一章
嫡男に対する暴行は、結局、表立つ事はなかった。
あの場に居た、第三者である於喜多は、他人に告げ口をするでも、噂と称して尾ひれを付け、誰かに言い回るという嫌らしい事をする性格でもなかった。
彼女は、あくまであの時起こった出来事を、主に報告しただけだった。
本来ならば、いくら時代が違うとはいえ、あの場で取った自分の行動は、相当な沙汰が下るのだろうと思っていた。もちろん最初は、ひっ叩くつもりなど毛頭なかったし、あれは、つい怒りに我を忘れてしまった大失態だ。
しかし『最悪打ち首だろう…』と、おかしな腹の括り方をしていた自分に下された、主となって久しい人からのお沙汰は、『これからも彼奴を頼む』という言葉だけだった。
それを聞いてまず思ったのは『笑顔の裏で実は相当、腸が煮えくり返っているのでは?』という、許しを得られたというのに酷く疑心暗鬼な考え。
息子を逆ギレで殴られて、眉を顰めぬ親など居まい、と。
だがそれは、すぐに主の嘘偽りのない笑みにより撤回された。
その笑みは、自身の疑いをこれでもかと打ち砕き、また、世界にはこのような部類の人種もいるのだという新たなる考えをも生み出してくれた。
主に対し、再度の感謝と謝罪の意を込めて、改めて頭を垂れた。
そうして、あの事件は、あくまで内々に処理された。
[情愛]
「?」
「………。」
「ってば!」
「は、はい何でしょうか?」
夕刻。
輝宗からの沙汰を恙無く受けた後に待っていたのは、於喜多の説教だった。
とはいえ『手を上げるなど言語道断!』『罵詈雑言は御法度!』といった、ごくごく当たり前の事。
しかしは、言われなくとも、それくらい分かっていた。故に於喜多は、あくまで確認兼最重要項目として、分かっていると『分かっている』に述べたのだ。
互いが互いの心境を察知している為、場には気まずい空気が流れる。
言わなくても言われなくても分かっているのだろう、と互いに認識しているのだ。だからこれは、今回の事を反省し、同じ過ちを繰り返さぬようにという意味合いも込められているだけだと、は苦笑いを零した。
「聞いているの、?」
「いえ、聞いてなかったです。」
「なっ……聞いてなかったの!?」
「聞いてるようで…その……右から左というか…。」
「まったく、あなたって子は…!」
それなら説教している意味がない、と於喜多は怒りを通り越し、更にはそれが呆れに変わったのか、終いには大袈裟に溜息を吐いた。
確かに、分かっている事を反復して脳裏に刻み込んでやらなくてはならないほど、は子供ではない。それに、分かっている人間にこんな事を言うのは、於喜多だって嫌だ。
だが、それでも言っておかなくてはならない事も、勿論、は理解していた。
しかし、そろそろ夕餉の時間である。
自分には任務がある。というか、やりたいし、やらなくてはならない事があるのだ。
ふわ、と風に運ばれて来た味噌汁の良い香りが、鼻孔を掠める。
これはいけない、すぐに準備を整えねばと思ったは、至極真面目な顔を作り、言った。
「すみません、於喜多さん。お説教は、出来れば朝まで聞いていたくなるほど嬉しいんですけど、私そろそろ…」
「!貴女それでも…!!」
「すみません! でも、もう夕飯の時間なので、見逃して下さい!!」
言うが早いか、は、頭を下げてから疾風のごとく駆け出した。本当に、目にも止まらぬ早さで。
於喜多は、慌てて廊下へ出て「待ちなさい!」と言おうとしたが、すでに少女の姿はなかった。部屋から曲り角までは、相当な距離があるというのに。
「……襖は、閉めなさい…。」
声をかける事すら出来なかった於喜多は、少女の驚異的な身体能力に、やはり眉を潜めながらも、ぽつりと呟いた。
「梵天丸様、です。入りますよー。」
二人分の膳を抱えるのは、中々に至難の技だ。
それと知ったのは今朝だったが、そんな事で挫けるわけにはいかない。
行儀良くと思い、膝を付いてそれらを一度床へ置き、一応の断りを入れて襖に手をかける。
しかし、手をかける前に襖が僅かに開いた。
「あれ?」
「………。」
「珍しいですねぇ。御自分で襖を開けるなんて。」
どうやら襖が開いたのは怪奇現象ではなく、梵天丸の手によるものだったようだ。彼は、僅かに開かれた襖から、ぱちぱちと目を瞬かせるをじっと見つめている。にこりと笑って襖を開けると、彼が、一歩後ろへ下がった。
柔らかそうな頬には、跡こそ残っていなかったが、口の中を切ったのだろう、僅かな腫れ。
まだ年端も行かない少年の頬を、怒りで我を忘れたとは言え力任せにひっ叩いてしまった己の不甲斐なさに、思わず顔を顰めそうになったが、なんとか苦笑いだけに留めた。
食事を持っては来た。
だが、その前にやらなくてはならない事がある。
のその想いを知ってか知らずか、梵天丸は、何も言わずにそのまま奥へと戻った。
