本人だけではないのだろう。
 輝宗も、捲し立てるよう口早になっていく『滅多に見られぬ於喜多の愚痴』に、最初は口元だけではあったが、終いには腹を抱えて笑い出した。
 その笑われぶりに羞恥を覚えたのか、於喜多は、かっと頬を染めたが、君主に下らない愚痴を零してしまった己を恥じ、咄嗟に頭を垂れた。

 「も、申し訳ございません。その…の傾きぶりには、私も手を焼いておりまして…。」
 「傾きぶり、か。それは、よくぞ言ったものだ。」
 「あ、その…。ですが、逆にそれを愛しいと思えてしまうので、私自身も少々困っております。」
 「そうかそうか。あぁ、してそれらに根拠はあるか? まだ愚痴があるなら、続けても良いが。」
 「もう、輝宗様! 喜多でお戯れになるのは、お止め下さい!」

 の話となると、輝宗は、優しい顔だちを更に緩ませ続きを請うて来る。確かに、この城の空気までとはいかないが、彼女と接する者は朗らかな気配になってきているのは事実だ。
 そう思いながら、於喜多は続けた。

 「輝宗様は、毎年出向かれる花見場にてを見つけた、と仰っていました。ですが、あそこに輝宗様が行かれる時は、人目を忍んでいらっしゃいますし、お供の方以外は存ぜぬ事。ならば、お供の方が? と考えも致しましたが、あのお方は謀反など起こさぬと、私もよく存じ上げております。」
 「ふむ。して、続きは?」
 「それに、あの一帯には、村落等は見受けられぬはず…。あそこから一番近い村でも、あの花見場へは3日かかると申します。故に、あのような少女が、気紛れだとしても何の荷も持たずに辿り着けるものではないかと…。」
 「やはり、喜多もそう思うたか。」
 「はい。ですが、何か……違和感を感じます。」
 「どのような?」
 「言動や行動も確かに傾いているのですが、何と申しましょうか…。あの歳の頃にしては、些か大人びているというか、それが過ぎているというか…。」

 なんとも歯切れの悪い於喜多の言葉に、輝宗は僅かに眉を寄せた。彼女自身も、それを何と表現して良いか分からぬのだろう。
 視線は宙を彷徨い、だが探しても『違和感』という言葉しか出ないのか「ん…」と唸る。
 しかし、やはりその言葉が打倒と結論づいたのか、「違和感です」と言い切った。

 「恐れながら…輝宗様は、あの子についてどう御考えでございますか?」
 「儂か。」

 じっと自分を見つめて来る、嫡子の乳母である女の目力に、輝宗は目を伏せた。彼女と自分の意見が一致するのかは分からないが、彼女になら供同様、正直な意見を述べても良いだろうと考える。

 「神隠し、ではないか?」
 「……神隠し、でございますか?」
 「お前の言っていた言動や行動も然り、所作や見解全てが儂等とは違うだろう?」
 「えぇ、確かに…。」
 「儂はな、喜多よ。あの娘が、何処ぞで神隠しにあい、何らかの理由でこの地へ置き忘れられたのでは、と考えておる。」
 「それはまた、面妖な…」

 美しい形をした眉が僅かに寄せられ、信じがたいと告げている。
 それに苦笑しながら、輝宗は続けた。

 「八百万の神、その何方かに攫われたかは知らぬが…。しかし神とて、時折、何がしかの用に追われている内に、攫った幼子の事を忘れて何処かへ置き去りにする事もあるだろう。」
 「そういうものでしょうか?」
 「儂も、十割そうだと思い込んでおるわけではない。神隠しなど誰するものぞ、と思っておったしな。しかし、あの変わった着物や、身分に捕われぬような変わり栄えした性格。それに、指の所々に着けておった輪や、耳に飾られた装飾は、説明づかんものが多い。」
 「…左様でございますね。」

 結局、話は、振り出しに戻ってしまった。
 しかしながら、於喜多の名目はあくまで『報告』と『それに対する対応』を伺う事だった為、次の主君の言葉を待った。
 の処遇をどうするかは、目の前の主が決める事であるし、自分はその決定に従えば良いだけのこと。

 「それで、輝宗様。如何致しましょう?」
 「ふむ、そうだな。あの娘は、特に暗殺者の類でもなかろう、というお前の墨付きであるし、このままで良い。警戒も必要ないだろう。」
 「畏まりました。」

 両手を付き深々と頭を垂れると、輝宗が、態とらしく咳払いした。
 如何致しました? と顔を上げると、彼は、今にも吹き出しそうな顔をして言った。

 「それにのう、喜多よ。は、お前の別の一面を引きずり出すという偉業を、たったの数日でやってのけたしの。」
 「ま、酷い仰りようでございますわ、輝宗様! ですが、確かにその通りでございますので、否定は致しません。」