入って来い、という事なのだろうか。
それとも、顔も見たくないのだろうか。
どちらかは計り兼ねたが、襖を閉めない所を見ると、前者なのだろう。
幼い歩幅で歩く小さな背中を、は、ただ見つめていた。
「梵天丸様。」
向き合うように配された膳に手を付けようとする嫡子に、は待ったをかけた。
ここへ来て、まずやらねばならない事があったからだ。
相変わらず俯いたままの彼は、その言葉に僅かに顔を上げた。
「お食事の前に、少しだけ話を聞いて下さい。」
「………。」
また少し下がってしまった少年の顔を、は、じっと見つめた。
何も言わないのなら返答は応と取ろうと思い、言葉を口にする。
「今朝は、大変失礼致しました。あぁ、失礼という言葉では、全然足りないですよね。」
「………。」
「許して頂けるとは思っておりません。ですが、謝らせて下さい。申し訳ありませんでした!」
そう言って、手を突き深々と頭を下げる。
もちろん相手は許すはずがないのだろうと、一番近い未来を踏まえた上で。
傷付いた少年の心を、さらに抉る所業を自身はやってのけたのだ。
物わかりのある大人ならいざ知らず、感情的である年頃の子供が、己を殴った相手…しかも、たかが側仕えを許せるはずがない。
沈黙が続いた。
少年は、何を思ったか、不意に問うてきた。
「それは……お前自身が、という事か…?」
「えっ?」
梵天丸の言葉の意味を、すぐに理解する事は出来なかった。
それを頭の中で反復し、言葉の中に隠された意味を計る。
それから、ああ成る程という思いと同時に、中々に頭が切れるなこの少年はという苦笑いじみた感情。
答えを告げる為、は、にこりと笑みを作った。
「いいえ、違います。」
「では……側仕えで、という意味か…?」
「ちょっと違います。」
「………。」
ここで説明が必要だろう、とは考えた。
それによって、また少年の心が解れるのではないかと思ったからだ。
「私は、梵天丸様に手を上げ、罵りました。でも私は、私の取った行動が間違っていたとは思っていません。あ、いえ……手を上げた事は、反省してますし謝るべき事だと思っています。だから手を上げた事に関しては、梵天丸様に謝りたいと思いました。でも、先程梵天丸様に申し上げた事は、全て私の思った通りの事です。別に、それに対して後悔はしていませんし、悪い事を言ったとも思っていません。」
「………。」
「言い方は悪いかもしれないですけど…。手を上げたこと以外は、あくまで”側仕え”として謝っています。仕える者が取るべき行動ではなかったと、反省しています。」
続けて「申し訳ありませんでした」と、もう一度頭を下げる。
あの”宣言”をした手前、梵天丸に謝るつもりなど毛頭なかった。
しかし、役職や身分という肩書きが、それをさせざるを得なかったのだ。
いくら主君に『役職を無視せよ』と言われたとて、それは『気にするな。やらなくて良い』というわけではない。
だからは、そう問うて来た少年に、あえて『筋を通したのだ』と、はっきり言った。
そこまで把握出来るのなら、言っても良いと思ったのだ。
いや、頭の切れるこの少年だからこそ、言わなくてはならないだろうと考えた。
「………。」
「それと…。梵天丸様が嫌だと仰るなら、側仕えを外されても仕方ない事だと思っています。怒って手を上げる奴なんて、嫌でしょうし…。出て行けと仰るなら、その通りに致します。」
『もう二度と手を上げない』という誓いを、今ここで立てても良かった。
しかしそれは、絶対と言い切れるわけではない。言い切ったとして、それをどう証明すれば良いのかといった、何とも下らない考えだ。
ならば、そんなまどろっこしい事など止めて、自分の正直な意見を告げた方が良いと思った。
「………。」
梵天丸は、の言葉を最後まで黙って聞いていた。
時折、揺れる瞳を見据えたまま、は、じっと言葉を待った。
やがて彼は顔を上げ、ぽつ、と消え入りそうな声で言った。
「……もう一度……聞きたい…。」
「何をでしょうか?」
もう一度、と言った時点で、彼が何を問うか、なんとなく理解してしまう。それは、あの時の最後の問いと同じく、自身から発される『その答え』も、絶対に変わらない。
悲哀に満ちた瞳が、心持ち不安そうに閉じられ、また開かれた。
「お前は……わしが醜いとは……思わんのか…?」
震える声。
それを聞いて『あぁ、この少年は、それほどまでに己を嫌うのか』と胸が痛んだ。
この時期、尤も必要とするはずの母親に否定されてしまえば、いかに物わかりの良い子供でも、仕方の無いことだったとはいえ、それは己を責める対象となる。如何に物わかりが良いとはいえ、まだ母親が恋しい子供なのだ。
この少年は、だからこそ己を醜いと思い込み、去ってしまった過去に哀願を向け、延々と責め続けたのだろう。
だが、やはり自分の『答え』は、変わらない。