 腹を押さえて笑う主に、於喜多もくすりと笑った。
 と、ここで輝宗は思い出したように、問う。

 「そういえば、はどうした?」
 「でございますか? そ、それが…」
 「ん、構わぬ。言うが良い。」
 「先日、輝宗様からへ宛てられました『思う通りに行動すれば良い』という、言伝の意を汲みまして…。その……私もどうするべきか迷ったのですが…」
 「ふむ、して?」

 於喜多は、楽しそうに続きを問うて来る主君を、『まるでお伽話の先を請うて来る子供のようだ』と思ってしまった。
 しかし、内容が内容なだけに、先を告げる事を躊躇する自分がいる。
 あのような大それた『お願い』を聞き入れてしまった自分が罰せられるのは仕方無いとして、この心優しい主君でも、のその『お願い』を許すのかどうか…。

 いや、許すのだろうとも思った。
 人の良さそうな、虫も殺せぬような笑みを持つこの御方は、けれどには異常な期待をかけている。於喜多自身、十二分に理解していることだ。
 故に、自らが告げた『思う通りに行動しろ』という言葉を覆す事など、絶対にしないだろう。

 ならば、彼女の取るべき行動は、一つしかなかった。
 先程、自分の新たな一面を見た時のように、笑い転げるか。それとも、眼を目一杯見開いて『なんと!?』と驚愕を露にするのか。
 どちらにしても、この調子だと、観念して言わざるを得ぬ状況だ。

 ふぅ、と気取られぬよう溜息をつき、於喜多は言った。

 「は……梵天丸様と朝食を共にするべく、今頃は、厨房より二人分の朝餉を運んでおりましょう。」

 言った矢先に於喜多は『先の懸念は、後者が正解であった』と思った。上座でどっかり腰を下ろしている姿とは裏腹に、主君のその眼は一杯に開かれていたのだから。
 しかし、ああやはり、と思う前に、前者のように笑い始めた。

 怒るのかと思いきや、腹に手を当て笑う主を目に、於喜多も笑いが込み上げて来る。
 そんなに可笑しいのかこの御方は、と思いながらも、ふつふつと笑いは沸き、声として漏れる。
 やがて、笑い過ぎで涙が出て止まらぬ於喜多に、輝宗は更に笑った。嫡子の乳母としてこの城に置き始めて数年、笑い過ぎて泣くこの女の姿など、見た事がなかったからだ。

 ややあって、二人分の笑い声は収まった。
 両者とも涙目で、笑い過ぎで「けほ」と咳き込む於喜多に笑みを浮かべて、輝宗は言った。

 「まっこと、あれは根っからの傾き者よの。身分を気にせず、とは言うたが、次期当主である我が息子と共に、朝餉とは…。」
 「えぇ。ですが、輝宗様…」
 「分かっておる。それが、あの娘にしか出来ぬ事でもあると思うと、これまた愉快な話じゃ。」
 「ふふ、然様でございますか。ですが、本当に宜しいのでしょうか?」
 「なに、構わぬ。になら、梵天丸に何かしら影響を与えられるのでは、と考えての事だ。」
 「あぁ、やはりそうでございましたか。」

 自分の読みが当たっていた、と遠回しに伝える女に笑みを見せ、輝宗は頷いてみせた。

 輝宗には、分かっていた。
 は、身分を気にしないわけではなく、また、自分の置かれた状況を理解していないわけでもない。
 単に、あの娘は、ここの常識や一般知識を知らぬだけなのだ。

 そして彼女は、己の『嫡子』という意味をよく分かっていたのだろう。しかし、だからこそ『嫡子』と『側仕え』いう身分の差が、の本来持っている性質の邪魔となり、輝宗が期待していた『効果』の妨げとなるだろう事も。

 その妨げを取り除いてやれば、彼女は、きっと行動を起こす。
 そしてその読み通り、早速とばかりに彼女は動き出した。

 輝宗は思った。

 あの娘は、誰も考えることなく、また口に出す事すら憚る事を、平然とやってのけてしまう『非常識』さがある、と。
 そして、家臣達が知れば一悶着ありそうな事すら『いったい、それの何がいけないのか?』と言わんばかりに実行してみせるのだろう。
 輝宗自身が『良い』と言った事なのだからと、何を恐れる事もなく、知らぬ内に周りに影響を与えていくのだろう。良くも悪くも。

 それは、きっと息子だけでなく、自分や、目の前で微笑む女性にも。

 「ふむ。見事な傾きぶり。この先どう転ぶか、しかと拝見させてもらうとするか。」

 あの娘の姿を見れば、どう転ぶかなど、自ずと答えは出る。
 そう思いながらも、輝宗は、口元を緩ませずにはいられなかった。





 傾き者な型破り やがて女は 伊達女と変わる