出会って間もないこの少年を、心の底から愛しいと思えたからだ。
どうしてこんなに…こんな自分が、誰かを愛しいと思えるのだろう。
作ったわけでも、そうしなくてはならないとも思う前に、は、込み上げる哀しさを決して出さずに微笑んで見せた。
ゆっくり立ち上がり、少年の横にしゃがみ込む。
潤み、寂しさに惑う幼い瞳が、ゆるゆるとした動作でを捕らえる。
そんな少年を優しく抱き締めて、は、そっとその耳元に『答え』を告げた。
優しく安堵をくれるようなそれに、少年の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「梵天丸様は…?」
「寝ちゃいました。」
夜の帳が下りる頃、息を切らせた於喜多が、ひっそりと顔を出した。
膳を戻しに来るどころか、夕餉を取りに来たきり一度も戻って来ていない、という話を聞き、もしやまた何かあったのでは!? と、小走りにやって来たのだ。
それを知らないは、何事もなかったように、あっけらかんとそう答えた。
「寝たって…」
「ちょっと、色々ありまして…。泣き疲れて、寝ちゃったみたいです。」
「…色々? …泣き疲れた?」
やはり、また何かしでかしたのか、と目を見開いた於喜多の心情を察したのか、は、すぐに首を振り「待って下さい。先に言わせてもらいますけど…」と前置きして、話し出した。
「結果的には……私が泣かせた事になる、のかな?」
「なっ!」
「あぁ、でも今回は、罵詈雑言も暴力も全くないですし、嫌な意味で泣かせたわけじゃないと思います。」
「……そう。」
言葉の意を悟ったのか、於喜多は、ふぅと溜息を吐いて腰を下ろした。
そして、寝ている嫡子を起こさぬ為に、寝間の襖を閉めていたに、こちらへいらっしゃいと手招きする。
は、極力足音を立てずに、於喜多の正面に座った。
「寝間着は?」
「え? 寝ちゃったんで、そのまま布団に運びましたけど。」
「…そう。でも、出来ればこれからは、ちゃんと寝間着に変えてから寝かせて差し上げて。」
「はーい、了解です。」
間の抜けた返事をしながら腕を摩るを、於喜多はちらりと見遣る。
眠そうに目を擦り始めた少女の”頑張り”は、彼女からすれば『まだ子供なのに…』という感想の他に、『どうしてそこまで大人びているのか』という疑問を抱かせた。
主である輝宗が拾い、おかしな格好をしていると聞いた時点で、一体どのような娘なのだろうと気になっていたし、城内も噂が立ったほどだ。
実際に接してみて分かった事だが、一風変わった価値観や言動行動を取り去ってしまえば、なんら普通と変わらない娘である。
しかし解せないのは、その少女の目を見張るような身体能力だった。
あればかりは、見た本人である於喜多しか理解出来ぬだろう。
一発で畳を凹ませた裏拳に、いくら逃げようとしていたからとはいえ、長々とした廊下を、己が顔を出す前に曲がり切ったその脚力。
成る程、と言って良いものかは分からないが、やはり尋常でないの一言に尽きた。
かと思えば、普通に楽しく会話をするし、時折、戯けたように肩を竦めて冗談も言ってのける。
自身が主に告げた『傾いている』というのは、紛れもない真実であるが、いやしかし…。
悪い娘でもなく、むしろ純粋に梵天丸に仕えようとしているのも、ここ数日で痛いほど分かった。
「一体……何者なの?」
「へぃっ?」
思わず口を付いて出た言葉。取り消せはしない。
だが、幸いというべきか、問われた本人は聞こえなかったのか、目を丸くしている。
おかしな安堵が入り交じる溜息をつき、話題を変えようと口を開きかけた於喜多より先に、が、感慨深げな溜息を吐いた。
やけに大人びたその仕種を見て、於喜多は問う。
「どうしたの?」
「いえ…。なんだか、梵天丸様って物凄く大人びてるんだなぁって思って。」
それは、於喜多としてみれば、目の前にいる少女に対して常日頃から思っていた事だが、その少女にそう言わしめたあの嫡子は、於喜多が思っている以上の御方だったのだろう。
確かに、病にかかる前から世話をしている於喜多から見て、内気ではあるが時に大人が面喰らうような質問をして来る梵天丸の鋭さには、舌を巻く事も多かった。
それをこの少女は、ここ数日で見極めてしまったのだろう。
否、今日一日で、と言った方が正しいのかもしれない。
目の前の少女は、もう一つ息を吐きながら、畳を見つめていた。
於喜多は、不意に先程の少女の言葉が気になり、また問うてみた。
「あの内向的ながらも気丈である御嫡男に、何と言ったのか?」と。
問われた少女は、暫く何か考え込んでいたようだが、やがてゆるりと顔を上げると、酷く儚げな笑みを見せて、言った。
「それは……秘密です。」
醜いなどと 思うはずがない
何故なら 私はこれから 誰よりも貴方を愛するだろうから